前編

 

「……何の真似だ? リリアム」
「だって、最近のハルトは私を避けてるから……こうでもしないと話を聞いてもらえないと思って」
 そう言うと、ハルトはぐっと押し黙った。沈黙は肯定と変わらない……やっぱり、彼は意図的に私を避けていたのだ。
「とりあえず、俺の上から降りてくれないか」
「やだ。そう言って逃げる気でしょ」
「逃げないから」
「やだ! 前も、そう言って目くらましして逃げた!」
 感情が昂ってきて、視界がじんわりと滲む。胸元を掴んでいる手に力が入ったからか、ハルトのシャツに皺が出来た。
「……リリアム」
 名前を呼ばれたので、涙はそのままに視線を向ける。諦めたようなため息を一つついて、ハルトは私へ腕を伸ばしてきた。それに逆らわずに、彼の腕の中に囲われる。
 久しぶりの彼の体温の心地よさを、じっくり堪能していった。柔らかい月光に照らされているようで、次第に感情が落ち着いてくる。
「――」
 ハルトの声が、耳元で響く。何を言ったのかと思った時には、意識は彼方の方へと飛んで行ってしまっていた。

  ***

「ふうん。それで、またはぐらかされたと」
「……うん。私、何かしたのかな」
「リリィがどうって言うよりは、彼の方の問題な気がするけどね」
「何か知ってるの?」
「いや全く」
 あっけらかんと目の前の兄はそう宣い、ずずずっと紅茶を啜った。呆れたというのを隠さず表に出して、私の方もケーキをつつく。
「しっかし時の流れは早いなぁ。あんなに小さかったリリィがもうこんなに大きくなるなんて」
「私達はそこまで離れてないでしょ」
「そうだけど。でも、五歳というのはそれなりの差だ」
「まあ、ねぇ」
 そう言って視線を上げると、私の兄であるインキュバスのグロウは実に楽しそうな笑顔を浮かべていた。実に面白くなかったので、隙をついて兄さんのケーキの上のイチゴを取って自分の口に放り込む。
「それで? 五歳年上で既に人間の魔術師と契約もしているお兄様は、困っている妹へ何か有益なアドバイスでも下さるのかしら?」
「そうだねぇ……それならまずは、今の状況を整理してみようじゃないか。解決法を考えるためには必須だ」
「状況……どんな流れで、現状が生まれたかって事?」
「そうだね! だって、本来君たちは主従契約を結ぼうとしていたほど仲が良かったんだろう?」
「仲が良い……まぁ、そうなるのかな。私は、恋愛的な意味でハルトの事好きだけど」
 彼の方は違ったのだろうか。彼は、私の事を溢れてしまった魔力の受け皿としてしか思っていなかったのだろうか。そんな弱気を零すと、兄さんは首を大きく横に振った。
「普段の彼の様子を見ていれば、彼も君に心を傾けているのは確定だろうね。だからこそ、正式な契約を交わしてリリィとずっと一緒にいられるようにしようとしたのだろう」
「……だけど、一週間前に、いよいよ儀式だってなったタイミングでいきなり保留にしようと言われたわ。それから、生活もすれ違うようになったし会話もなくなった」
「という事は、その直前に何かあったという事だ。一週間前かそれよりも前に、彼に変わった所はなかっただろうか?」
「特に思い当たる事は……いつも通り協会に顔を出して、図書館に行って、ご飯食べて普通だったと思うけど」
「じゃあ、何かが起こったと言うよりは何かを知ったんじゃないだろうか。前向きだった契約に足踏みしてしまうくらいの、何かを」
「可能性としてはあり得るけど、じゃあ何を知ったっていうのかしら。別に、人間の魔術師と悪魔が主従契約を交わす事自体は割とある事じゃない」
 勿論、悪魔側にだってプライドがあるから、魔術師なら誰でもとは思わない。けれど、こちらにきちんと敬意を示してくれて実力がある魔術師ならば、人間界への興味と好奇心から契約をする悪魔も多い。人間を馬鹿にしている悪魔も相応いるが、敢えて配下になり使役されるのも中々面白いとか、自分で戦略を考えなくても良いから楽とか、そういう理由で軍門に下っている悪魔もそれなりにいる。中には、主人である魔術師を自分好みに育てようとするような悪魔までいるくらいだ。主従とは? と言いたくなるが、育成ゲームのつもりなのだろうか。
「そうだね。我々悪魔は基本的にプライドが高いし、それを抜きにしても一般的な人間より強いのは明らかだろう。それでも、人間から学ぶところはあるし感心する事もあるから、契約して召喚に応じ共闘するのは中々面白いという事で、一定数の悪魔は一人ないし複数人と契約を交わしている」
 そう説明する兄さんも、高位クラスに相当する女性と契約していた筈だ。人間と契約するなんて……と両親や周りは嫌な顔をしていたけれど、幼かった私は素直に凄いと思った記憶がある。
「ハルトは、まだどの悪魔とも精霊とも契約はしていなかったと思うわ。正真正銘、私が初めての筈」
「へぇ。まぁ、彼は実力ある魔術師だけれど、人間の中では年少の方だしそういうものか」
「だからこそ、失敗しないようにって言って一生懸命図書館で儀式の作法とかを調べてたけど……」
 そう言いながら、ふと思い至った。そうか、そこで何か不利益になるような事を知って、それで取り辞めようと思ったのかもしれない。ハルトは慎重な性格だから、何かを選ぶ際は安全な選択をする事が多く賭けに出る事は少ないのだ。
「……ふうん、なるほど。そこで、彼は何かを知ってしまったのかもしれないね」
「じゃあ、その何かが分かれば解決出来るわね?」
「だろうな。そうと決まれば、やるべき事は決まったね?」
「ええ」
 ハルトが知ったのであろうその内容を、聞き出して解決する必要がある。そのためには、反撃されないようにしっかりと拘束して主導権を握った上で話を進めないといけない。
「でも、今まで二回とも対話しようとして失敗しているのよね。とはいえ魔法薬じゃすぐにバレるだろうし、アルコールとかで酔い潰すって言っても絶対に警戒されるだろうし」
「それならこれを分けてあげよう。何、使い方を間違えなければ左程害にならないのは俺と彼女で立証済みだ」
 そう言って兄さんに手渡されたのは小さな瓶だった。中には、薄紅色の液体が入っている。
「何これ」
「魔力を一時的に練れなくする薬だよ。俺の主が無茶をした時に飲ませて強制的に休ませているんだ。その量なら効果は二時間から三時間だな」
「でも、これ魔法薬よね? バレちゃうんじゃ……」
「これそのものは薬草のみから作られる純粋な薬だよ。人間界にあった植物が魔界に持ち込まれて、瘴気だらけの環境でも生きられるようにって進化した過程で魔力分解の力も手に入れたようだ」
「あぁ、成程……生き物の生命力というか、生への執着って凄いわよね」
「そりゃあ誰だって死は怖いからね。未知の最たるものじゃないか」
「それもそうか」
 呟きながら小瓶を振る。ちゃぷんと液面が揺れる音が、とても澄んだ音に聞こえた。