記憶の中に眠る愛(4)

 

第三章 歯車が回り出した
 
『友達というのは、あの男だったのか』
『もう、あの男とは金輪際連絡を取り合うな』
 あの日、玄関の扉を閉めるなり父さんはそう捲くし立てて自室へと向かった。それはあまりにも横暴すぎる、理由もなしにそんな事出来ない、と遠ざかる背中に反論すると、二十歳を超えた大の男が女子高生に近づこうとするなんてやましい理由でもあるに違いない、何かあってからでは遅いんだぞと返ってくる。うまく答えられずにいるうちに、父さんは部屋の中へと入ってしまった。
「それは、流石に極論過ぎないかしら……」
 コートをハンガーに掛け荷物を机の上に置いて、そんな事を呟きながらごろりとベッドの上に寝転がる。私だって、完全に初めましての男の人だったのならそう簡単に連絡先は教えなかったし、二人きりで会おうとだって思わなかった。自分は、そこまで愚かな方ではないと信じているが。
「というか……父さんは雪人さんを知っててもおかしくないよね、雪人さんのご両親がここで働いていたんだもの。面識があるかどうかまでは分からないけど……」
 雪人さんの両親は研究所の研究員だったと聞いた後で、念のためと思って研究員名簿を確認したのだ。そしたら、そこにはきちんとご両親ともに名前が載っていた。だから、少なくとも父さんと雪人さんのご両親には間違いなく面識がある。
「まさか……他でもない雪人さんだから、なんて言わないわよね……?」
 それだと、状況が一気に変わってくる。男性一般を警戒しろ、なのではなくて、雪人さんを警戒しろ、だったのなら……。
「ううん、やめやめ。憶測だけで変に邪推するものじゃないわ」
 それこそ非効率的だ。考え事は、きちんと信頼性のある情報を元に綿密に進めるものだ。かもしれない、かもしれない、を重ねていっては余計に本筋から逸れていってしまう。
「まずは、きちんと正しい事実を知らないと」
 目を閉じて脳裏に浮かぶのは、穏やかな優しい笑顔。どんな理由をつけたって、私があの人に恋焦がれているのは紛れもない事実なのだ。そして、あの人も私を好いてくれている……はずだ、まだ。
 そこで思考を一旦終わらせ、スマホを手に取る。今日のお礼を伝えるために新規メールを作って送り、送信ボタンを押し終えた後で……きらきらと光る夜空を見上げた。

  ***

 数日後の事だった。
『春妃は、確か今月が誕生日だったよね?』
 そんな文面を見て、思わず息を飲んだ。一気に頬が熱くなって、心臓がうるさくなっていく。お互いの誕生日がいつ頃か、という話題は最初の方に少し話したくらいだったのに……覚えてくれていたのか。
「はい、そうです! 来週の土曜日です!」
 ばくばくと逸る心臓を宥めながら、雪人さんに返信する。わざわざ聞くという事は、もしかして……なんて。やっぱり、期待してしまうものだろう。好きな人からの連絡ならば、なおさら。
『その日、少しだけでも会えないかな?』
「きゃーっ!」
 堪え切れずに悲鳴を上げてしまったので、どうしたんだと扉越しに父さんが尋ねてきた。いきなり大きな虫が出てきてびっくりしただけ、もう叩き出したから大丈夫、と嘘をついて事なきを得る。
(お、落ち着け、落ち着け)
 意識してお腹から息を吸い、大きく深呼吸をする。落ち着いてきた頃合いで、投げ飛ばしてしまったスマホを拾うためにベッドから降りた。良かった……壊れてはいないようだ。
(……誕生日には家にいろって、父さんは言っていたけれど)
 この前の小テストの成績も良かったし、夕方には帰る事を条件に出掛けたいと交渉しても良いかもしれない。夏葉にも誘われてるし、途中まで一緒にいてもらえば……万一後日父さんに問い質されても、夏葉と二人で出かけてたらたまたま雪人さんに会った、ちょっとお茶でもしようという話になって、途中からは三人でいた……そんな風に話せば上手く誤魔化せるのではないだろうか。二人には口裏を合わせてもらう必要があるけれど、そこは正直にお願いすれば……きっと二人なら協力してくれるはず。
「私も、会えるなら雪人さんに会いたいです。そこで、あの、提案があるのですが……」
 一時間くらい悩んで文面を考えて、夏葉と雪人さんにそれぞれ送る。双方からOKの返事を貰えたので、一番の強敵を納得させるため、頬を張って気合いを入れ居間へと向かった。

