(3)

 

「まずは水で綺麗に流してから、薬草を貼らないといけないな」
 呟いた弦次さまが厨の方へと犬を連れていく。その床に横たえた後で、水がめに溜めていた水を豪快にかけ始めた。
「拭く物と薬草を持ってくるから、しばらく見ててくれるか」
「はい」
 今はすっかりと寝入っているようだったので、大丈夫だろうと思い快諾する。すぐ戻ると言って立ち去った弦次さまの背を見送り、ちらっと犬の方を確認した。
 基本的には規則的な寝息を立てているので過度な心配はいらないだろうが、時折呼吸が苦しそうなものに変わる。せめて、少しでも気分が和らげばと思って、一曲歌ってみる事にした。
『あなたを苦しめるものは この音に乗って飛んでいけ』
 軽症時の治癒用の歌を、音に乗せて歌っていく。手元に楽器があればもう少ししっかり歌えたが、これだけでも多少は効果があるだろう。
「……綺麗な歌だな」
「ひゃあ!?」
 歌う事に集中していたから、弦次さまの接近に気づかず文字通り飛び上がった。驚かせてしまって済まないと謝ってくれる彼に、こちらこそ申し訳ありませんと謝罪する。
「桐鈴は歌が上手いんだな」
「私は、別に……そんな風に言って頂く程では」
「あったぞ。聞いていると心が洗われるようだった」
「あ、ありがとうございます……」
 歌うのは好きだし、それを生業にしようとして頑張っている最中だし、成績だって良い方だけれど。でも、そういう人なら天界にはいくらでもいるし、身近な歌癒士である姉さまはかなり高位の実力者だ。だから、私如きじゃ取り立てて褒めて貰えるような実力ではないのだ。
「それはドクダミですか?」
 気恥ずかしくなってきたので話題を逸らすべく、弦次さまが持ってきた薬草の名前を確認した。彼はそうだと返答しつつ、器用に揉んで傷口に貼っていく。
「ドクダミは天界にも自生しているのか?」
「自生もしていますけれど、より治療効果が発揮できるように品種改良された種が薬草園で栽培されている事もあります」
「へぇ。じゃあ、センブリとかゲンノショウコとかも」
「ありますよ。地上に生えている薬草類は全てあります」
「そうなのか」
「地上では生えなくなった霊薬草とかもありますね。天界でも珍しい種になるので、まだ私は詳しく知りませんけれど……」
 父さまの薬草園で育てられているのは、治療で使う事が多い一般的な種が中心だ。研究で使うような種や難病奇病で使うような種は、典薬部署が持っている薬草園くらいでしか栽培が許可されていない。
「桐鈴は薬草にも詳しいのか?」
「人より多少は、というくらいです。父が専門なので、その伝手で詳しくなって」
「なるほどな」
 処置を終えたらしい弦次さまが、どっかりと私の隣に腰を下ろした。自分の上着を犬にかけてやりながら、そっと頭を撫でてやっている。
「とりあえずこいつはもう大丈夫だろう。後は、治るまで待つくらいだな」
「手際が良いんですね」
「小さい頃から怪我ばっかりしていたからな」
「お転婆な子供時代でした?」
「……まぁ、そうだな。転んで怪我するなんてしょっちゅうだった」
「そうなんですね。私は、紙で指を切る事が多かったです」
 何気なくそう告げると、弦次さまはその青い瞳を丸くした。あんなもんでどう切るんだと、表情に表れている。
「薄い紙の端は、当たり所が悪いと切れやすいんですよ。なので、本を読んでいる時にうっかりとか、父の資料の整理を手伝っている時に手を滑らせてとか……よくやってしまっていました」
「へぇ。天界の紙は薄いのか」
「地上の紙よりは、だいぶ。その分嵩張らないので、本を作るには良いんですけど」
 つらつらと会話していると、弦次さまの体が揺れ始めた。釣りをしたり狩りをしたりした後で、襲われた私を助けて犬の治療をしたのだ。疲れて眠くなっても無理はない。
「弦次さま。お疲れでしたら、今日はもうお休みになった方が」
「ん、ああ……そうだな……」
「あの、布団とかはどうしたら」
「ええと、ああ、うん……ちょっと待ってくれ」
 ぱんと勢いよく自身の頬を張った弦次さまは、ゆっくりと立ち上がった。そしてそのまま歩き始めたので、後を追う。
「寝具はこの押入れの中に入ってる。隣の部屋は最近掃除したばかりだから、そっちまで持ってって寝てくれ」
「……差し支えなければ、着替えとかもお貸し頂けるとありがたいのですが」
「着替えか……確か、この辺りに……」
 寝具が入っているという棚の下を、弦次さまが漁り始めた。程なくして、淡い色の小袖と帯、下着の一式を手渡される。
「俺の母親のだが、定期的に洗って干してるから大丈夫だろう」
「お母さまの分を私が使って大丈夫なのですか?」
「ああ。もうこの世にはいないしな」
 さらっとそんな事実を告げられて、言葉を失った。それでは、これは、形見のようなものではないのか。そんなものを借りていいのだろうか。
 しかし、これ以外に選択肢もない。弦次さまが良いと言っているのだから良いだろうと結論付けて、ありがたく借りる事にした。
「ありがとうございます。それでは、お休みなさいませ」
「お休み」
 簡単に挨拶をして、その場を辞す。えっちらおっちらと布団を持って行って敷いた後で、貸してもらった着物に着替えて寝ころんだ。
(少しひんやりはしているけれど、埃っぽくはないから気持ちいい……)
 布団と枕を撫でながら、そんな事を考える。先ほどの治療の時もさらしをきっちり等間隔に切っていたし、弦次さまは几帳面なのだろう。
 たまにしか来ない地上の、初対面の男性の家。そんな状況ではとても気が休まらないだろうと思ったのだけれども、布団に入って目を閉じたら、四半刻も立たない内に意識が遠のいていった。

