第一話 もう一度あの場所へ

「こっちの鞄にはお召し物が入っていて、こっちは本と文房具と裁縫道具で」
「ありがとう、ガレット」
「持っていかれるラベンダーの鉢はこちらに用意しております。本当に、ラベンダー以外は持っていかなくても宜しいのですか?」
「大丈夫よ。二人に手間を掛けてしまうのは申し訳ないけど、きっと役に立つと思うから」
「頂いた本を参考に、私が責任を持ってお世話致します。どうか、お元気、で……」
「ガレット泣かないで……私も泣けてきちゃう……」
「挨拶は終わったか?」
 泣いているガレットの肩をさすっていたら、上から声が降ってきた。振り返った先にいらっしゃったのは、昨晩と同じローブを纏ってフードを被っているノワール様。その声を聞いた瞬間、ガレットの涙が引っ込んで形のいい茶色の瞳がキッと吊り上がった。
「随分無粋な方もいらっしゃるものですね。急いては事を仕損じるという言葉をご存じないのかしら」
「今生の別れという訳でもないだろう。大げさな」
「勿論これっきりにするつもりはございませんけれど。情緒や人情が無いのも考えものですね」
「巷では氷の王子と言われているんでな」
 私を挟んで、二人が火花を飛ばしている気配がする。下手に何かを言うと火種が業火になるのは経験上分かっているので、大人しく挟まれたままでいた。
「無粋なのはどちらもですよ。ガレットは王子に突っかからない、王子も応戦なさらないで下さい」
「……はーい」
「相変わらずシトロンは手厳しいな。頼もしい限りだが」
 以前の光景を見ているようで、懐かしい心地がする。最も……あの頃のガレットは、ここまでノワール様に嫌味を言うような事はなかったけれど。
「改めて礼を言う。エクレールを保護し、家族として傍に居てくれてありがとう」
「……私はフェリシテ侯爵夫人の侍女でした。当然の事をしたまでです」
「それでもだ。当然の事を当たり前に行うのも、案外難しいものだ」
 そんな彼の言葉を受けて、シトロンが一礼し跪いた。それを見たガレットも、しぶしぶという感じだったが同じように膝を付いて頭を下げる。
「これから先のお二人の未来が、幸福ばかりでありますよう」
 言葉と共に、二人の頭が更に下がる。つい今朝までは、確かに家族だったのに……そう思うと寂しくなってくるが、ノワール様に付いていくと決めたのならば受け入れなければならない。
「……ありがとう、二人とも」
「エクレール様」
「まさか、こんな事になるとは思っていなかったけれど。でも、絶対に幸せになるから」
「はい」
「落ち着いたら遊びに来てね。式には必ず招待するわ」
「ありがとうございます」
「それじゃあ、行ってくる」
 今生ではないけれど、別れの瞬間であるのは確かだ。だけど、二人に泣き顔は見せたくなかった。
 二人の記憶に残る私の姿は、笑顔のままが良かった。

  ***

「相変わらず、シトロンはしっかりしているな」
「ええ。この七年間も、ずっと頼りにしておりました」
 ごとごとと馬車に揺られながら、ノワール様と会話する。昨晩からの展開が急すぎて未だに実感が湧かないが、隣に座る彼の声は相変わらず心地よいものだった。
「ガレットはシトロンに似てきたな。昔はああまではっきり物を言うタイプではなかったと思うが」
「シトロンは働きに出ていて日中家にいませんでしたから、自分がしっかりしなければならないと思っていたのでしょう。シトロンが稼いで、ガレットが料理洗濯掃除と家事をこなして……多少は私も手伝っておりましたが、あの家が回っていたのは二人のお陰です」
「エクレールも手伝っていたのか? 家事を?」
「簡単な事しかしていませんけれどね。料理に使う野菜を洗ったり後片付けをしたり、洗濯物を畳んだり。本当は……もっと色々やって力になりたかったのですけれど」
「ガレットのあの様子だと、させてもらえなかったの間違いだろう? エクレールが気に病む事では無いんじゃないか?」
 事も無げに言われて、思わす吹き出してしまった。確かに、その通りなのだ。お嬢様に危ない事はさせられないと言われて、初期の頃は本を読むか刺繍をするかくらいしかする事がなかった。その後、それでは毎日暇でつまらないでしょうと言って、シトロンが休みの日に簡単な家事を教えてもらえるようになり、ガレットを手伝えるまでになった。
(……来週のガレットのごちそう食べたかったな)
 ガレットの話をしていてその事を思い出してしまい、思わず溜め息をついた。年々腕を上げている彼女の料理は、村のお祭りでも大盛況になるくらい人気で美味しいのだ。程よく温められたチーズにほくほくのポテトやパン、ソーセージを絡めて食べて、丁寧に作られた生地を丁寧に重ねたミルフィーユ……想像するだけでお腹が空いてくる。
「エクレール? 大丈夫か?」
「え?」
「いきなり黙ったから、具合でも悪くなったのかと」
「ああ……申し訳ありません。大丈夫です」
「本当か? 馬車酔いでもしたか?」
「大丈夫ですよ。考え事をしていただけですので」
「考え事?」
「……村長には挨拶出来ましたけれど、他の方とはお会い出来ないままでしたから。落ち着いたら手紙でも書きたいなと思いまして」
「そういう事か」
 疑いもせず納得して下さるノワール様を前に、少しだけ後ろめたい気持ちになる。だけれども、今更私の誕生日を彼に伝えて何になるだろう。貴族としての威厳を見せるという意味で誕生日はとても便利なものだが、私はまだ村娘のままだ。お祝いや贈り物を催促しているような感じで気も進まないし、言う必要はないだろう。手紙を書きたいのも本音だし、嘘はついていない。
「相変わらずエクレールは優しいな」
「そうですか?」
「そうだ。昔から、自分の周りにいる人間を大事にしていて、気遣っている。貴族として領民を纏めていく上で、とても大切な考え方だろう」
「……ありがとうございます」
 私達が侯爵家として優雅に暮らしていられたのは、領民達が一生懸命働いて税金を納めてくれていたからで、使用人達が一生懸命仕事をしてくれていたからだ。それを顧みずに威張り散らすなど、それこそ身の程知らずの浅慮だろう。
「手紙を書いてもらっても構わないし、視察の予定が組めそうならば現地に行く事も可能だぞ」
「本当ですか?」
「ああ。性急に話を進めてしまったという自覚はあるからな。後悔はしていないが」
「……そうですか」
「正直遅すぎたくらいだ。あの頃ですら周りの視線を一心に集めていたエクレールの事だから美人に成長しただろうとは思っていたが、想像以上だったからな……他の男に攫われる前に取り返せて良かった」
「……」
 取り返すも何も、七年前に婚約関係は解消されていたではないか……とは思ったけれども。突っ込むのも無粋な気がして黙っていたら、ノワール様の右手が伸びてきて私の髪を一房掬い取った。そのまま毛先に口づけられ、久方ぶりの仕草にどきりと心臓が跳ねる。
「これからはずっと一緒だ」
 そんな台詞が聞こえてきたと同時に、彼の左腕が私の肩に回った。ぐっと力を込められたので、当然、私の体は彼の方へと引き寄せられる。右手は変わらず私の髪を絡め捕って巻き付けたり梳いたりしていて、彼の頬が私の頭に摺り寄せられた。
(……勿論、嫌ではないのだけれど)
 嬉しそうな彼とは裏腹に、私の方は喜びきれずにいた。