  ***

『午後十六時に家に着くように帰ってくる』
『父さんからのメールには十五分以内に返信をする』
 この二つを条件に、父さんから外出の許可が出た。夕方四時なんて小学生じゃないんだから……とは思ったが、元々は一歩も出るなだったので、それを考えたらかなりの譲歩だろう。
「それじゃ、行ってきます」
「ああ。きちんと定刻までに帰ってくるんだぞ」
「分かってるわ。それなら、夜はケーキでお祝いしましょ」
「……ケーキは昼間に食べるんじゃないのか?」
 当たり前のように言った私の言葉に、父さんは眉を寄せた。一つ食べれば十分だろうと言いたいのだろうが、そんな訳ないだろう。
「それはそれ、これはこれよ。あんみつ堂のケーキを夜に食べるの、毎年の楽しみなの」
「……そうか。それなら、買っておくから」
「ありがとう」
 同じ町内にある、私が生まれた時からある洋菓子店あんみつ堂。小さい頃に、どうして洋菓子店なのに店の名前は和菓子なのかと尋ねた事があるが、いずれはどちらのお菓子も置いて洋和菓子店にするという夢があるからだと教えてくれた。最近、生クリーム入りのどらやきが販売され始めていたから、店長は順調に夢を叶えていっているようだ。
 少しだけ風は冷たいが、空は綺麗に晴れてくれた。弾むような足取り、とは今の自分みたいな歩き方を言うのだろう。普段ならそうそうしないスキップを無意識にしているくらいには、浮かれていた。
 最寄駅から電車に乗り、今日の目的地がある駅へと向かう。改札を出たところで夏葉と会えたので、二人で待ち合わせの場所に向かった。
「……春妃、今日はシンプルなワンピースなんだね」
「うん。大人っぽい感じというか、お姉さんって感じを目指してみた」
「ほーん……そうか、そう言えば雪人さんは大学生だったわね」
「……そうよ。何? 呆れてる?」
「まさか。恋って凄いな、とは思ったけど」
「……そうね。それは、ほんとそう」
 私が好きになった人は、五歳年上の大学三年生。どうしたって年の差は埋められないけど、見た目の雰囲気くらいは縮められないかと思って、普段は読まないようなファッション雑誌を何冊も読んで研究したのだ。
「褒めてもらえるといいね」
 人好きのする笑顔で言ってくれた夏葉に、お礼を告げる。朗らかなこの親友に、何度救われたか分からない。
 そんなこんなで二人話しながら向かっていると、待ち合わせ場所に佇む人影を発見した。茶色がかった、外に跳ねた短髪。すらっと背の高い立ち姿……間違いない、彼だ。
「雪人さん!」
 少し離れたところから呼びかけたけれど、雪人さんはこちらに気づいてくれた。彼は眺めていたスマホを上着のポケットに仕舞い、私と夏葉の方へと視線を向ける。
「こんにちは」
「うん、こんにちは……ああ、隣の方が、春妃が言ってた」
「はい。初めまして、晴野夏葉です」
「こちらこそ初めまして。僕は相沢雪人、大学生です」
「存じてます。確か、県内の大学の工学部だって」
「その通りだよ……春妃から?」
「ええ。最近の春妃は貴方の話ばかりするから、すっかり覚えちゃって」
「夏葉!」
 思わぬ暴露に赤面して、制するように名前を呼んだ。呼ばれた夏葉は、けろっとした顔でこちらを見ている。
「そういうのは言わなくていいから!」
「だって事実だし」
「じっ……事実でも! 伝えなきゃいけないなんて法律はないのよ!」
 必死に言い募っていると、楽しそうな笑い声が聞こえてきた。恐る恐る横を振り向くと、そこにいたのは口元に手を当てながら笑みを零している雪人さん。
「ええと、あの、違うんです! い、いや、間違いではないんですけど、あの」
「大丈夫だよ、少し落ち着こう?」
「え? え?」
「ほら、深呼吸深呼吸」
 完全に脳内が茹だって冷静さを欠いた私に、雪人さんの言葉が染みてくる。とりあえず言われた通りにしようと思って深い呼吸をすると、少しだけほてりが収まってきた。
「落ち着いた?」
「……少しは」
「少しでも冷めたなら上々さ。何、二人は仲が良いんだな、と思って微笑ましくてね」
「まぁ、小学校からの付き合いなので……」
 小学校に入学して同じクラスになって、何かのペア決めでペアになったのがきっかけだったと記憶している。けど、もう、細部はだいぶ忘れてしまった。夏葉も似たような事を言っていたので、本当に何気ないきっかけだったという事なのだろう。
「長く続く友情って凄いよね。僕は、もう、小学校や中学校の頃の友人とはほとんど連絡取ってないや」
 どこか遠くを見つめながら、雪人さんが事も無げに言った。その表情がどことなく寂しそうに見えて、ぎゅっと胸を掴まれたような心地になる。
「そろそろ出発しない? あまり時間もないし」
「あっ……そっか、そうだね。雪人さんもそれで宜しいですか?」
「僕も大丈夫だよ」
 せっかくの機会なのだから、時間を浪費するのは勿体ない。まずはしっかりと腹ごしらえをして、今日のメインを楽しまないと。
「それじゃあまずは、お昼食べましょう!」
「予約しててくれたんだよね。どんな店だっけ?」
「ええとですね、学生でも行きやすいような、カジュアルなフレンチのお店で……」
 説明をしながら、二人を誘導していく。一緒にご飯を食べて、お出かけして。今からもう楽しみで仕方がなかった。

