私の特別編集者

 ぱたぱたと廊を駆けて、目当ての部屋の襖を開く。お目当ての人物は、机の上に広げた分厚い本をなぞっているところであった。
「姉さん、今日は起きてたの?」
「うん。その声は……詩織ちゃんね?」
「そうだよ! 今帰ってきたの!」
「そっか。それなら、入っておいで」
 こちらの方へと顔を向けて、ちょいちょいと手招きされる。後ろ手で襖を閉めながら中に入り、いそいそと姉の隣に正座した。
「いつもよりも早い気がするけど、授業早く終わったの?」
「部活が休みだったんだ」
「あら、それなら友達と遊んで帰ってきたら良かったのに」
「急な事だったし、どうせ遊びに行くなら一日かけて行きたいじゃない?」
「それもそうね」
 くすくす、と姉が笑う度にふんわりと良い香りが立つ。すんすんと鼻を鳴らしていると、今日は桜のお香を焚いてみたのよと教えてくれた。
「それで? 今日は、一体どんな話を聞かせてくれるのかしら?」
「今日は、ね……」
 帰り道に考えていた、ささやかな物語を語り聞かせているその間。大好きな姉は、伏せられている睫毛を楽しそうに揺らしながら、遮る事なく聞いてくれた。

  ***

 姉の目が光を失ったのは、今から三年前。私が小学校の四年生で、本人は高校三年生の時だった。何とかってややこしい名前の病気で、もう一度見えるようになる可能性は限りなくゼロなのだそうだ。
 だから、だったのだろう。品行方正、成績優秀、誰もが目を見張るほどの美貌を持っていた姉に大いに期待をかけていたらしい両親は、それはそれはひどく落胆した。どこぞの良家との間で決まりかけていた婚約の話も、ふいになってしまったらしい。
 以来、両親の姉に対する態度は一変した。傍から見ていた私には、なんでああまで変わってしまったのかがわからなくて、ただただ不思議だった。
『詩織ちゃん、詩織ちゃん』
 だって、姉さんは、目が見えなくなっただけ。もちろん、本人にとっては、もどかしかったり苦しかったり、辛い事もあると思う。接する私達も、前まではしなくて良かった事や気遣わなくても大丈夫だった事を気にする必要が出てきたから、困った事があったのも事実だ。だけど。
『そうなのね。詩織ちゃんが楽しそうで私も嬉しい』
 そうやって微笑んでくれる笑顔も、姿形も、私を呼んでくれる声も、頭を撫でてくれる手の温かさも、一切合切変わらなかった。だから、私はそれまでと変わらずに姉の事が大好きだった。
 もしかして、私に対する姉さんの態度が変わっていたとしたら、私もまた違う考えを持っていたかもしれない。変わってしまった姉さんにどう接すればいいかわからなくなって、甘えられない寂しさを胸に秘めながら、じっと遠巻きにしていたのかもしれない。
 けれど、姉さんの私への態度は、目が見えていた時も見えなくなった後も全然変わらなかった。変わらずに、妹である私を可愛がってくれていた。だから、私も変わらずに姉に懐いていて、学校から帰る度に姉のところへ行って、その日あった事や聞いた話を聞いてもらうのが日課のままだった。
 そんな少しだけ変わった日常が定着し始めたある日、姉に本を読み上げてほしいと頼まれた。何でも、目が見えていた頃にずっと追いかけていた続き物の小説があるらしく、それの新刊が出たから早速中身が知りたいのだという。
『私の音読でいいなら、いいよ』
 その日から、姉への小説の読み聞かせが始まった。頼まれたシリーズの新刊が終わると、次は別のシリーズの新刊、読み返したいと思っていた既刊、と何冊も何冊もせがまれた。
 私は、私に出来る限り、時間の許す限り、姉の期待に応え続けた。ずっと私を大切にしてくれている姉への恩返しが出来ているみたいで嬉しかったし、私自身、その本達に魅了されてしまったからだ。この語り聞かせのお陰で私は読書というものの面白さを知り、いつしか、姉への語り聞かせが終わった後には語った以上の本を読むようになっていった。そして……自分でも、物語を考えるようになっていた。
『詩織ちゃんが考えたお話があるの!? それなら、今日はそれがいいわ!!』
 意を決して、自分でも考えてみたお話があるのだと姉に告げたその日の、異様なまでの姉の食いつきを今でも思い出す事がある。詩織ちゃんのお話語りは、私の一番の娯楽なのよ……だから……とは、のちの姉の弁明だ。
『面白かったわ! また聞かせてね』
 そう言って、喜んで笑ってくれたのが嬉しかった。私が考えた話でも楽しんでくれる人がいるのだと、面白いと喜んでもらえるのだと実感して、本当に本当に嬉しかった。
 きっと、贔屓目もあったとは思う。だって、当時の私はどうあがいても小学生だ。ごく普通の学校に通う平凡な小学生が考えるお話なんて、ありふれた話が多いものだろう。
 だけど……面白かった、また聞きたい、続きが楽しみ、と姉さんが喜んでくれるその度に、姉さんは私の好きを肯定してくれているのだと思えてとても嬉しかった。夢中になって本を読み耽る事も、空想を膨らませて自由に物語を考える事も、躊躇う事無く思うままにやっていいのだと、認めてくれて背中を押してくれているみたいで嬉しかった。

 だから、小説家というものを夢見るようになった。夢を見るようになって、たくさんたくさん読んで、たくさんたくさん書いて。挫折を経験しながら、それに勝る幸福も経験しながら、ただひたすらに私だけの物語を紡ぎ続けて。

 気が付いたら、十年以上の歳月が流れていた。

  ***

「姉さん、最近体調は大丈夫?」
「ええ。元気よ?」
 首をかしげながら、私の質問に答えてくれる姉の髪が揺れている。少しだけ丸みを帯びてきたお腹を撫でながら、姉は私の言葉の続きを待っていた。
「今度ね、一緒に来て欲しいところがあるの。私がエスコートするから」
「詩織ちゃんが一緒ならいいけど……どこにいくの? 遠い場所ならあの人に車出してもらう?」
「お迎えが来るから大丈夫よ。確認したら、もう一人くらいは乗れますって」
「い、移動手段もばっちりなのね……一体どこに連れていかれるのかしら」
 戸惑いを隠そうとするかのように、茶化した声音で姉が言う。その癖は、幼いころから全く変わらない。そんな姉を眺めながら、私は、あの日……私もお話を考えてみたの、と告げた日のように、大きく深呼吸した。どうしたのかと驚いている姉を見つめて、心を決めて口を開いた。
「……小さい頃からずっと、私の話を聞いてくれて、行き詰った時にはアドバイスをくれて、私を、ずっと可愛がって支えてくれた姉さんとこそ……一緒に行きたいって思う、お祝いの席よ」
「お祝いの、席?」
「そう、お祝い!」
 内緒話をするように、姉の耳元に口を近づけてその内容を口にする。聞き終えた後の姉は、久方ぶりにその目を大きく見開いて……その顔に、零れ落ちるような笑顔が咲いた。