その日、僕は茫然としたまま歩いていた。そんな事考えてもいなかった、自分にはどうしようもなかった。だから、尚更もどかしくて悲しくて。自分の頬を、水滴が伝う感覚がした。
「大丈夫!? どこか痛いの!?」
当てもなく歩いていたら、どこからか声が聞こえてきた。誰だろうか、と思って見回してみるも、人っ子ひとりいやしない。
聞き違いだったのかな、と思ってまた歩き出そうとした、その時。ざあっと風が吹いて、足元の桜色が一気に舞い上がった。それが落ち着いてから、改めて目の前に視線を向けると、そこにいたのは……。
「いきなりごめんね。私は都古、あなたは?」
長い黒髪を残り風に遊ばせながら、心配そうにこちらを見ている女の子だった。
***
「ぼ、僕は……織斗」
「おりとくん?」
「う、うん……」
みやこと名乗った少女は、ふわりと笑ってこちらとの距離を詰め、じいっと僕の顔を覗き込んできた。星空と同じ色をしている瞳と目が合って、訳もなく息が苦しくなっていく。目尻に涙を残したままだったのが何となく恥ずかしくなって、やや乱暴に袖で拭った。
「織斗くん、どこか痛い?」
「痛くないよ」
「でも、泣いてた」
「痛くなくても、泣くんだよ」
「痛くなくても泣きたいの?」
「泣きたいよ。だって、僕は、もうすぐここからいなくならなきゃいけないんだから」
「!」
どうしても落ち着かなくて、彼女と距離が取りたくて、先ほど告げられた残酷な真実を思わず口にしてしまった。言葉に出して自分の耳で聞いて、ああ、やっぱり事実だったのだと思い知らされて、再びじわりと視界が滲む。
「……卒業するの?」
「まだ卒業の年じゃないよ」
「何年生?」
「昨日三年生が終わった」
「私と一緒だ!」
都古の顔が、ぱあっと鮮やかな紅色になった。きらきらと輝いている夜空の瞳が、腰の辺りへと滑り落ちる黒髪が、どうしようもなく僕の瞳を捉えて離さない。
「私もね、昨日三年生が終わったよ。来月には、きっと、四年生になれると思う」
「僕だって四年生にはなれるさ。だけど、僕は、今とは別の学校で四年生にならなきゃいけなくなったんだ」
「……そっか、そうなんだ」
夜空色が陰り、形のいい眉がきゅっと寄せられる。今にも大粒の涙が零れ落ちてきそうで、心臓が鷲掴みされるような心地がした。
「いつ行くの?」
「来週って、父さんは」
「また会える、かな」
「それは、分かんない……けど」
だって、彼女とはついさっき初めて会ったばかりなのだ。どこの学校に通っているのかも、どこに住んでるのかも、彼女の事については何一つ知らない。そんな状況で軽々しく約束が出来る程、僕はお気楽でも法螺吹きでもなかった。
「……ううん、それなら私が会いに行く!」
「行先、僕も知らないよ」
「大丈夫! 何とか、何とか頑張って会いに行くから!」
何の根拠もない話ではあるのだけど。それでも、何故か、それならまた会えるだろうと思ってしまった。彼女があんまり必死だったから、そこまで言ってくれるならって、思ったのもあったのかもしれない。
「……分かった。それなら、僕も、またここに戻ってこられるように、頑張ってみる」
懸命な彼女につられる様に、そんな事を宣言してしまった。だけど、都古の顔が先ほどみたいな華やかな笑顔に変わったので、僕はとても良い事をしたような気になって少しだけ苦しかった心が和らいだ。
「ねぇ、約束、約束ね! お互い、もう一度ここで会えるように頑張る!」
「うん」
そう言って、彼女の距離がまた一歩近づいた。桜の香りがふわりと漂い、落ち着いてきていた心臓がまた早く打つようになってくる。
「約束なら、やっぱりこれね!」
そう言って、彼女が小指をこちらに向けた。ほっそりして真っ白なそれに、日焼けした自分の指を絡めていいものかと少しだけ迷ったが、覚悟を決めてこちらも小指を伸ばす。