  ***

「むふー、美味しかった!」
「ご満足頂けたなら何より」
「春妃が選ぶお店はほぼ間違いなく美味しいから、今回も美味しいだろうとは思ってたんだけどね……想像以上だったわ」
「そう? グルメの夏葉に信頼してもらってるなんて光栄ね」
「春妃の味覚と理系科目の成績は信頼してるよ」
「どういう意味よ!」
 食って掛かって肩を揺さぶると、夏葉の口から抗議の声が上がった。そんな言い方されたら、私の文系科目の成績は悪いと雪人さんに思われてしまうじゃないか。
「雪人さん、違いますからね! 私、文系科目も普通に平均点ありますから!」
「うん。そんなに必死になって弁解しようとするなんて、春妃は可愛いね」
「ひえっ」
「良かったじゃん、褒められたよ」
「夏葉ステイ!」
 ほとんど涙目で叫ぶと、二人分の笑い声が聞こえてきた。親友とも片想いしている相手とも一緒にいられるなんて、今年の誕生日は一石二鳥……とか考えていた今朝の自分を殴ってやりたい。
「腹ごしらえも終わりましたし、今日のメインに行きますよ!」
「はぁい」
「了解。水族館だったっけ」
「そうです。一か月前にリニューアルしたって聞いたから、行ってみたくて」
 昔から、水族館とか海とかの水に関わる場所が好きだった。きっと、水の気配がある場所では少しだけのんびりしても良いかと思えるからだろうと思う。それが何でなのかは、さっぱり分からないのだけど。
「水族館入ったらすぐに別行動する?」
「え……夏葉が良いなら、一周は一緒にしたい」
「……お誕生日様がそう言うなら仕方ないわね。さっきからだいぶ二人に当てられてるから自由になりたいんだけど、もうちょっと一緒にいるわ」
 じとっとした目を向けられたが、心当たりがなかったので首を捻った。別に、そんなにべたべたとくっついている訳ではないと思うのだが。そもそも、私たちは付き合っている恋人同士とかではない。
「付き合う前から無自覚にこれなんて。自覚して事実になったらどうなるのかしらね」
 辛うじて私に聞こえるくらいの声量で、夏葉がぼそりと囁いた。聞こえなかったらしい雪人さんは不思議そうな顔をしているが、聞こえた私の頬はカッと熱を持つ。きっと、見た目にも真っ赤になっているのだろう。
「夏葉ちゃん、どうかしたのかい?」
「二人は本当に仲が良いなと思いまして。付き合いは私の方が長い筈なのに」
「ふふ、嫉妬かな?」
「ご想像にお任せします……それじゃあ、入場しましょうか」
 行こうと言われて手を引かれたので、抵抗せずについていく。そんな私の後を、雪人さんが更についていく。
「……そうだね。一緒にいた期間、なら確かに君の方が長いんだろう」
「雪人さん、何かおっしゃいましたか?」
「何でもないよ。入場料はいくらだったっけ」
「高校生以上になるので二千三百五十円です」
 ゲート横のパネルを見ながら答えると、雪人さんはおもむろに財布の中を確認し始めた。うん、大丈夫だ、と聞こえるが……まさか。
「二人の分も俺が払うよ。すみません、大人三人で」
「あ、私は年パス持ってるので入場料いらないんです。ご自身の分と春妃の分だけお願い出来ますか? 私のパス特典があるから、二人とも二割引でいけますよ」
「ありがとう……じゃあ、大人二人でお願いします」
「かしこまりました。三千七百六十円でございます」
 夏葉の年パスを確認した受付のお姉さんが、にこにこ笑いながら料金を告げる。私に口を挟む隙を与える事無く雪人さんは支払いを済ませてしまったので、大人しくチケットを受け取った。
「食事代まで出して頂いたのに……こっちまですみません」
「春妃は今日誕生日なんだから、遠慮する事はないんだよ。俺はバイトとかで稼いでるし大丈夫」
「……でも! されっぱなしは嫌です! お土産は私が買いますから!」
 雪人さんに一歩近づいてそう宣言し、先に入っていた夏葉の元へと駆け寄る。少し遅れてゲートをくぐった雪人さんの顔は、さっきの私と負けず劣らずの色に染まっていた。

