【私だけのヒーロー】鬼の初恋

「おわあああああ!?」
 ふっと視線を向けた先に、綻ぶような笑顔の君がいた。あっという間に目を奪われて、呼吸が苦しくなって、その柔らかな表情を浮かべた顔に触れてみたいと思った瞬間。俺は、盛大に崖から滑り落ちた。
「だ、大丈夫ですか!?」
 見惚れた女性は、性根も優しかった。擦り傷だらけになった俺を心配して、薬草を探してくると言い残して駆けてゆく。見える範囲に小川があったので、傷口を洗おうと思いそちらへ移動した。戻ってきた彼女の手には数枚の葉が握られており、それを使って手際よく手当てをしてくれる。
「すまない」
「いいえ、そんな。昨日は雨が降っていたから、地面がぬかるんで滑りやすくなっていたんだと思いますし」
「……そうだな」
「でも、擦り傷だけで骨とかは大丈夫そうですね……あんな急斜面から落ちてもこれだなんて凄いわ」
 それは、俺が人間でなくて鬼だからだろう。そうは思うが、言う程の事でもないと思って黙っておいた。妖力を高めるという名目で鬼は時に人を襲う。この少女が、俺の正体を知って怯えるだけならまだしも、下手に手勢を連れて来られたら面倒だ。
「はい、出来ましたよ」
 その言葉と同時に、彼女の手が離れていった。それが何だか物足りなくて、咄嗟に握る。彼女の黒い瞳が驚いたように丸くなった。
「どうしました?」
「ああ、いや……どうという訳でもないのだが」
「そうですか」
 離した方が良いのだろうが、この体温を手離すのは惜しい。幸いと言っては何だが、彼女の表情に特段負の感情が見えなかったので何となくそのまま握っておく。

 振り払われは、しなかった。

  ***

 それ以来、彼女とはこの場所で会って話すようになっていた。彼女を怯えさせないように頭には布を巻き付け、牙は妖術で目くらましを掛けておく。聞くところによると、彼女はこの山の麓の村の住人なのだそうだ。村で使う薬草を取るために、毎日山へ登り採取しているとの事だった。
「女の体でこんな頻繁に山に登るのは大変ではないか?」
「慣れてしまえばどうという事はありませんよ」
「でも、水汲みやら畑仕事やら、他にも色々していると言っていただろう」
「していますけれど……でも、孤児の私を置いて下さっているんだから、このくらいはしなきゃ」
「……家族は」
「十年前に死んでしまいました。父も、母も、みんな……鬼に襲われて」
「!」
 その言葉を聞いた瞬間、握り合っていた手をぱっと離してしまった。彼女の手が名残惜し気にこちらに向いているが、気づかないふりをする。
(……十年前と言えば)
 丁度鬼の世界で戦争が起こっていた辺りだ。力を欲した鬼の一部は人を喰らって妖力の足しにしていたから……彼女の家族も、それに巻き込まれたのかもしれない。
「あの、どうしたんですか?」
 黒い瞳が、憂いを帯びて潤んでいる。会話をするようになって暫くした頃、どうしても欲求を抑えられず彼女の手を握ったらそのまま握らせてくれたから。だから、回を重ねる毎にどんどん近づいていって、今では夫婦の如く寄り添えるまでになっていたが……彼女側に、そんな事情があったというのならば。
「すまないが、急用を思い出した」
「そ、う、ですか……では、また」
「…………ああ」
 俺の正体を知られる前で良かった。鬼相手にあんなに近づくのを許していたなんて分かったら、きっと彼女は後悔するだろう。家族の仇の仲間に、触れられるのを許していたなんて。
「馬鹿みたいだったな、こんなものまで用意して」
 ねぐらに戻ってきた後で、用意していた物をみて乾いた笑いを零す。次かその次くらいに、もし彼女に接吻まで許されれば……花嫁にしようと思って、準備していた衣装一式。
「……馬鹿だったな」
 そう言った自分の声が、いつになく情けなく聞こえた。滲む視界に気づかぬふりをして、乱暴に目元を拭う。それでも、視界が元通りになるのにかなりの時間がかかってしまった。

