記憶の中に眠る愛(5)

 

第四章 それはどちらも、愛ゆえに

「春妃が大人しくしていてくれるなら、別に危害は加えないよ」
 そう言った雪人さんが、私の手首を掴んでいた手を放して体を起こす。体を起こすくらいなら良いだろうかと思って一緒に起き上がってみると、一瞥はされたものの特に咎められはしなかった。
「喉乾いてない? 紅茶飲む?」
「何の紅茶ですか」
「アッサム。ちょっと濃いめに入れてミルクティーにするのが好きでね」
「……」
「茶葉とお湯以外は何も入れてないよ。ほら、同じものを飲んでる僕がどうもないだろう?」
「……そうですね。それなら頂きます」
「ミルクティーにして良い?」
「はい」
 喉が渇いていたのも確かなので、彼の申し出を受け取っておいた。数分後差し出されたティーカップの中からは、ふわりと良い香りが立ち込める。
「……あの」
「何だい?」
「一晩此処に居ろ、と言うのならば……色々質問しても良いですか? 聞きたい事や確認したい事はたくさんありますし、一晩何もしないで過ごすのは、何というか……」
「落ち着かない?」
「……そうです」
 予想外の展開に落ち着かないというのに加えて、好きな人の家で好きな人と二人きりなのだ。向こうの思惑が何であれ、私は、まだ、この人の事を……。
「答えられる事になら。恥ずかしながら、詳細は知らないって事もあってね」
 そう言って肩を竦めている雪人さんの事を、じいっと見上げてみた。私の視線に気づいたらしい彼は、どうしたのかと言いたげな表情になったけれど、何も言わずにそのまま見つめ続けてみる。たっぷり三分は見つめ合った頃合いに、雪人さんは頬を真っ赤に染めて照れた様子で視線を逸らした。
「な、何……そんな見られると、恥ずかしいんだけど……」
「気になさらないで下さい。女子高生の間で最近流行っている遊びなので」
 尋問、もとい質問がある時には、こちらが主導権を握っていた方が話を有利に運びやすい。そんな訳で、雪人さんの調子を崩せないかと思ってそんな事をしてみたが、上手くいったようだ。流行っている云々の話は、夏葉が私に頼み事をする時にやってくるので、あながち間違いでもないだろう。
「ええと、一つ目の質問なんですけど。雪人さんは、私の事……三週間前に桜の木の下で会う前から、ご存じだったんですか?」
「あ、ああ……うん。そうだよ」
 一つ目のピースが嵌った。今までの彼の言動からそうじゃないかとは思っていたけれど、確かだったようだ。
「お察しの通り、僕と春妃はあの瞬間よりも前に、既に出会ってた」
「それっていつ頃です? 雪人さん、十年前がどうのっておっしゃってたから、それくらいの時期ですか?」
「うん。春妃は小学校に上がる直前で、俺は六年生になる直前だった」
「小学生になる直前……」
 という事はつまり、幼稚園の年長だったという事だ。幼稚園の時の出来事なんて、確かに記憶があやふやだけれども……それでも、幼稚園の先生とか遊具とか、当時遊んでいた友達とかは何となくでも思い出せる。それなのに、雪人さんの事を会った事があるという事実すら完全に忘れてしまっていたなんて、現実有り得るのだろうか。
「……十年前から待っていたって事は。十年前にも、雪人さんは私に告白して下さったんですか?」