  ***

 薄暗い通路を通りながら、左右の水槽を眺めていく。さっきも同じように眺めていた筈なのに、まるで見え方が違う気がする。
「ねぇ、さっきは気づかなかったけど……水槽の奥にもう一匹いたんだね」
「えっあ……そうですね。擬態していたんでしょうか」
「擬態というか、元々砂に近い色みたいだ。似た色で動かなければ、気づき難いのも無理はないな」
「……詳しいんですね」
「何、横の説明文を読んでおいただけだよ」
 雪人さんは楽しそうに笑っているけれど、正直私はそれどころではなかった。好きな人と二人きり……なんて今にも心臓が口から飛び出てきそうだ、比喩でなく。
「それにしても、夏葉ちゃんが年パスを持っていたとは驚いた」
「あ、ああ……昔から、夏葉は生き物が好きだから。水族館だけじゃなくて、動物園のサポーターにもなってますよ」
「動物園のサポーター? そんな制度があるんだね」
「簡単に言えば寄付制度ですね。寄付者の特典として年パス渡してるみたいです」
「なるほど。動物の助けになれて自分も得して、ウィンウィンってやつか」
「ですね」
 つらつらと会話しながら、ゆっくりと進路を進んでいく。もう一度大水槽の前にやってきたが、相変わらずの迫力だ。
「春妃は?」
「私?」
「春妃は、生き物好き?」
「……好きか嫌いかの二択なら、好きになりますね。でも、夏葉ほどではないです」
 年パスは特に持っていないし、動物園も水族館も一人で行こうとは思わない。一人で行きたくなるのは、海とか湖とかだ。実際に一人で行けた事はないけれど。
「雪人さんはどうなんですか?」
「俺?」
「はい。雪人さんは、生き物……というか動物好きですか?」
「俺は植物の方が良いかな。広義的に言えば植物も生き物だけど」
「それもそうですね」
 周りに人がいなかったので、さっきよりも水槽に近づいた。大きなサメが目の前を横切っていったので、何とはなしに目で追っていく。
「……あのさ、春妃」
「はい、何でしょう」
「春妃はさ、植物の中では何が一番好き?」
「植物ですか?」
「うん。唐突で申し訳ないんだけどさ、答えてくれると嬉しいな」
「んん……そうですね、植物……」
 植物そのものは色々と脳裏に浮かぶが、好きとか嫌いとかっていう概念で考えた事はなかったのでなかなか決め手に欠ける。ああ、でも、そうだ、好きというか、思い出深くて印象的なのは……。
「桜ですかね」
 そう答えた瞬間、雪人さんが息を飲んだ音が聞こえてきた。どうしたんだろうと思って振り向いたけれど、水族館の館内は照明が絞られているので表情が分かりづらい。
「小さい頃に家族三人で部屋から花見してたからっていうのもあるんですけど……中学に上がった頃から、夢にもよく出てくるようになったんです」
「どんな、ゆめ?」
「……綺麗に咲き誇っている桜の木が一本あって、私はその桜の木を見ている場面から始まります。しばらくしたら強い風が吹いて桜の花びらが舞って……私よりも年上だろうと思われる、青年が現れるんです」
「……その青年は、何を言ってる?」
「何も。じっと私の方を見てくるけど、会話らしい会話はなくて。だけど、もう、何度も何度も夢に出てくるから、どんな人なんだろうとは思って……こっちから話しかけようとするんですけど、いつも桜吹雪の中に消えていってしまって、目が覚めるんです」
 こんな夢の話をされても迷惑だったかな、とは言い終わってから気づいたけれど。でも、話題を振ってきたのは雪人さんだし追加で質問もされたくらいだから、問題はないだろう。
「……その人さ、見た目とか、どんな風?」
 そう聞かれて、うっと言葉に詰まった。馬鹿正直に雪人さんに似ている、と答えるのも気恥ずかしいけれど、嘘をついたりはぐらかしたりするような事でもなさそうだし。というか……そうやって逃げるのは許さない、と言わんばかりの気迫が彼の顔には浮かんでいた。
「雪人さんに似てるんです。少し外に跳ねた茶色がかった黒髪で、夜空のみたいな深い色の目をしてるから」
 恥ずかしいのを必死に堪えて、正直にそう告げた。と、その瞬間、雪人さんがいきなり私の腕を掴んできた。
「……ひゃあ!?」
 気が付いた時には、彼の腕の中に囲われていた。初めて会った時みたいに強く強く抱き締められて、全身が沸騰してしまったみたいになる。
「好きだよ」
 耳元に吹き込まれた言葉は、いつになく震えていた。まだ好きでいてくれたのだという喜びが、血液に乗って駆け巡る。
「春妃の事が、ずっと好きだよ。ずっと、ずっと……忘れられなくて、好きは募るばかりで、ずっと……」
 しかし、続いた言葉のせいで頭の片隅がすっと冷えた。私と彼は、まだ出会って一か月も経っていない。だけど、その言い方だと……まるで、彼は、何年も前から私を知っていると言っているかのようだ。
「あ、の……雪人さん」
「ごめん、嫌じゃなかったら、しばらくこうさせて」
「嫌ではないんですけど……ええと……」
「お願い、春妃」
 そう言われてしまっては、断り切れない。いつ人がくるかも分からないような場所でとは思ったが、水を差すのも悪い気がするし。
(……さっきの疑問は、帰りにでも確認してみよう)
 ひとまずはそう考えて自分の心を折り合いをつけ、しがみついてくる彼の背をずっと撫でていた。

