【88歳】茶碗の恩返し

 両親が共働きだったから、昔から留守番をしている事が多かった。その事を何気なく告げると、親がいないから好きな事出来て羨ましいという人も、一人ぼっちなんて可哀そうという人も、様々いたけれど。
「ただいま」
『お帰りなさい』
 いつも通りの返事が聞こえてきて、嬉しくなってリビングに駆けていく。おっとりとソファに座っていたのは、着物と洋服を組み合わせたような恰好をしている、緑の長髪を綺麗に結い上げて一部を垂らしている美人だ。
『まずは手洗いうがいからですよ。その間にお茶とおやつを準備しましょうね』
「今日は緑茶が良いな」
『そうですか。それなら、おやつはせんべいにしましょうかね』
「うん!」
 元気よく返事すると、彼女の頬が淡く染まって瞳がゆっくりと細められた。音もなくキッチンへ向かう彼女を見送り、私の方も洗面台へと向かう。
『美味しいですか?』
「おいしい! 茶々さんは食べないの?」
『私は良いんですよ。希ちゃんが食べるのを見ているだけで十分ですから』
「ふうん……?」
 今思えば、茶碗の付喪神だった彼女が現実世界の物を食べられる筈もなかったのだけれども。当時の私は、その辺りをいまいちよく分かっていなかった。
 辛うじて理解していたのは、彼女はうちに代々伝わる特別な時だけ使うお茶碗の神様で、うちの家族以外には姿が見えない、けれども、留守番している私の傍にいつも一緒にいてくれた人で……私にとっては、年の離れたお姉さんみたいな存在だったのだ。
『お姉さんとは嬉しいですね。年で言えば、私は希ちゃんのお祖母ちゃんよりも年上だから』
「そうなの? 何歳?」
『うふふ。今年で作られて八十八になります』
「八十八歳なの? 長生きだね」
『希ちゃんやそのお母さん、お祖母ちゃんが大切にしてくれているから』
「だって茶々さん優しいから好きだもん。綺麗だし」
『私が優しいのは優しいをお返ししてるから。綺麗なのは、大切に手入れしてくれているから……物はね、慈しまれれば慈しまれるほど、活力を増していけるものなんですよ』
「……よく分かんない」
『ふふ。まだ早かったかしら。ともかく、物は丁寧に扱ってね、という事と……役目を終えるその時まで、ずっと傍に置いていてくれると嬉しいという話よ』
「うん、分かった」
 ボールみたいに投げて使う物以外は投げてはいけない、壊れやすい物以外でも丁寧に扱う、役目を終えて手放す物にはお礼を言ってからさよならする……そう言った物との付き合い方は、ずっと両親から教えられてきた。自分たちの生活を助けてくれる物たちをぞんざいに扱えば相応の罰が、大切に使えば幸福が、いずれ自分に降ってくると言っていたのはお祖母ちゃんだった。
 素直に返事をした私を見た茶々さんは、いつも通りふんわりと笑っていた。

  ***

『希ちゃん!』
 あのひとの声が聞こえる。小さい頃から、ずっとずっと私たちを見守ってくれていた、大好きな声。
『っつ……!!』
 ぼんやりと見える彼女の体には、たくさんの切り傷があって赤が滲んでいた。さっきの地震のせいで足がふらついてしまって、倒れこんだ弾みで手に持っていた彼女の本体が割れてしまったからだろう。受験勉強を頑張るためとはいえ、彼女を出すのはやめた方が良かったのかもしれない。
(意識が……かすむ……)
 大きい揺れのせいで、大事にしていた沢山の物たちが散らばっていた。まだまだ一緒にいたかったみんなが、問答無用で壊されている。それが悲しくて苦しくて、私の頬に一筋の涙が伝った。
『……希ちゃん』
「ちゃちゃ、さん」
『大丈夫よ。希ちゃんの事は、私が必ず助けるから』
「なに、を」
 彼女は笑っていたのに、私の中に浮かんできたのは焦燥だった。理由が分からぬ恐怖に襲われて、撫でてくれた手をしっかりと掴む。
(……え)
 どうして、彼女の手を握れるのだろう。そもそも、どうして彼女が撫でてくれたのを実感した?
「なにしたの、ちゃちゃさん」
『そうねぇ……強いて言うなら、恩返し?』
「待って、やだ、何か怖い、やめて」
『そう長くは持たないけど……外部に連絡ついたから、じきに助けが来るわ。それまでの辛抱よ』
「ねぇ、茶々さんは、大丈夫だよね?」
『……』
 そこで初めて、彼女は口を噤んだ。表情はとても凪いでいて、余計にざわざわと心を煽る。
「やめて! 茶々さんが大丈夫じゃないなら嫌!」
『本当に優しい子……ああ、階段を上ってくる音がする』
「ちゃちゃさん!」
「救助隊の方ですか!? こちらに負傷者が一人います!」
「おい、あっちだ! あっちから声が聞こえた!」
「今いきます! もう少しだけ頑張って!」
「茶々さん!! いやだ!」
『溢れんばかりの加護と未来を、あなたに』
 救助隊の人の姿が見えたその瞬間。茶々さんは、そんな言葉と手の平の温もりを残して、忽然と消えてしまった。