「そうだよ。俺の方から春妃に向かってはっきり好きだと告げたし、春妃も同じ気持ちだと答えてくれた。何なら、離れ離れで寂しいから毎月手紙を書こうね、とも約束した」
「…………」
 いくら必死に考えても、そんな記憶どこにもない。だけど、雪人さんの目はとても綺麗で真剣で、嘘を付いているようには、とても思えなかった。
 欠片だけでも、思い出せないだろうか。愛する人が、かつてくれた愛の言葉を。忘れたまま彼との関係を進展させるのはとても不義理な気がするから、何か一欠片の言の葉だけでも。そう思って、さらに記憶を辿る。すると、何の前触れもなく、脈打つような激痛が頭を襲った。
「痛っ……」
「春妃!?」
「す、すみません……少し、頭痛が」
「ああ、そっか……こうしてたら、少しは治まるかな」
 そう言った雪人さんは、私の肩を抱き寄せた後で二人の上に布団を被せた。視界が闇に覆われて、少しだけ痛みが和らいていく。
「眠たくなったら寝ても良いよ。春妃に必要以上の負荷を掛けるのは、本意ではないんだ」
 雪人さんの体温と布団の温かさに包まれて、一瞬だけ思考が眠りの淵に行きかけたけれど。だけど、この温もりに、甘える訳にはいかない。
「眠くはないので、このまま話を続けても良いですか?」
「春妃が大丈夫なら」
「ありがとうございます……先程の話、ちょっと腑に落ちなくて」
「どの辺りが?」
 声が固く冷たく聞こえて、周りの空気がぴしりと音を立てた気がしたのは、気のせいではないだろう。貴方が嘘を言っているとは思っていませんよと付け加えると、彼が纏う雰囲気が優しいものに戻った。
「……私、当時年長だったんですよね?」
「うん。間違いない」
「年長なら、流石に……好きな人に告白されて返事をしたっていう事実を忘れないと思うんです。そんなイレギュラーというか……普通の日常とは違う、とびきり嬉しかった事を、あった事実すら丸ごと忘れるなんて、不自然だなって思って」
 とつとつと自分の意見を伝えると、雪人さんが息を飲んだ。春妃は本当に賢いね、なんていう言葉が、頭上へと降りてくる。
「本来ならば有り得そうにない事態が、現実に起こった。それは、嬉しかったという高揚を上回る程の衝撃とか苦しみとか、悲しみがあったから上書きされてしまったという可能性も、ありますよね」
「……あるね」
「それなら、私が雪人さんの事を、雪人さんが好きだったって事を忘れてしまっていたのは……母さんが事故死したというショックな記憶を忘れて自分を守ろうとした時に、一緒に忘れてしまったという事ですか?」
 私が投げかけた言葉を受け取った雪人さんは、唇を引き結んで押し黙った。眉間に皺を寄せて難しい顔をしているが、果たして正か否か。
「……半分正解で、半分不正解だ」
「どういう事ですか?」
「春妃があの頃の記憶をごっそり失くしてしまったのが、お母さんの死のショックに連動しているのは合ってる」
「それなら、何が」
「まず一つ。春妃のお母さんは、事故死じゃない」
「……え」
 嘘だ。それなら、どうして、母さんは私と父さんを置いてこの世からいなくなってしまったというの!
「そして、もう一つ」
「もう、ひとつ」

