「クラウン様」
「……ティアか」
少し上の辺りから慕わしい声が降ってきたので、読んでいた本を閉じて顔を上げる。今日のティア……ルナティアーラは、薄い水色のドレスを纏っていた。
「先日の夜会ぶりですね。お元気でしたか?」
「ぼちぼちだな。相変わらずあの人達は周りを顧みないから、尻拭いが大変だ」
机の上に本を置き、彼女の手を引いてソファの方へと連れていく。膝の上に乗せて腰の辺りに腕を回すと、慣れた様子で肩辺りにもたれかかってきた。
「王子様は大変ですね」
「貴族のご令嬢も大変だろう? この半年の間で、ロベルタ家は更に商売の手を広げたと聞いている。その関係と俺の婚約者という立場のせいで、ティアの学業に支障が出ていると……すまないな」
「お気遣いありがとうございます。ですが、女学院は結婚による中退が多いですし、婚約者がいる生徒はそちらを優先すべきという校風ですから……そういった理由で授業に出られない生徒の場合、課題提出だけで許されるのですよ」
「それもおかしな話だよな。学校に通っているのだから、勉学を優先したいと思っている生徒だっているだろうに」
「……私のクラウン様はそうおっしゃって下さる方で良かったわ」
「嬉しい事を言ってくれる」
彼女の香りが濃くなって、頬に柔らかいものが触れた。勿論それだけでは足りないので、ルナティアーラを抱え直してこちらを向かせ、思う存分にその口唇を味わう。
「お疲れのようでしたら、本日の予定はキャンセルしてこのまま部屋で過ごしますか?」
「魅力的な提案ではあるが……外の風に当たりたい気分なんだ。付き合ってくれるか?」
「はい」
薄緑の瞳が細められて、彼女の頭がこくりと動く。一瞬だけ心が揺らいでしまったが、彼女に見えないように拳を握って気合を入れた。
「……普段よりも荷物が多くありませんか?」
「最近忙しかったから、馬車の中に置いたままになっている荷物が結構あるんだ。今は一刻が惜しくて」
「そうですか」
特にこちらの様子には違和感を覚えていないようなので、気づかれないようにほっと胸を撫で下ろす。ティアは聡い。気づかれたら計画が破綻してしまう。
馬車に乗ってすぐに、彼女をもう一度膝の上に抱え上げた。服の上から肩や腕、背や腰を撫でたり頬擦りしたりして、存分に彼女を味わう。
「いつになく甘えたですね?」
「普段もこんなものだろう」
「あら、自覚があったのだわ」
しれっと答えてみれば、彼女もくすくすと笑って答えてくれた。愛するルナティアーラの笑顔を、間近でじっと目に焼き付ける。その唇の熱も、体温も、ずっとずっと、忘れないように。
「ここは?」
「俺が所有している領地の中の草原だ」
「見える範囲に建物が全く無いなんて。空を見るにはうってつけですね」
「気に入ってもらえたなら何よりだ。ここは俺の領地の中でも、一番国境に近い場所で一番王都から遠い場所だ」
だからここまで連れてきた。彼女を、愛する君を、革命の渦から逃がすために。
「済まない。俺は……ずっとティアに秘密にしてきた事がある」
「……何でしょう?」
「俺は、王になる気はない。それどころか、王族とか貴族とかの垣根も全て無くして、今の王制を終わらせるつもりだ」
「それは、どうして?」
「この国は腐ってる。腐りきってしまったから、もう、全てを終わらせて生まれ変わらないと未来はない」
そこで言葉を切り、ルナティアーラから一歩離れた。くるりと彼女の方を振り返り、彼女と正面から向かい合う。
「この国をそうさせてしまったのは、突き詰めれば俺達王族の責任だ。だから、王子である俺が引導を渡すべきだと思った」
俺の心は凪いでいた。彼女の銀の髪が、風に吹かれて美しく舞い上がる。
「当然父や母は猛反発するだろう。ロベルタ侯爵だって、それ以外の貴族だって、そんな俺を潰しにかかる筈だ。だけど、それでも俺は革命を押し進める。そうなれば……王都を中心に血で血を洗うような意地と武力のぶつかり合いが始まるだろう」
ルナティアーラは、静かに俺の話を聞いてくれた。少々気弱な部分はあるが、それでも思慮深く、芯のある、大好きで愛しくて堪らない最愛の婚約者。
「大丈夫ですよ」