  ***

「……お恥ずかしい所をお見せ致しました」
「いえ、それは……大丈夫なんですけども」
「俺の精神が大丈夫じゃない……ごめんね……」
 雪人さんに抱き締められる事十数分。団体らしき人々の会話が聞こえてきたので、彼を引きずるように壁の方へ連れて行ったら、そんな風に謝られた。最後の方はちょっと可愛いなぁなんて思っていたくらいなので、本当に気にしないで欲しいのだが。
「でも……あの」
「うん?」
「ありがとうございます……まだ、私の事好きでいてくれて」
「え……まだ?」
「はい。初めて会った時におっしゃって下さいましたけど、その後は特に話題になる事なかったから……今はどうなんだろうなって思っていたので」
「……ああ、成程」
 どう切り返したらいいかがまるで分らなかったので、取り繕うことない本心を述べてみた。私は一生詐欺師にはなれそうもない。
「んー……聞きたい事っていうか、話したい事とかは色々あるんだけどさ」
「話したい事、ですか」
「そう。だけど、時間押してきたし、人の前でするのも無粋だし、もう出ようか……あ、まだ見たいものとかある?」
「既に一通り見てますし大丈夫ですよ。私も、それが良いと思います」
「うん。じゃあ、そうしようか」
 一旦諸々を保留にして、出口へと向かう事になった。館内マップをもう一度確認して場所を確認し、そちらの方へと体を向ける。その瞬間、私の右手が彼の左手によって包まれた。思わず雪人さんの方を確認すると、彼の視線はこちらではなく館内の案内表示に向いている。恐らく、無意識の行動だったのだろう。
 特に離す理由もないし、正直嬉しいと思ったので、下手に騒がずに大人しく付いていく事にした。しかし、私の手を握っていた事に気づいたらしい彼は……引き留める間もなく、ぱっと手を離してしまった。
「ごめ、ごめん。つい、無意識で」
「大丈夫ですよ。せっかくだから、あの……」
 そう言って、彼の目の前に右手を差し出した。雪人さんは、いつになく真っ赤に顔を染めて慌てている。怯まずにじっと見つめ続けていると、分かったと震えが混じる声と共にもう一度握られた。自分からはぐいぐい来る割に、こちらから働きかけるとよく狼狽えている気がする……彼の恥じらうポイントがいまいち掴めない。
 無事に手を繋ぐ事に成功したので、距離も少しだけ詰めて歩き出した。出口付近にある売店でお土産を吟味し、可愛らしいデザインの缶クッキーと可愛いペンギンのアクリルキーホルダー、海をイメージしたデザインのボールペンを購入する。雪人さんの分も纏めて会計が出来たので、ほっと胸を撫で下ろした。
「ごめんね、ありがとう」
「いいえ。私の方がもっと頂いてますし」
「気にしないで良いのに」
「……今日だけでいくら使ったか思い出してほしいんだけど」
 じとっとした目を向けながら、彼には聞こえないように呟いた。当の本人は、ボールペンを嬉しそうに眺めている。
「実用的な物を選ばれましたね」
「ああ、うん……前に使ってたのが、丁度インク切れちゃってね。買わないといけないな、と思っていたものだから」
「キーホルダーとかは、あまりお好きではないですか?」
「そういう訳ではないけど、物は使ってこそだと思うし、どちらかというと実際の生活で使う物を選ぶ事が多いかな」
「そうなんですね」
 その辺は価値観の違いだろうか。私は、そんな沢山は欲しいと思わないけれど、ご当地キーホルダーとかグッズは好きな方だ。
「……さて、春妃」
「何でしょうか」