「春妃があの頃の記憶を全部失ったのは、君のお父さんの仕業だ」

 目の前の闇が更に深く濃くなって、冷たく纏わりついてきたような、気がした。

  ***

(母さんは事故死じゃなかった。忘れていたのは、父さんのせいだった)
 告げられた事実に眩暈がしてくる。今の今までずっと信じてきた事が真実ではなかった、真実と思っていた事がまやかしだった……こつこつと培ってきたものが崩れ落ちる瞬間というのは、こんな感じなのだろうか。
「事……事故死じゃないなら、私の母さんは、どうして」
「……ごめん、俺も両親から聞いた概要しか知らないんだ。確かに、事故と言えなくもないと思うし衝動的なものだったんだろうけど、それでも、罪は罪だ」
 そこで一旦言葉を切った雪人さんは、もう一度私の体を抱え直した。体に直に触れる体温を以てしても、逸る鼓動は収まらなかったけれど。
「……母さんは、何かの事件に巻き込まれたという事ですか?」
「そうなるね。春妃のお母さんは……」
「母さんは?」
「……春妃を誘拐しようとした犯人によって殺されたと、聞いているよ」
 聞こえてきた甲高い叫び声は、自分の口から発せられたものだった。雪人さんが抱き締める腕の強さを強めてくれたけど、溢れる嗚咽は止まらない。
「そんな、そんな。それなら、母さんは、わた、わたしの、せいで」
「違う。それは、断じて違う」
「だけど、かあさんは、とうさんは、いつだって私に周りに気を付けるようにって言ってた。それを、わたしは、やぶったんじゃないの? だから」
「違うよ。研究所の庭の中で遊んでいた春妃を、犯人が正面から押し入って連れて行こうとしたらしいんだ。それで、春妃の悲鳴に気づいたお母さんが駆け付けて、娘を返してって言って犯人に縋り付いた瞬間渾身の力で突き飛ばされたって」
「それなら、わたしが悲鳴を上げたせいだ!」
「違う! 春妃のお母さんは、ご自身の額を切っても、青あざが出来ても、それでも返せって言って揉み合いになって犯人の顔をはっきり見たからだ! だから、犯人は春妃を置いて逃げようとした際に、警察への通報や逮捕を恐れて、春妃のお母さんを」
「いやあああああああ!」
 それ以上聞いていられなくて、今度は自分の意志で叫び声を上げた。もうやめて、言わないで、ごめんなさい、母さん、どうして……脈絡のない言葉が、浮かんだ端から消えて、消えた端から浮かんでいく。
「春妃! そこにいるのか!?」
 混乱を極めていた頭の中に、聞き慣れた声が響き渡った。どうして、ここに来られたのだろうか。分からないけれど、でも、少しだけ言葉の海に溺れそうになっていたのから意識が救い上げられる。
「父さん!? どうしてここが!?」
「説明は後だ! 今助けるから!」
「……させるか!」
 唸るように叫んだ雪人さんが、私を離して布団の中から出て行ってしまった。ぽっかり空いた空間が寂しくて、一人は心細くて、彼を追いかけるため私も布団の中から抜け出して彼の元へ行こうとする。
「っ!?」
 薄暗くて温かい布団の中から出て蛍光灯の光を浴びた瞬間、脳裏でちかちかと何かが瞬いた。一瞬の内にたくさんの映像が流れ込んできて、目の前が回るような感覚に立っていられなくなる。
 遠くの方で、大きな物音がした。ばたばたと走る足音が、たくさん聞こえてくる。
「春妃、もう大丈夫だ! さあ、これを」
「だめだ! 飲んじゃいけない! もう飲まなくても大丈夫だ!」
「お前は春妃を苦しめたいのか!? 身勝手な欲望に、この子を巻き込むな!」
「あんたに何が分かる! 俺が、どんな、どんな思いで、この十年を過ごしてきたと!」
 二人が争う声が、だんだん遠くなっていった。頭の中に溢れる大量の情報が、私の自我をゆっくりと眠らせていく。これが、いわゆるキャパオーバーってやつだろうか。
「思い出してくれ!」
 薄れゆく意識の中で、彼の叫びだけがくっきりと鮮明に響いた。落ちかけていた意識が、少しだけ現実に引き戻される。
「思い出したせいで戻ってきた恐怖は、トラウマは、乗り越えられるように俺がずっと一緒にいるから!」
 ずっと一緒にいてくれるの? 私は、あなたの事を、欠片も覚えていなかった大罪人なのに?
「だから、もう一度、僕の事を……僕が好きだったって、お互い好きだったって、僕らは両想いの恋人同士だったって思い出してくれ!」
 愛する人の絶叫がこだました。愛するあなたが、こんなにも悲痛な様子で願いを叫んでいる。ああ、そうだ……あの時もあなたは泣いていたから。だから、励ましたくて、笑ってほしくて、縁が途切れないように、紙に想いを綴って贈り合おうと、やくそくした。
 そんな約束を思い出した瞬間、ぱしんと軽快な音が鳴り響いて、すべてすべてが戻ってきた。初めて会った時の緊張したような面持ちも、自分よりも年下の女の子の相手をどうすればいいのかと戸惑っていたような顔も、笑って見せたら笑い返してくれた初めての笑顔も、この人のそばにいたいと強く強く願ったことも。
「……ゆきひとさん」
 これだけは、あなたに伝えたくて。必死に声を絞り出して、心と記憶をずっと大事に持っていてくれていたあなたの名前を呼んだ。
「春妃?」
「ゆきひとさん、どこ?」
「ここにいるよ」
 霞んでいる視界の中に貴方を探す。ぼんやりとした影しか分からなかったけれど、私の手を握ってくれている温かさは、間違いなく彼のものだ。
「ゆきひとさん」
 そっと彼の手を解いて、彼の顔に触れた。少しだけ熱くなった頬をこちらにぐっと引き寄せて、その中心辺りに唇で触れる。
「え、あ、春妃!?」
「……ずっと忘れていて、ごめんなさい」
 視界に鮮やかな赤が映ったのと意識の限界が来たのは、同時だった。

