ありがとう

 あふれるほどの、愛を。
 抱えきれないくらいの、幸せを。
 たくさん、たくさん、私にくれた。
 愛された私は、本当に幸福な毎日を送っていて。
 生涯を共にしたいと思えるくらいの人とも、巡り合えて。
 ひと月後には、最愛の人に嫁ぐ事が決まっていた。
 だから、どうしても伝えたかった。
 感謝の気持ちを。二人への愛を。
 今まで私を育ててくれた、貴方と貴女に。

 でも、私は『ありがとう』の一言すら……自分の言葉で、自分の音で伝えられない。

 生まれた時から、私は言葉を話す事が出来なかったから。
 自分の声を持たずに、生まれてきたから。

 ***

「ねえ、音声合成ソフトって知ってる?」
 とある昼下がりの午後、式の打ち合わせをしていた時に、彼がそんな事を言い始めた。
『知ってるよ。文章打ち込んだら読み上げてくれるってやつでしょ?』
 会話用のメモ帳に、さらさらと答えを書いていく。パソコンを使うようになって、そういうソフトがあるって知って……これなら、私の声の代わりになってくれるかもって期待して使ってみた事もあるけど。
 でも、ただ文章を読み上げるだけでは足りないのだと気づいてしまったのだ。私が両親に伝えたい気持ちは簡単な一文や二文じゃ到底足りない、いっそ一曲を情感たっぷりに歌うくらいのボリュームでなければ無理だって。
『でも、何でいきなり?』
「最近動画サイト見てて、見つけたんだけど……」
 そう言った彼は、自分のスマホを操作してある動画を見つけると、私に見せてくれた。
『ソフトが、歌ってる?』
「うん。その動画みたいにさ……音声合成ソフトって、文章を読み上げるものだけじゃなくて、歌声を作れるものもあるみたいなんだ」
『へぇ、そうなの』
「そう。それに……オリジナル曲だけじゃなくて、自分の好きな曲を歌わせる人もいるみたい」
 ちょっと貸して、と言って彼が再び動画を探し始める。検索画面には【カバー】として、古い名曲や最新のポップスまで、たくさんの【歌わせてみた・歌ってもらった】動画が映っていた。
 それらの動画を見ているうちに、ふとある考えが頭をよぎった。
(……これなら、このソフトなら、私の代わりに『ありがとう』を音に出来るのかもしれない)
 大好きな両親に、今一番伝えたい言葉を。自分の言葉で、自分の音で、彼らの目だけではなくて、耳にも。
『ねぇ、このソフトって電気屋さんに売ってるのかな? それとも、楽器屋さん?』
「どっちにもあるみたいだけど、少し大きめの電気屋さんの方が種類あるかもね」
『種類?』
「男性声、女性声、子供の声、大人の声……結構選べるみたいだよ」
『そうなの!? じゃあ、私と同じ年くらいの女の人の声もあるかな!?』
「あると思うよ」
『その子、欲しい! その子なら、私の願い叶えられるかも! ねぇ、一緒に買いに行ってくれる?』
「いいよ。そう言うだろうと思ったから……教えようと思ったんだ。君がずっとそうしたいと思っているって、聞いてたから」
 にっこり微笑みながら答えてくれた彼は、その日のうちにソフトを買いにお店へ連れて行ってくれた。店頭にはいろんな子がいたから迷ってしまったけれど、最終的に……とある綺麗なバイリンガルの女性のソフトを選んで、喜びに胸をときめかせながら帰路についた。

 ***

「作業は順調?」
 ソフトを買ってから二週間後、私の部屋に来ていた彼が、一生懸命パソコンに向かっている私の手元や画面を覗き込みながら尋ねてきた。
『一応、最後までは打ち込めたの。歌も言葉も、伴奏も』
「おお、すごいじゃん……ちょっと聞かせてよ」
『まだダメ』
「えー……何で?」
『まだ音を打ちこんだだけだから』
「打ち込んだら歌えるんじゃないの?」
『歌えるけど、このままじゃ個人差が出ないわ』
「となると、別にする事がある?」
『みたい。何か、ビブラートとか子音拡張とかって……他にも細かいパラメーターがたくさんあって、頭がくらくらする』
「それなら、そのままでもいいんじゃないの……無理して体調崩しちゃいけないし。きみが買った時にその人のサンプル音源聞かせてもらったけど、結構そのままでも自然だったじゃん」
『それは、そうだけど……』
 彼が言うみたいに、ただ打ち込むだけでも彼女は一定の水準で歌ってくれているのは事実だ。そして、それだけの状態でも十分聞ける歌声である事も。
 でも、そのままじゃ誰がやっても同じ歌声になってしまう。それじゃあ、『私』個人の思いが乗らない気がするのだ。
『でも、まだもう少し時間はあるから。出来る限りの私の手を加えたいの……彼女の歌声に』
 私がしたいのは、私だけの歌声を作ること。だからこそ、音の伸ばし方、発声の強さ、声の揺れ幅、声質……それら全てを、納得のいくまでこだわりたい。細部にまでこだわって、今の自分の思いを詰め込むことで、彼女の歌声は『私個人の歌声』に成り得るのだ。
「ふーん。奥が深いんだね」
 それなら、心ゆくまでしたらいいよと言って。彼は私の頭をねぎらうようにぽんぽんと撫でた。