吹き荒れていた風が落ち着いた頃合いで、ルナティアーラがぽつりと呟いた。薄緑の瞳は、まっすぐに俺を捉えている。
「貴方は私の綺麗な空。共に永久にと願う人。たとえこれから先何があったとしても、私はクラウン様と共にいます」
たとえ両親と対立しても、兄弟姉妹や学友を苦しめる事になろうとも。それでも貴方が自ら恨まれ役を買って出ると言うのならば、私も最愛の貴方と共に恨まれましょう。そう言ってくれたティアを、ルナティアーラを、俺は生涯愛し抜くと誓おう。
「残念だが、俺とティアはここでお別れだ。婚約は解消する」
「……どういう事ですか!」
ティアの表情が一気に険しくなった。美人は怒ると迫力があるな、なんて場違いな事が脳裏に浮かぶ。
「この革命は、ティアと会う前から起こすと決めていた事だ。だから、ティアがいない前提で全ての計画を立てている。計画の異分子であるティアに、このまま一緒にいられては困るんだ」
「それでは計画を修正して、私も仲間に加えて下さい! 星を見れますから、コンパスが無くても正確な方角を割り出せます! アクセサリー作りを応用すれば、防具や武器だってきっと直せるし作れるわ! 戦闘訓練は受けていないから共に戦場で戦う事は出来ませんが、足手まといには絶対になりません!」
「ティアに戦火は似合わない」
「似合う似合わないの問題ではないでしょう!?」
「それに……ティアは欲しいようだが、俺は自分の子供なんていらないと思っている」
「……どうして」
「革命が成功したとて王家の血を継ぐ子供が居れば、復活を願う貴族の生き残りに担がれ利用されるかもしれない。それならば、火種は残しておかない方が良いに決まってる」
だから子供は勿論の事、妻や恋人もいらない、と。俺は本気で思っていたし持たない覚悟もしていた。それなのに……俺はルナティアーラを愛するようになった。愛する君との子が欲しいと、一瞬でも思ってしまった。
こんな状態では革命を成功になんて導けないし、ルナティアーラを守りきれない。ティアの事は心から愛しているが、俺は、この国を見捨てられない。見捨てて逃げてティアと幸せになるなんて、出来ない。
「……子供を望まないならそれでも構いません! 子供がいなくても二人で一緒に生きていく事は出来ます! だから、私も貴方の傍で戦います!」
「気持ちだけ受け取っておく」
「クラウン様!」
「本当に、ティアは最高の婚約者だった」
「そんな! 嫌で……」
彼女の言葉を遮るように、麻酔薬を染み込ませたハンカチで口を覆う。彼女の体はあっけなく崩れ落ちて、美しい銀が辺り一面に散らばった。そんな彼女を抱え、乗ってきた馬車の中へ運び座席に寝かせる。
「……宜しかったのですか?」
「ああ。俺は、ティアが革命に巻き込まれて害される事が一番恐ろしい」
「目に届く範囲にいる方が、守りきれると思いますが……」
「俺がティアに骨抜きなのは、あの狡猾な貴族どもも知るところだ。近くにいれば、革命が終わる前に見つけ出されて人質なり鬱憤晴らしの標的になりされてしまう可能性が高い」
グレードの言葉に心を殺しながら答え、ルナティアーラの親指をインク壺の中に浸す。予め用意していた婚約破棄を了承する意思を示すための書面に、その親指を使って拇印を押した。指に残ったインクを拭い、馬車の外で待機していたティアの侍女に指示を出す。
「必要な荷物は既に馬車へ積んであるから、まずは国境を越えて隣国のダビー子爵の元へ向かってくれ。その後で、子爵の奥方の実家が治めている村の一つに連れて行ってもらえるよう手配してある。子爵領まではグレードが御者だ」
「……かしこまりました」
そう言って一礼したティアの侍女は、一瞬だけこちらを振り返った後で馬車に乗った。グレードに合図をし、馬車が走り出すのを無言で見送る。
「こんな風にしか守れない俺で、ごめんな」
俺がもっと優秀であれば、俺がもっと強ければ、また違った未来があったのだろうか。今ほど、己の無力に腹が立った事はない。
「これからが始まりだ。この国の最後の王子として、この国を誰よりも愛する者として、最後の献身を始めよう」
馬車が去っていった方角から目を逸らし、王都へと向ける。待たせていた愛馬の背に跨って、決戦の地へと向かった。