  ***

『ほら春妃。雪人くんにちゃんとご挨拶しなさい』
『こ……こんにちは……』
 そう父さんの陰から呟くと、目の前の少年の表情が少しだけ和らいだのでほっと胸を撫で下ろした。もっと年上の大人と話すのには慣れていたけれど、それ以外の人には慣れていなかったから緊張していたのだ。最も、向こうも幼稚園児と話す機会はなかなかなかったらしいので、同じように緊張していたらしいが。
『え、えっと……何して遊ぶ? 絵本でも読む?』
 困ったような表情でそう申し出てくれた彼に、私は絵本の朗読をお願いしたんだったと思う。あの頃から、雪人さんの声は好きだった。
『面白かった?』
『うん!』
 慣れてない感は否めなかったけど、それでも雪人さんの読み聞かせを聞くのは楽しいものだった。だから、その気持ちをそのまま伝えたんだったと記憶している。
『それなら、良かった』
 そう返事をしてくれた彼も、つられた様に笑ってくれた。彼の笑顔が見られたのが嬉しくて、もっと喜ばせたくて……以降も、雪人さんが遊びに来る度にずっと後をついて回った。彼がご両親と一緒に引っ越さないといけないと知った時はわんわん泣いて困らせたけど、雪人さんを困らせるのだけは嫌で、一生懸命強がりながら彼を励まし想いを告げ、手紙のやりとりをしようと約束した。
『あなただれ? 父さんにご用があるの?』
 その日は、雪人さんが研究所に遊びにくるのがいつもの時間よりも遅くなると聞いていた。だから、待ちわびた私は庭で待ちたいと言って、正門から外に出ない事を約束に許してもらった。そこで、買ってもらったスケッチブックにクレヨンで絵を描いていたら……見慣れない大人が、するりと庭に入ってきたのだ。
 私が普通の子供だったなら、きっと、見知らぬ大人を怖がって部屋に駆け込んで声なんか掛けなかったと思う。だけど、幼稚園にいる時間以外は常に大人に囲まれていた私にとって……大人は見慣れた存在で、怖い存在では無かったのだ。だから、見た事がない人だけど父さんの知り合いかもと思って、話しかけてしまった。
『いやだ! こわい! たすけて!』
 侵入者は、私の問いには答えずいきなり近寄ってきて私を抱え上げた。いきなり視界が高くなって、無言のその人が怖くなって……暴れながら必死に叫んだ。
『私の娘に何をしているの!』
 私の悲鳴を聞きつけて、エプロン姿の母さんが駆け寄ってきた。これでもう大丈夫と思った私は、必死に母さんの方へと手を伸ばした。
 あともう少し。そう思った矢先、いきなり母さんがバランスを崩して地面に倒れこんだ。私を抱えたままだった誘拐犯が、母さんに足払いを掛けたのだ。
 だけど、母さんは諦めなかった。咄嗟に犯人の足を掴んで、両腕で拘束した。動けなくなった犯人は母さんを振り払おうとして、何度も、何度も母さんを蹴り飛ばそうとしていた。
『春妃を離しなさい!』
 額から血が流れてきても、頬が腫れあがっても、母さんの瞳は光を失わなかった。あの細い体のどこにそんな力があったのだろうと思うけれど、数キロ十数キロの自分の子を抱っこしたりおんぶしたりする必要があるのだから、世の母親とはそういうものなのかもしれない。
 そんな風に庭が騒がしくなったので、研究所の中からも人が何人か出てきた。窓にも人影が見えてきて、焦ったらしい犯人は、そこでようやく私を放り投げるようにして地面に落とした。したたかに体を打ち付けてすごく痛かったのだけど、解放された安心感の方が何十倍も大きかったので、それで泣いた覚えがある。
 だけど、正義感が強かった母さんは犯人を逃がす気はなかったのだろう。横目で私の無事を確認した後も、犯人を離さなかった。逃げようと必死な犯人の足を力任せに引きずって、庭の草木の上に引き倒した。
「……あなたは」
 地面に転がった犯人の覆面は半分くらい外れていたから、私よりも近い位置にいた母さんには顔がはっきり見えたのだろう。あなたは、確か。犯人を見ながら、母さんは間違いなくそう言った。そして、そう言って動きを止めた瞬間……犯人の蹴りをもろに食らって、文字通り母さんの体が飛んだ。
「秋姫! 春妃!」
「お父さん! お母さんが!」
「秋姫、しっかりしろ!」
「お母さん……おかあさん!!」
 自分の服が血で汚れるのも構わず、母さんに縋りついた。まだ息のあった母さんは、うっすらと目を開けて私を視界に入れる。
「……はるひ」
 唇が微かに動いて、私の名前が紡がれた。そして、母さんは……安心したように微笑んで、そのまま目を閉じた。
「……おかあさん!!」
 必死に呼び掛けたけれど。母さんが目を開けてくれる事は、二度と無かった。