 ***

「花嫁の入場です。皆さま、温かい拍手でお出迎え下さい」
 目の前の重い扉が、ギィッと音を立てて開かれる。会場にいる皆からの祝福の視線と拍手を一身に受け止めながら、私は披露宴の会場に入って愛しい彼の元へ向かった。
 そして、友人のスピーチや食事が一段落した頃、いよいよ両親への挨拶の時間がやっていた。
「父さん、母さん。今まで俺を育ててくれて……」
 隣にいる彼が、時折声を詰まらせながら手紙を読み上げる。彼の両親……特に、お母さんは号泣していた。そんなお母さんを、読み終えた彼が抱きしめる。温かい親子の包容が終わった後、私の番がやってきた。
「「お父さん、お母さん」」
 会場のスピーカーから、私自身で調声した『私と彼女の声』が流れだした。来場者が、何事かと辺りを見回しているのが見える。
「「二人への感謝を込めて、私からは歌を送ります」」
 そう前置きした後で、彼女は私の代わりに歌ってくれた。お父さんとお母さんへの感謝を込めた歌を、持ち前の……伸びやかで、しっとりと響く慕わしい優しい声で。
「「お父さん、お母さん、ありがとう」」
 彼女が話す通りに、私も口を動かした。今彼女が話している言葉は、私が二人に伝えたいと思った言葉だから。彼女の声は、私の声。今の彼女は、私そのもの。
「「今までずっと育ててくれて、愛してくれてありがとう。私は、お父さんとお母さんの娘として生まれる事が出来て、本当に幸せです。いつまでも、二人の事が大好きだよ」」
 言い終わった私の目から、はらはらと涙がこぼれ落ちた。

 ***

 あの日号泣していた私の両親に、音声ファイルを入れた音楽プレーヤーをプレゼントした。新居に引っ越した後、暫くして二人から届いたメールには……毎日あの歌と言葉を聞いている、それを聞く度に嬉しさが込み上げて泣いてしまうと書かれていた。そして、長年抱えていた後悔と悩みに、答えをもらえたようで嬉しいとも言ってくれた。
 自分達の元に生まれたせいで、この子に苦労をかける事になったのでは。
 なぜ普通の子に産んでくれなかったのか、と思われているのでは。
 そんな風に考えていたんだそうだ。私が小さい頃は、寝ている私の頭を撫でながら……こんな体に産んでしまってごめんね、と泣いて謝った事もあったとか。
(全く、見当違いも良いとこ)
 五体満足に生まれたとしても親に愛してもらえなければ、その子の子供時代は不幸になってしまう事が多いだろう。私は、私の体は、確かに……五体満足の完全体とは言えないけれど。でも、子供時代から今までずっと、二人にたくさん可愛がってもらって、たくさん愛してもらった。
 だから、すぐに思いを伝えられない事にもどかしさやそれ故の憤りは感じても、二人自身を恨む気持ちなんて、これっぽっちもなかったというのに。
「ただいまー」
 少し疲れの混じる声で、帰ってきた私の旦那様がそう言っているのが聞こえてきた。私はパソコンを閉じて、ゆっくりと玄関へ向かう。
「ん? 動いて大丈夫なの?」
 私を見ての開口一番、そう言った彼に向かって思いっきりしかめっ面をして見せる。せっかく出迎えたのだから、そこは笑顔で『帰ったよ』とかの言葉が先に来るべきであろうに。
『今日の検診も異常なし。順調に育ってるって』
 ひらひらと、撮ってもらった超音波写真を彼に見せる。彼は嬉しそうな顔で、前よりも大きくなってるねと顔を綻ばせた。
 彼の夕飯の準備をした後で再び開いたパソコンの画面には、彼女の調声画面が映っている。次は、これから生まれてくる私達の子供のために歌ってもらおうかと思って、童謡のカバー音源を作っていたのだ。
(あなたに出会えて、本当に良かった。あなたがいてくれたから、私は言葉を音に乗せて皆に伝える事が出来る)
 いつか、あなたのために一曲作ってみたい。作曲はした事がないけれど、でも、ささやかなワンフレーズくらいの曲なら、頑張れば出来るかもしれない。今度本屋さんでそういった類の教本を探してみよう。歌う事を目的として作られた彼女へ感謝したいなら、それが一番いい気がするのだ。
(これからも、よろしくね。きっと、長い付き合いになると思うわ)
 心の中で、そっと呟いた。私の言葉を、私の代わりに音に乗せて語ってくれる彼女に……私の、分身に。