  ***

 彼女と会わなくなって、半月が経った。あの体温が恋しくて、あの温かな声が恋しくて、攫いに行ってしまおうかと思って思い留まってを繰り返して。遠くから姿を見るくらいならば良いだろうか……と言い訳をし姿隠しの術を使って麓の村に降りてきた。
(……妙に賑やかだな)
 人口も多くないし静かな村だと彼女は言っていたのだが、どうにもがやがやと騒がしい感じがする。状況を把握するため、周りの会話に聞き耳を立てた。
(……は?)
 聞くに堪えない下卑た内容に、身勝手な言い分に、ぐつぐつと腹の中が煮えてくる心地がした。そんな俺の怒りに呼応してか、徐々に雨雲が集まってきて辺り一帯が暗闇と雨に襲われる。
「何だ、いきなり!?」
「さっきまであんなに晴れてたのに!」
「おい雷までなって……うわあ!?」
 かすかに感じる彼女の香りを辿って、乱暴に人を掻き分け進んでゆく。何人かの人間がべしゃっと地面に転がったが、知った事ではない。
「お、鬼! 鬼がいるわ!」
「やべえ喰われる!」
「逃げろ!」
 有象無象が鬱陶しい。俺の進路を妨害している人間は容赦なく横へ突き飛ばして、彼女が入っているのであろう籠を破壊した。
「……あなたは」
 籠の中の彼女は、見た事のない派手な着物を着てごてごてと装飾品を身に着けていた。柔らかで清らかな印象の彼女には、全くもって似つかわしくない。
「おい、それは領主様への貢も」
「黙れ」
 近づいてきた人間を吹き飛ばして、座り込む彼女を抱き上げる。雷雨の中で良かった……今の俺は、れっきとした鬼の恰好だから。二本の角は丸見えだし、大きな牙も隠してない。こんな姿を目の当たりにしてしまった彼女の表情が、見えなくて良かった。
「この女は俺が先に目を付けていたんだ。横取りしようなんざ許さない」
「や……やめろ! そいつを連れて行かなければ、俺達が罰を」
「お前らなんてどうでもいい。旨い話なんてのは存在しないと、身を持って知れて良かったな」
 縋ってくる男を蹴り飛ばし、彼女についている飾りを出来るだけ取って落としていく。こんなものよりも、俺が準備したものの方が絶対に似合う筈だ。
(……彼女の身を案じる人間が一人でも居れば、まだ手心を加えてやったが)
 この調子ならば、雨足を緩める必要はないだろう。寄ってたかって一人の少女に面倒ごとを押し付け生け贄にするような胸糞悪い村、どうなったって構わない。
「舌を噛まないように、口を閉じていてくれ」
 腕の中の彼女にそれだけを告げ、山の中の寝床へと駆けていく。落ちないようにかしがみ付いてくる彼女の腕は、震えていた。

  ***

「あ、の」
「……何だ」
 無事に連れ帰って来られたので、そっと彼女を地面に下ろす。似合わない着物は着せていたくなかったから、有無を言わせる前に剥ぎ取って準備していた小袖を着せた。
「その角と牙、本物ですか?」
「本物だよ。隠してたんだ」
「どうして」
「人間は鬼を厭うだろう。まして、あんたにとっては家族の仇でもあるだろうし」
「……ええ、そうですね」
 その言葉に、心臓が握られたような心地がした。あんな奴らに渡したくない一心で連れて来てしまったが、頃合いを見て別の村に連れて行った方が良いのかもしれない。
 何も言う事が出来ないまま、力任せに唇を噛んだ。小さい頃は立派な角も牙も自慢だったのに、今はこんなにも憎らしい。
 ふと、彼女の気配が動いた。どうしたのかと思って顔を上げると、綺麗なかんばせが目の前に現れる。吸い込まれそうな深い黒に視界が捕らえられたその瞬間、唇に柔らかなものが触れた。
「私たち家族を襲ったあの鬼は、絶対に許しません。見つけたら、身の程も知らずに仇を打つんだと言って殴りかかってしまうかも。でも」
 吐息が重なって熱を帯びる。久方ぶりの彼女の手の平と初めての唇が、余計に俺の頭を沸騰させていった。
「……あなたは、私の傍にいてくれた。あなたは、私を助けてくれた。だから、あなたは違う。あなたは私の英雄なんです」
「俺だって、鬼だぞ」
「人間にだって優しい人と身勝手な人がいます。それと変わらないでしょう?」
「それは、そうかも、しれないが」
 種族が違えば苦労するだろうとか、また別の鬼たちは怖くないのかとか、色んな疑問が浮かんだが。自分が彼女に受け入れてもらえて、もう一度まだ触れてくれたという事実が、どうしようもなく嬉しかった。
「……ずっと、ずっと好きだったんだ。俺の花嫁になってくれ」
「私もです。私もずっとあなたの事が好きで、私を連れて行ってってお願いしてしまおうかと、何度も何度も考えました」
 だから、あなたが望んでくれるのならば、あなたの花嫁になりたいです。幸福の言葉が零れたその唇をもう一度貪った後で、華奢な体を強く強く抱き締めた。