  ***

「……ん」
 ぼんやりとしていた意識が浮上してきたので、ゆっくりと目を開けた。天井が見慣れたものなので、どうやら私は自分の部屋にいるようだ。
 寝息が聞こえてきたので、そちらの方へと目を向ける。そこにいたのは、ベッドの淵に俯せて眠っている雪人さんだった。左手が温かいと思ったのは、彼に握られていたかららしい。
 出来ればそのままでいたかったけれど、起き上がりたかったので注意しながらベッドを抜け出した。椅子に掛けていたブランケットを彼の肩に掛けてから、音を立てないようにして部屋を抜け出す。
「……もう体は大丈夫なのか?」
 台所で水を飲んでいると、後ろから父さんに声を掛けられた。昨日見た時と同じ格好をしているので、寝ていないのかもしれない。
「うん」
「頭痛がするとか、気分が悪いとかは」
「ないわよ。関節が少し痛いくらい……今って何時?」
「朝の五時だ」
「じゃあ、もう次の日になったのね」
「そうだな」
 父さんの声が、いつになく沈んでいるように聞こえた。疲れているのか、落ち込んでいるのかは定かではないが。
「……秋姫の事は」
「思い出したわ。雪人さんの記憶と一緒に」
「あの、瞬間は」
「全部。全部、思い出した」
 彼と会って惹かれ合い、お互い好きだと言い合って約束をした事も。身を挺して私を守って、微笑みながら息を引き取った母さんの事も。全部、ぜんぶ。
「聞きたい事があるの。今大丈夫?」
「問題ない。何だ?」
「結局、あの誘拐犯は知り合いだったの?」
「……以前に共同研究を持ち掛けてきた研究所の所員の一人だった。挨拶に来た面子の中にいてな……だから秋姫とも面識があった」
「持ち掛けてきたって事は、共同研究そのものはしなかった?」
「ああ。あまり良い噂を聞かない研究所だったから断ったんだが、それを根に持っていたらしい。そこで、脅迫の材料にする為に、お前を誘拐しようとしたんだそうだ」
「とんだ研究所ね……あの犯人が計画も?」
「いや、彼は実行犯という位置づけだな。年老いた両親を人質にされて、経営陣に命令されたらしい」
「……最低」
「今思えば、彼も被害者だったのかもな。当時は、彼も含めて全てが憎い、全て殺してやると復讐心に満ちていたが」
「……」
 その全てに、どこまで入っていたのだろう。そんな事をふっと思ったが、聞くのが怖くて止めておいた。当時がどうあれ、今の父さんはちゃんと私を大事にしてくれている。
「その人、ちゃんと生きてるよね?」
「生きてるよ。諸々の事情を汲んで懲役十五年の実刑判決になったが、真面目に服役していたから今は仮出所してご両親の面倒をみているらしい」
「経営陣は?」
「当時求刑し得る最大の刑を求めたら、それが認められた。研究所も解体になって社会的な制裁も加えられたから、不幸中の幸いだったな。決定打は実行犯の彼の証言だったから、そこにだけは感謝している」
「よく証言してくれたわね、その人。報復とか怖くなかったのかしら」
「警察がご両親の身の安全は自分たちが保証すると約束してくれたそうだ。当のご両親にもきちんと真実を話せと説得されたらしくて、決心したようだな」
「……そう」
 だからと言って、経営陣は勿論実行犯も到底許せるものではないけれど。でも、末端だけでなくて親玉もきちんと裁かれたのならば、少しは母さんも浮かばれるだろう。
「あと一つ……父さんは、私に何をしたの?」
「何をした、とは?」
「雪人さんが言っていたの。私が母さんの死の真相と雪人さんと一緒にいた記憶を全部無くしていたのは、父さんの仕業だって」
「ああ、成程……そうだな、雪人くんならそう形容するだろうな。あの年頃の子が、好きな相手が自分を忘れるかもしれないと言われて納得出来る筈がない」
「……一体何を」
「当時開発を進めていた薬を春妃に飲ませたんだ。トラウマとなり得る記憶を忘れさせる薬効を持った、記憶消去とか阻害に近い薬だ」
 記憶阻害薬。副作用でそういう効果を発揮した薬があるとか、研究は今も進められているとか、話には聞いているけれど。うちでも、研究をやっていたのか。