  ***

(……いい香り)
 どこからか、美味しそうな香りがしてきた。しかし、私は一人暮らしだ。自分で作らない限りは、かぐわしい料理の香りなんてする筈がない。どういう事だと思いながら目を開けて視線を巡らすと、見慣れない天井や壁が目に入った。
「ああ……そうだったわね。私、天界に帰れなくて……」
 だんだんと記憶が戻ってくる。そうだ、私は、沐浴に来て衣を無くして、困っていたら更に犬に襲われて……弦次と名乗る男性に、助けてもらった。
 ゆっくりと起き上がって、来ていた小袖を整える。寝る前に畳んで枕元に置いていた自分の着物は、そのままの状態で残っていた。
「……おはようございます」
 味噌汁の香りがしたのでここだろうと当たりをつけ台所に来たが、読みは当たったようだ。しかし、私の挨拶が聞こえなかったのか、弦次さまは微動だにせず煮ている鍋を眺めている。小さい頃から挨拶は大事と叩き込まれて育っているので、返事がないままなのは面白くなくて、今度はもっと近づいて大きな声で挨拶をした。
「あ、ああ……済まない。お早う」
「おはようございます。朝食を作って下さっていたのですか?」
「ああ、そうだ。飯とみそ汁と漬物だけだが良いか?」
「十分です」
 彼の事を見上げて礼を告げると、弦次さまは何故か決まりが悪そうな顔になった。ぼんやりしていたのを見られて恥ずかしいとか、そんなところだろうか。
「ああ、もう、飯も炊き上がるから朝食にしよう」
「すみません。その前に顔を洗いたいのですけれど」
「そうだったな。ええと、場所は……うわっ!?」
「弦次さま!?」
 洗い場の方を指さそうとしたら、その弾みで彼の右手が鍋の淵に触れてしまったらしい。咄嗟に彼の手を掴んで、有無を言わせず台所の水がめの中に突っ込んだ。また水を汲みにいかないといけなくなったが、背に腹は代えられない。
「すまないな、桐鈴」
「いいえ……ええと、今から洗い場で顔を洗って参りますので、弦次さまは水がめに手を入れたままでいて下さい。戻ったら、私が朝食の準備の続きを致します」
「このくらいなら大丈夫だろう。朝食の準備は俺が」
「火傷はしっかりと冷やすのが鉄則です。いいからこのままでいて下さい」
 少し声を落として言ってみると、弦次さまはあっさりと引き下がってくれた。大人しくなってくれたので、私は水がめから手を出して一旦洗い場へ向かった。手早く顔を洗い髪も整えて戻ってきたが、弦次さまはきちんと水がめに手を入れたままで待機してくれていた。
「ほとんど作り終えてらっしゃるんですね。それなら、後は盛り付けだけですか?」
「いや、横に置いてる茹でた魚を入れてくれ。その後で味を見ながら味噌を入れてくれれば、後は右の棚にある皿によそって完成だ」
「分かりました……あら? どうしたの?」
 更に別の所から視線を感じたので、そちらの方を振り返る。視線の先にいたのは、昨日手当をしたあの犬だった。
「腹が空いたのかもしれんな。何か、犬が食べられるようなものは……」
「それではこの魚を与えますか? 茹でただけですよね?」
「ああ。先に茹でてた方が不味くならんから、いつも分けていたんだ」
「そうなんですね。生魚をいきなり茹でるのはちょっと勿体ない気もしますけれど……ああ、私がしますので、水がめから手を出さないで下さいませ」
 釘を刺してから、骨や皮が残ってないか確認していく。ほぐした身を皿に乗せて目の前に置くと、嬉しそうに食べ始めた。
「もうそろそろ、俺たちも朝食にするか。腹減ったし、手も冷えて痛くなってきたし」
「分かりました。準備しますので、弦次さまは手当てをしてきて下さいませ」
「手伝いくらいは」
「して来て下さいませ」
 たかが火傷、されど火傷。小さな傷や軽い風邪でも侮ってはいけない。それが、父さまの口癖だ。そういう軽い状態の時に手を打つ事で必要以上に長引かせないのが大切なんだと、小さい頃から言い聞かせられてきた。
 何か言いたげではあったが一先ず向かってくれたので、戸棚から皿を出す。盛り付けて食台に並べ終わった頃合いには、弦次さまも治療を終えて戻ってきた。
「頂きます」
 二人でそう唱えて、食事を始めた。先に食べ終わったらしいあの茶色い犬は、今は腹ばいになってうとうとしている。昨日までは野生の犬として生きてきただろうに、警戒心はどこに置いてきたのだろう。まぁ、世話をするこちらとしては、ありがたい限りだけれども。
「手の調子はどうですか?」
「大丈夫だ。桐鈴の言う通りにしたからだろうな」
「……差し出がましいかとは思いましたけれど、大事になってはいけないですから」
「そうか。ありがとう。指先が使えないと仕事にならないから良かったよ」
 そう言われて、思わず正面で味噌汁を啜っている弦次さまを凝視した。私の視線を感じたらしい弦次さまは、決まりが悪くなったのか明後日の方向を向き始める。
「……それなら、もっとご自身を大事にして下さいませ」
 とはいえ、朝からこれ以上がみがみと説教しても仕方ないし、そもそも居候の私にそんな資格などない。一言だけそう告げた後で、ご飯を漬物と一緒に頬張った。