「今の段階での、返事を聞かせてもらってもいいかな」
「返事、ですか」
「うん。俺はね、春妃の事を一人の女性として愛しているから、春妃が承諾してくれるなら恋人同士になりたいんだよ」
 彼の瞳は、怖いくらいに綺麗だった。視線を逸らす事は許さないとでもいうかのように、まっすぐこちらを見つめている。
「春妃は、どう? 俺の事、どう思ってる?」
「……」
 どう思っているか、というならば。それは勿論、私だって貴方を好きだという答えになるけれど。でも、今この瞬間から彼と恋人になりたいか、と言われると頷けない。
 私は、小さい頃から『研究』というものに触れてきた。そして、そんな『研究』を成功させるために必要なのは、何よりも慎重さだというのを理解し体感している。時には大胆に攻める事も必要だけれども、基本的には周到で綿密な準備がいるし、多角的なシミュレーションにスケジュール管理、納得のいく結果が出るまで何度も何度も試行錯誤しながら検証を積み重ねていく持続力、そして、過不足なく検証結果を評価するための冷静さが不可欠だ。だから……不安要素が多い現状では、私がどんなに彼を好きなんだとしても、彼との関係を変えるべきでないというのが結論である。
「……私、は」
 ようやく話し始めた私の事を、雪人さんは射貫くような視線で見つめてきた。それに押し負ける事がないように気合いを入れて、自分なりに出した答えを丁寧に告げていくこうと試みる。
「単純に好きか嫌いかで言うのならば、私も雪人さんが好きです。そして、好きの種類も、貴方と同じ種類の……恋愛の色が強い『好き』です」
 そこまで告げて一旦言葉を切り、雪人さんの様子を伺った。彼は嬉しそうに、頬を染めてはにかんでいる。
「それなら、さ」
「でも、付き合うとか恋人とかは、正直まだ考えられません」
 はっきりと言い切ったら、雪人さんの顔から表情が無くなった。あれだけ赤かった顔色も、今は青く感じられる程だ。
「それは、どうして?」
「……私が、まだ高校生だから」
 当たらずとも遠からず、そんな理由を口にした。私は、ようやく今日で人生満十六年を迎えた人間だ。その程度の人生の積み重ねで、父さんが会うなと言っていた人物に、明らかに私の認識と齟齬があるような事実を滲ませている人物に、ついて行っていいのか判断するのは早計だと思うから。だから、雪人さん自身の事をもっと沢山知って、父さんが反対する理由も知った上で、感情に従うのか理性に従うのかを判断出来るように、時間が欲しい。
「……そっか」
 高校生だからとしか言わなかったから、もっと説明を求められるかと思ったけれど。予想に反して、雪人さんは納得してくれたようだ。能面のようだった表情が幾分か和らいで、普段に近い優しい表情に戻っている。
「良いよ。春妃の気が進まないのに、無理強いするのは気が引けるし」
「ありがとうございます……重ね重ね、すみません」
 宙ぶらりんな状況にしてしまっているのは自覚しているので、謝罪の言葉も併せて告げる。すると、雪人さんがこちらに近づいてきた。
「気にしないで。十年待ってたんだ。今更数年追加したって俺の気持ちは変わらない」
「それは、どういう……っ!?」
 触れられる距離まで近づいていた雪人さんがポケットから何かを取り出したのと、ぐらりと視界が歪んだのはほぼ同時だった。続けようとしていた言葉は音にならずに消えていき、瞼が重くなっていく。
「……可愛い春妃。もう少しだけ、付き合ってね」
 ほとんど失いかけた意識の中で、彼の声だけが響いていた。