「その薬、今はもう実用化されてるの?」
「いや……研究は中止した。データは残してあるが、簡単には見られないようになってる」
「それはどうして?」
「阻害される記憶の範囲が予想よりも大きくてその後の患者の生活に影響が大きかった事と、半減期が長すぎて継続服薬における管理が難しい事、実用化した場合に懸念される事象が多い割にメリットが少なさそうだと判断した事が理由だな」
「……なるほどね」
「確かに、過去のトラウマのせいで日常生活がままならない人にとっては夢のような薬だろう。だけど『忘れる』という事を簡単に考えて安易に使われてしまえば、犯罪を助長させるうえ人間の人格形成や成熟に悪影響を及ぼす」
「そうね。試験に落ちた、失恋した、喧嘩した、悪口を言われた……その度に忘れたいといって繰り返し使ってしまえば、精神部分はもちろん健康被害も招きかねない」
「その通りだ。勿論、そのせいで脅迫を受けたとか命を脅かされたとか、自殺を考えたとか、そこまでいけば服薬検討の余地はあるだろうが……特に、前者なら医者に行くより警察に行ったほうがいい」
「……まぁね」
 そう単純な話ではないだろうし実にさまざまな意見があるだろうが、言わんとしている事は理解出来る。製薬会社の娘がこう言っていいのかは謎だが、薬なんて飲まなくていいなら飲まない方がいいのだ。
「そんな意見を持つ父さんでも、その薬を飲ませた方が良いと判断したくらいに私の状態は酷かった?」
「……寝てもすぐに起きて泣いてしまう、食事をまともに食べない、少しでも秋姫を連想させるものを見たらお母さんお母さんと言って疲れて眠るまで泣き続ける……世話をする周りの大人の疲労度もすごかったし、当の春妃がどんどんやつれていった」
「……」
「唯でさえ秋姫を失って絶望していたのに、このまま春妃まで死んでしまうのではないかと思うと、本当に恐ろしくて堪らなかった。だから、これが最良の選択だと、これ以上春妃を苦しめてはいけないと、この苦しみから春妃を解放するのが親である俺の役目だと……自分を正当化して、薬を飲ませた」
「……そう」
「そう考えると、俺もあいつらと変わらなかったのかもな。苦しむ娘を見たくなかったという理由で服薬させたんだから。そのせいで、本来何の責も負うべきでなかった雪人くんを十年間苦しめた」
 理屈としてはそうなるのかもしれないし、その決定が彼を傷つけてその後の人生に影響を及ぼしたのは事実だろう。けれど、そもそも娘への愛情がなければ、苦しんでいるのを見るのが辛いとは思わないものではないだろうか。
だから、父さんが服薬という選択肢を取ったからと言って、それが百パーセント父さんのエゴとは思わない。その選択には、確かに、私という娘に対する愛情があったと思う。
「……とはいえ。雪人さんは、きっと、辛かったと思うから」
「春妃?」
「彼にだけは謝ってほしい。雪人さんが昨日私にやった事だって褒められる事じゃないけれど、それでも、そこまで思い詰めさせてしまったのは私たちのせいだわ」
「私たち……? いや、春妃は悪くないだろう」
「無関係ではないもの」
 私がもっと見知らぬ大人を警戒していたら。声なんてかけずに室内に逃げていたら。解放された時にすぐ母さんの傍に駆け寄っていたら。そうしていたならば、もしかしたら……母さんは今も生きていたかもしれないのだ。そうすれば、私が薬を飲む必要はなかったし、雪人さんを苦しめる事もなかった。全て忘れて一人だけのうのうと生きていた私が、一番の罪人なのかもしれない。
「……そうだな。それじゃあ、彼が起きたら一緒に謝ろう」
「うん」
「ああ、そうだ……先に渡しておきたいものがあるから、ちょっとついて来てくれ」
「何?」
「見てからのお楽しみだ。今の春妃になら……もう渡しても大丈夫だろうから」
 そう言った父さんが歩き始めたので、大人しく後をついていく。ついたのは、父さんの寝室だった。

