第二章 彼と私、縮まる距離①

 

『本当はね、もう、すぐにでも付き合いたいくらいだけど……春妃にとってはいきなり過ぎるもんね。だから、まずは互いの事を知っていくのが先かな』
 話の展開についていけずぽかんとしている私に視線を向けた後で、彼……雪人さんはにこやかにそう告げた。そして、自分の服のポケットからメモ帳を取り出すと、何かを書き付ける。
「春妃は、スマホか携帯持ってる?」
「ええ、一応スマホを持ってます。ネット接続とかは少し制限されてるけど……」
「通話とメールが出来るなら大丈夫。後々はSNSとかのアカウントも教えてほしいな」
「SNSはやってないです。友達や父さんとの連絡は電話かメールで十分だし」
「そっか。まぁ無理にする必要もないし、そのままでいいと思うよ」
 そう言って笑った雪人さんから例のメモを手渡された。そのメモに書かれていたのは雪人さんの電話番号とメールアドレスらしい。それらを何となく眺めていると、空メールでいいから自分宛てにすぐにメールを送ってほしいと言われた。
「渡しただけで後から送るってなると、メール送りづらかったりするでしょ。そのまま何日も来ない……なんてなるとあれだから、今の内に送っておいて」
「……はい」
 なるほど確かにそうだ。連絡先だけ渡されると、用がない限りなかなか送れない。そこまでするなんて、暗に逃がさないと言われたような気がして一抹の不安を感じたが、ここは気を遣ってくれたのだろうと思っておく事にした。
 ごそごそとポケットの中を探ってスマホを取り出し、新規メールを作成する。数分後、よろしくお願いしますとだけ打ったメールを彼に送信した。
「ん、きちんと来たから大丈夫だね。手間かけてごめんね」
「いいえ」
 返事をしながら、さりげなく彼の表情をうかがった。画面を凝視している雪人さんは、謝りつつも嬉しそうだ。
「そう言えば春妃、時間は大丈夫?」
「え?」
「俺はもう少し一緒にいたいけど、引き留めて遅刻させたら大変だ」
「あ……そう、ですね。もうそろそろ行かないと」
「そっか。じゃあ、残念だけど……一旦お別れだね」
「はい。お気遣いありがとうございます」
「いやいや、良いんだよ。学期の終わり頃になって遅刻するのは嫌でしょ?」
「そうですね」
 そう言い終わると、雪人さんがおもむろに手を伸ばした。そして、小さい子にするかのようにぽんぽんと頭を撫でられる。
「近いうちに連絡するね。それじゃ」
 最後にもう一度微笑んだ後で、彼はそう言って大通りの方へ歩いていった。

 なぜだろう。頭を撫でられた時に、不思議な懐かしさを感じた。

  ***

 近いうちに、と言っていたから二日三日くらいの間に連絡が来るのかと思いきや。雪人さんからのメールは、その日の夜にはやってきた。
「人それぞれ感覚は違うって言うけれど……」
 メールの文面を読みながら、そんな事を呟く。内容自体は、あの後遅刻する事はなかっただろうかと気遣う内容や、明日も同じ道を通るのかという質問だった。
『学校の方は遅刻せずに済みました。明日以降は……』
 そこで、ふと画面を叩く指が止まってしまった。通る道は同じだけど、今日みたいには歩けないだろう。しかし、それをそのまま伝えるとなると、色々追加で説明する事になる。
「それとも、私が所長の娘って知っていた訳だし、今日会った時は制服着てたし……父に送ってもらうっていうだけでも通じるかしら」
 そう考えて、普段は父に送り迎えしてもらっているので同じ道を車で通る事になる、と付け加えて送信した。
「……ふぅ」
 メールなんて、普段からよく送っているのに。送信ボタンなんて、何十回何百回と押してきたのに。相手が彼だと言うだけで、ボタン一つ押すのにもいちいち緊張してしまう。
 研究所の人達と話したり遊びに連れていってもらったりする事があるので、今まで全く男性と接点がなかったわけではない。けれど、あんなにはっきりと可愛い、好きだと言われた事はなかったから……やっぱり、色々意識してしまう。夢の中の彼によく似ている、というのもその一因だろう。
「……あ、返事来た」
 私はメール一つ送るのに小一時間かかったのだけれど、彼は、ものの数分で返事を送ってきてくれた。
『教えてくれてありがとう。親御さんに送り迎えしてもらっているなら安心だ』
 そんな文面を見た瞬間、私は……そんなに危うく見えるのだろうかと思って、何だか悲しくなってしまった。確かに、それなりの規模の研究所の所長の娘だから誘拐の可能性が無いわけじゃない。それに、街を歩く事があまりないから、世間に疎い所がある事も自覚しているけれど……。
『メールは何時でも送れるから、かえって返信に時間がかかる事も多いだろう? 今までも、夜に送れば返事は翌朝になる事が多かったから、今日の内に返信してもらえて嬉しかったよ』
 そんなどきっとさせられる一言の後、おやすみという挨拶で締め括られて彼のメールは終わっていた。もう一度メールの本文を読み返した後で、何となくそわそわしてぼすんと枕に突っ伏す。
 時間も時間だしと思って少しだけ悩んだ後で、迷惑でなかったのなら良かったです、お休みなさい、という言葉を彼へと送信した。