あと、もう少しで触れられる。その瞬間、突風が吹いて路地や道路、あるいは木についたままの桜の花びらが、一斉に踊りだした。目を開けていられなくて、思わず手を引っ込めて目を覆い、花びらの舞が落ち着くまで待つ。
「……都古?」
再び目を開くと、そこにいたはずの少女の姿が、忽然と消えていた。都古、都古、と名前を呼んで辺りを探すけれども、ついぞ見つける事は出来なかった。
「……指切り、しそびれちゃったな」
先程まで確かに会話していた都古は、いきなり目の前に現れて、桜吹雪の中に消えていった。それだけを聞けば、人によっては不気味に思うのかもしれないけれど。
「……ここに戻ってきたら、きっとまた会える気がするから。だから、約束」
子供特有の、根拠のない考えだと笑われるのだろうと思うけれど。自分にだって、突拍子もない考えとしか思えないけれど。
だけど、鮮やかに表れて鮮やかに消えていった都古の姿と声は。初めて抱いた淡い想いと共に、僕の心の奥深くに刻まれてしまったのだ。
***
「ここも、十年ぶりくらいか」
かつて時を過ごした事のあるこの町に、もう一度戻ってきた。これからは、この町で一人暮らしをして大学に通うのだ。
『織斗くん!』
十年は隔てた今なのに、未だに彼女の声は鮮明なまま僕の脳裏に蘇ってくる事が常だった。ここで過ごした期間と彼女との逢瀬の時間の差は歴然なのに、思い出すのは彼女の事ばかりだ。
「ああ、この木は変わらないんだな」
あの時と何ら変わらぬ様子で咲き誇る桜の木に、懐かしい思いが込み上げる。あの時と同じように桜が吹雪けば、もしかしたら彼女は現れたりするのだろうか。
そう思って、風の強そうな時間を選んでここを訪れるようになった。時折軽く吹雪くのだけど、そのくらいでは、彼女は現れてくれないらしい。
この場所に通い始めて、一週間くらいが経った頃。それは、突然訪れた。あの時のような舞い上がるような桜吹雪が、もう一度現れてくれたのだ。
「……織斗、くん?」
その呼びかけに、体中の血が沸き立つような感覚を起こした。あの頃よりも幾分低くなった声に、それでも、自分の声に比べれば余程高く澄んだその声を発しているその主に。僕は、いったいどれだけの間会いたいと願っていたのだろう。
「都古」
名前を呼んで振り返ると、そこにいたのは、やはりかつて恋した少女だった。たった一度きりの、たった数分だけの逢瀬でどうしようもなく心惹かれて心奪われた、印象深いその少女は、あの頃よりも身長が伸びてゆるやかな曲線が眩しい体形になっていたけれど。腰の辺りまで流れるような黒髪と、きらきら輝く夜空の瞳は、あの頃と一切変わらない。
「都古に、会いに戻ってきた」
「私も、織斗くんに会うために頑張った」
都古の声は、震えていた。僕の声も、震えていた。さく、と音を立てて彼女の方へと近寄ると、彼女の方も近づいてきてくれる。
あと一歩の距離で、彼女に触れられる。そんなタイミングで、あの時のように桜の花びらが踊りだした。都古を隠そうとするかのようなそれに負けじと、あの時は引いてしまった手を彼女の方へと伸ばし、彼女の手首をしっかりと掴んでこちらへと引き寄せる。桜に連れ去られないように、柔らかな彼女の体をしっかりと抱き締めた。
「……今度は、触れられた」
「うん。今は、もう、大丈夫」
不思議な答えを告げてきた彼女が、自身の腕を僕の背へと回す。それを受け止めるように、もう一度彼女の体をぎゅうと抱き締めて、彼女が向けてくる夜空の瞳を正面から見つめた。
夜空に帳が掛かり、生の息吹を唇に感じながら。ふたり熱を分けている間中、祝福なのか負け惜しみなのかは分からないが、桜の花びらは変わらずに舞い続けていた。