  ***

 ちょっと待ってろと言われたので待っていると、机の上の母さんと目が合った。前に見た写真とは別のやつだ。時折、明らかに視線がカメラを向いていない写真を見かける事があるが、今回の写真はにっこりと微笑んでこちらを向いている。
「あった、これだ」
「何それ。缶の入れ物?」
「中身を取ったら入れ物は返してくれ。入れ物の方は、秋姫が初めて俺にくれたお土産のクッキーが入っていた缶なんだ」
「……物持ち良いのね」
 そう言うに留めて、かぱっと蓋を外す。中に入っていたのは、大量の封筒だった。
「手紙?」
「ああ。宛先と送り主を確認してみろ」
「宛先はうちの住所よね。一之宮春妃さまへって書いてあるから、これ全部私宛て……え!?」
 封筒の裏に書いてある差出人を確認して、驚きで声を上げた。相沢雪人……間違いない、雪人さんだ。
「まさか、これ、全部雪人さんから?」
「そうだ。この十年毎月届いていたから、ざっと見積もっても百は超えるな」
「毎月欠かさず?」
「大体月末だったな……そら、一番上に乗っているのが先月届いたばかりの最新版だ」
「この住所、雪人さんが今住んでる場所ね。だから父さんはあの場に来られたの?」
「その通りだ。その手紙の住所を頼りに、あの場所へ行った。春妃に例の薬を飲ませたのは丁度六歳の誕生日だったから……雪人くんが何か行動を起こすならば、追加の薬を飲ませる必要のあるあの日だろうと予測していたんだ」
「以前雪人さんに近づくなと言っていたのも、それで?」
「ああ。彼に会って会話したり、一緒にいたりする事で……春妃が過去を思い出すかもしれないという危惧があったから。追加服用も邪魔されるだろうと思ったし」
「そういう事だったのね」
 確かに、こんなにまめに手紙を送ってくれていたくらいなら、父さんが個別に警戒していてもおかしくない。いっそ執着と言えるくらいの強い想いを、彼は、忘れる事なく持ち続けてくれていたのだ。
(……それが嬉しいなんて思うんだから、もう私も同類なのね)
 小さい頃に出会って、初めての恋をした。その全てを忘れてもなお、もう一度彼に惹かれて二回目の恋をした。この想いを運命と言わずして、何を運命と言えようか。
「ありがとう、父さん」
「礼には及ばない。その言葉は、ずっと忘れずに手紙を春妃へ送り続けてくれた雪人くんに言ってやれ」
「それはもちろんだけど。父さんだって、この手紙を捨てずにずっと取っておいてくれたんだもの。その事にはきちんとお礼を言いたいわ」
「……見せたら思い出すきっかけになるかもしれないと思ったら、とても渡すなんて事は出来なかったけどな。でも、この手紙は……間違いなく、春妃への愛から生まれたものだ。こんなにも自分の娘を愛してくれていると分かるこの手紙を、捨てる事なんて出来なかった」
 はは、と力なく笑う父さんへ、もう一度向き直る。父さんと母さんの思い出の缶を返しながら、じっとその瞳を見つめた。
「この手紙を捨てないでいてくれた。それだけで、父さんは自分勝手なんかじゃない娘想いの父親だって証明になると思うわよ」
「……春妃」
「間違いなく、ずっと愛してくれてありがとう。父さんと母さんから貰った愛に恥じないような人間になるから、これからも宜しくね」
 普段だったら、照れくさ過ぎて絶対に言えないけれど。でも、今言わなければ絶対に後悔すると思ったから。愛をくれた貴方へ、ありったけの感謝を込めて。
「そ、それじゃ。もしかしたら雪人さん起きてるかもしれないし、ちょっと様子見てくる」
「ああ、分かった……一つ言っておくが」
「何?」
「春妃と雪人くんの交際を反対する気はないが、春妃が大学を卒業するまでは節度ある行為しか認めないからな」
「……は!? それ今言う!?」
「気持ちが盛り上がっている時が一番危ないからな。その辺はきちんと弁えるように」
「分かったわよ、もう!」
 せっかくの余韻が盛大にぶち壊しだ。がっかりというかがっくりというか、そんな気分になってしまったけれど……まぁ確かに一理はある。
「節度は弁えますから、邪魔しないでよ!」
 そんな憎まれ口だけを叩いて、手紙を抱き締めたまま部屋を出る。父さんの口元が何かを呟くように動いていたが、ついぞ聞こえる事はなかった。