  ***

「……ここは?」
 まだぐらぐらする頭を押さえつつ、よっこらしょと体を起こす。ばさりと落ちていった物を確認したが、タオルケットのようだ。
「気が付いた?」
 そんな言葉が聞こえてきて、弾かれる様に振り返った。視線の先にいた雪人さんは、マグカップとティーポットを持っている。
「手荒な事してごめんね。でも、必要な事だったから」
「……私を眠らせて、ここに連れて来る事が?」
「うん。ああ、ここは僕が一人暮らししてるアパートだから、春妃の家からさほど遠くはないよ。安心してもらっていい」
「そうですか、それじゃ」
 今すぐ帰って謝れば、叱られるだけで済むかもしれない。そう思って腰を浮かせかけるのと、ティーポットたちを机の上に置いた雪人さんが口を開いたのは同時だった。
「……まぁ、帰せるのは明日になるけれど」
「明日!? それじゃ困ります!」
 父さんとの約束の一つは『午後十六時に家に帰ってくる』だ。時計が見当たらないので正確な時間は分からないが、確認出来た窓の外はもう暗くなっている。雪人さんだって、約束の事は知っている筈なのに!
「私の荷物、どこですか? 埋め合わせはまた今度しますから!」
「そう言われてもね……ここまでして連れてきた子を、素直に帰すと思う?」
「……何が目的なんですか」
 心の中に、嵐が吹き荒れる。まさか、まさか……好きだと言ってくれたのも、笑ってくれたのも、全部、この瞬間のためだったと言うのだろうか。私をここに閉じ込めて、身代金なり研究データなりを、要求するつもりだった?
「……春妃が忘れてしまった記憶を、取り戻してもらうため」
 予想外の言葉が返ってきて、一瞬動きを止めてしまった。そんな私の隙を逃さずに、雪人さんは私を寝かせていたベッドの上に押し倒して私の上にのしかかる。見上げた彼の瞳から、じっとりと張り付くような気配を感じた。
「何を、私が忘れていると?」
「それは、じきに分かるさ……そのために、わざわざここに連れてきたんだ」
「何、それ!」
「何があっても、今日は家には帰さない。今日帰られたら、僕の悲願が叶わなくなるから」
「どういう、意味……」
 零れ落ちた私の言葉に、雪人さんは何も言葉を返さなかった。ただただじっと見降ろしてくるばかりで、黙って私を見つめている。

 出会って初めて、彼の事を恐ろしいと思った。

  (続)

 

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