  ***

「ふーようやくお昼だー!」
「はいはい」
 授業終了と共にそう叫び出し弁当箱を取り出した親友に苦笑しつつ、私の方も取り出す。向かいに座った親友の夏葉が広げている三段重ねの重箱の中身を眺めながら、相変わらず豪華だと感心した。
「今日は唐揚げが中心なの?」
「うん! 一段目が大分中津の唐揚げで、二段目が山賊焼と名古屋の手羽先唐揚げなのー」
「おお……まさに盛り合わせだ」
「うん! このために全国から取り寄せたんだ! 揚げるのは自分でしたんだよ!」
「衣まで付いてるのを頼んだの?」
「そうそう!」
「最近の世の中は便利ねぇ」
「何言ってんの。まだ若いのに」
「年は関係ないでしょ……」
 呆れた声を上げた夏葉をちらっと一瞥し、黙々と自分の弁当を食べ始めた。普通の弁当を毎日作るだけでも大変なのに、この親友は毎日三段重ねの重箱に溢れんばかりの色とりどりの食事をこれでもかと詰め込んでくるのだ。つくづく、食への情熱がすさまじいと思う。
「そういえばさー」
 視線は唐揚げに向けつつ、夏葉が口を開いた。
「春妃、最近楽しそうだよね」
「え、そう?」
「そうだよ! いつも以上ににこにこしてるもん!」
「いつも以上に……?」
「うん。何か良い事あった?」
「良い事、ねぇ……」
 最近になって変わった事と言えば、雪人さんとのメールのやり取りを始めた事くらいだ。それでも、朝晩の二回挨拶を中心としたメールが来るだけなので、そこまで大変とは思わない。何十件も来たら流石に大変だけど、挨拶に加えて今日あった事等について少しやり取りするだけなので、一日の楽しみの一つになっている。
「ほほう、思い当る事があるって顔してるぞ」
「え!」
「春妃は正直だからなぁー」
「え、ええと、その……」
 図星を刺されて、ついしどろもどろになってしまった。別に、隠す事でもないのだけれど、何となく話すのが気恥ずかしい。今まで、恋なんて柄じゃないとか面倒とか、そういう事ばっかり言ってきたから。
「なになに? 顔が赤いけど……さては、彼氏でも出来た?」
「違うよ!」
 間髪いれずに否定した。例え本人の預かり知らぬところであったとしても、私の彼氏に間違われるとか雪人さんに申し訳ない。
「そんな力いっぱい否定しなくても」
「だって事実だもん!」
「そこまで一生懸命だと、逆に勘ぐっちゃうものだけどなぁ」
「何でもないって! 雪人さんは彼氏じゃない!」
 失言をしてしまった、と言うのに気付いたのは、夏葉の顔に浮かぶからかい交じりの笑みが深まった事で分かった。彼の事ばかり考えていたから、名前が口から滑り出してしまったのだろう。
「ふーん、お相手は雪人と言う人なのね」
「う……」
「へー、彼氏とか面倒なだけだし興味ない、なんて言ってた子がねぇー」
「……彼氏じゃないもん」
「彼氏ではないにしても、好感は持ってるんでしょ?」
「…………うん」
 最初こそ度肝を抜かれる様な事をされたけど、悪い人ではないと思う。メールで会話してても、彼の知識とか話に尊敬できる点は多いし。ついでに言えば見た目も好みだ。
 それに、やっぱり不思議な繋がりを感じるのだ。出逢うべくして出逢った、もともと縁があった……そんな、とても論理的には説明できないような、もどかしい感覚。

 これが、俗に言う『運命』と言うやつなのだろうか?