  ***

 修復をお願いしたお店の人から、とうとう連絡が来た。ばくばくとうるさい心臓を抑えながら、週末に取りに行く旨を伝える。週末が来るまでずっとうわの空で過ごしてしまったのは、仕方ないと言えるだろう。
「こちらですよ」
 人の良さそうな笑みを浮かべた店主さんが、ことりと彼女を机に置いた。今までにはなかった金の筋が、きらきらと光っている。
「ありがとう、ございます」
 彼女がもう一度戻ってきてくれるかはわからないけれど、せめて彼女の本体だけでも元通りにしてあげたい。そうねだって、母と半額ずつ出して彼女の修復を専門の人にお願いした。両親は全額払うと言ってくれたけれども、こうなってしまった原因は私だからと言って出させてもらったのだ。
(見た目はほぼ元通りだけど……やっぱり、そううまくはいかないかな)
 茶碗に触れてみても陶器特有のひんやりとした感触だけで、かつての温もりとは程遠い。それでも、もう一度この茶碗が元の姿に戻ったという事が、本当に嬉しかった。
「ただいま」
「お帰り。綺麗に直った?」
「うん。金の線が入って、より綺麗になったくらい」
「……彼女は」
「……」
 聞けば、お母さんも茶々さんに子守をしてもらっていた事があるらしい。二代続けて面倒を見てもらっていたなんて、それだけ彼女が長く共にいてくれていたという証拠だ。
 無事に帰ってきた彼女の本体を元々あった場所に仕舞い、いつも通りの生活が本当の意味で戻ってきた。違うのは、傍らにいてくれたあの人が、いないだけ。それがどんなに寂しかろうとも、こればかりは私にどうにか出来るものでもない。
 だけど。
「……物を大切に使えば幸福が降ってくる、魂は何度でも復活する」
 茶々さんの器を割ってしまって何日も何日も泣いていた私に、お祖母ちゃんがかけてくれた言葉。依り代となる本体を修復してまた愛情込めて大事にすれば、きっとまた再会出来る。だから、今の私に出来るのは……もう一度彼女を大事に扱う事だ。
「おやすみなさい」
 もしかしたら、聞こえているかもしれないから。そんな淡い期待を抱きながら、その日は眠りに落ちていった。

  ***

「やったやった! 合格だ!」
「おめでとう、希!」
 翌春、私は無事に高校に合格した。ずっと憧れていた学校に、四月から入学出来る。
(……きっと、自分の事のように喜んでいてくれたんだろうな)
 そんな寂しさが、胸をよぎったけれど。でも、寂しさに引っ張られてはいけない。
「ただいま」
 買い物をしてから帰るというお母さんと一旦別れ、先に家に帰ってきた。そうだ、彼女にも報告しないと。今はもの言わぬ器だけど、事あるごとに自分の近況を報告するのが癖になっていた。
『お帰りなさい、希ちゃん』
「……え」
 慎重に彼女を取り出して机に乗せ、早速合格を報告しようとした、その時。ずっとずっと聞きたかった、話したかった……大好きな陽だまりのような声が、耳に響いた。
「茶々、さん」
『ええそうよ。まだ力が足りなくて、声しか出せないのだけど』
「何でもいい。声だけでも、もう一度、聞きたかった」
『寂しい思いをさせてごめんなさいね。でも、本体を直してもらったおかげで、蘇る事が出来たわ』
「これからは、ずっと一緒にいてくれる?」
『希ちゃんがそう望んでくれるなら。希ちゃんの傍にも、希ちゃんの子供の傍にも、ずっとずっと一緒にいるわ』
 金で継がれたお茶碗が、きらきらと光っている。流れてくる涙を止められないまま、とびきりの奇跡に対してずっと感謝していた。