  ***

(……まだ寝てるみたいね)
 雪人さんの様子を確認した後で、一旦自分の机へと向かう。たくさんの想いの結晶たちを一纏めに置いて、腕の中を空にした。
 改めて彼に近づき、その隣に腰を下ろす。じいっと寝顔を見つめてみたが起きる気配がなかったので、彼の肩に掛けたブランケットを少しだけ捲って入り込んだ。ぴったりとくっついて、嬉しいような恥ずかしいような、でもほっとしたような……そんな様々な気持ちになる。
「……ん?」
「雪人さん」
「ん……えっ、春妃?」
「はい」
「えっ、あ……ええと、その」
「何ですか?」
「……その、起きて大丈夫?」
「はい。さっきまでぐっすり寝ていたので」
「そうか……」
 ぱちぱちと目を瞬かせている様子が可愛らしい。声が少しだけ舌足らずなのは、寝起きだからだろうか。
「雪人さんはまだ眠いです?」
「いや……何というか……状況に追いつけてない……春妃と同じブランケットに入ってるとか幻覚を見てるのかな……」
「私が貴方を好きなのは、記憶が戻ってない時から知ってたでしょう?」
「それはそうだけど……でも……俺は」
 彼が動いたので、ブランケットが捲れて私の体が外に出てしまった。寒かったので更に雪人さんにくっついたら、言葉になっていない声が漏れてくる。
「……怒ったりとか、怖かったりとか、そういうのはないの?」
「貴方に対して?」
「うん。だった、俺は、春妃を眠らせて勝手に自分の部屋に連れて行ったし、その……苦しい思いもさせたでしょ」
「……やり方は手荒だったと思いますけど、怒りとか恐怖とか、裏切られたとか、そういうのは思ってないです」
「そ、そうなの?」
「どっちもどっちだったと思うから」
 彼がそんな行動に出たのは、私があの日々を忘れてしまったから。忘れてしまったのは、忘れるような薬を飲んだから。そもそもの原因を考えれば、彼一人を責められる訳がない。
「いや……春妃は何も悪くないよ」
「無関係ではありませんし」
「そりゃ無関係ではないけど……」
「だからお互い様なの。そう思う事で両成敗、お互い反省して解決ってするのが一番平和的だと思いますけど」
 敢えて感情を乗せずに、淡々と告げていく。今回の出来事で、誰が悪いとか誰が被害者だとか、そういうのを考えるのは不毛だろうと思う。誰だって被害者で、誰だって加害者だったのだ。そもそもの諸悪の根源は例の研究所で、私たちには全く関係が無いのだし。
「春妃は凄いね」
「そうですか?」
「凄いよ。普通、そんな簡単に割り切れるものじゃないでしょ」
「……だって、あんなもの貰っちゃ絆されるに決まってるわ」
 思い出すだけで頬が熱くなってきたので、彼の肩へと額を押し付ける。不思議そうな声で何をあげたっけって言っている雪人さんに、机の上の方を見るよう言って場所を指さした。
「十年間、ずっと。毎月送って下さってたんでしょう?」
「……え!? 嘘!? 取ってあったの!?」
「毎月月末に来てたからって言って、父さんが母さんから貰ったっていう缶の中に保管してくれてたみたいです。父さんが雪人さんのアパートに来られたのも、あの手紙の住所を辿ったからって言ってました」
「ちょっと待って……ええ、捨てられてると思ってたのに」
「……そう思ってたのに、毎月送って下さったの?」
「うん……万一億一、捨てられる前に春妃が受け取ってくれていたら、状況が変わるかもしれないって思ったから」
「ふぅん……」
 そんな博打みたいな事を思って、彼はずっと送り続けてくれていたのか。毎月となると相当な負担だったと思うのに、それでも、そんな一縷の望みを掛けて、ずっと私の事を考えて手紙を……。
「……んふふ」
「あのさ、もう再会出来たからあれ全部回収して闇に葬って良い? 十年前のとか特に恥ずかしい通り越して黒歴史になりかねないんだけど」
「何馬鹿な事言ってるんです? もう私のものだから一通も返しませんよ。毎晩一通ずつ読むの……楽しみ」
 彼が立ち上がろうとする気配がしたので、がっしりと抱き着いて動きを封じた。今回ばかりは抵抗されたけれども、軍配はこちらに上がる。
「せめて俺のいないとこで読んでね……」
「はい」
「あの、それと、さ」
「何でしょう?」
「……もう俺たち恋人って事で良い?」
 しがみついていた私を抱き直して、額同士を合わせられながら。彼の甘やかな言葉が私の耳をくすぐっていく。
「一つだけ条件があります」
「何?」
「……もう、あんな無茶は二度としないで下さいね」
「勿論約束する。俺が無茶しないように、春妃も自分を大事にしてね」
「分かりました。無茶しなきゃならない時は連絡入れます」
「連絡すれば良いってものでもないよ!?」
「でも、テスト前とかは踏ん張り時だし」
「……ほどほどにね」
「はい。あと」
「今度は何かな」
 げんなりとしたような表情を浮かべている彼の手を、おもむろにぎゅっと握る。互い違いに指を組んで手を握ると、彼の方も握り返してくれた。
「……私の事、ずっと忘れずに愛してくれてありがとうございました」
 手を握ったまま、見下ろしてくる彼の瞳を見つめながらそう告げる。嬉しそうにはにかんでくれた雪人さんの顔が近づいてきたので、逆らう事無く瞳を閉じて受け入れた。

  【完】

 

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