薄暗い廊下を重々しい足取りで歩いていく。豪華な晴れ着を着込んでいるからというのもあるのだろうが、気が進まないという感情が一番の理由だろう。
(……久々にやってきたと思ったら)
神界の外れでひっそりと暮らしている私の元に、滅多にやって来ない伯母がやってきた。そして、開口一番こう言ったのだ。
『神界で一番強い力を持つ龍神の娘を娶りたいという人間が現れたので、一週間後にお前が嫁ぎなさい』
聞いた瞬間、私よりも強い力を持っている龍神の娘は他に何人もいるだろう、こちらの事情を考えずに話を進めるな、急すぎる……そう、思ったけれど。穢れなき神こそ至高、堕ちた神や神でない生物は皆一様に低俗という偏った思考を持つこの伯母には、何を言っても無駄だ。どうせ、人間如きに自分の娘達を嫁がせたくない、龍神の力さえ使えれば問題ない……そう思って私に白羽の矢を立てたのだと思うし。
『随分と急な話ですね。嫁入り用の道具や家具は何一つ持っていないのですが、それでは失礼になりませんか?』
『全て準備してあるから、身一つで来て良いと言っていました。だから、お前は業務の引継ぎだけしてそのままさっさと人間界へ行けば宜しい』
『そうですか。それでは、肌着や小物・普段使ってる茶碗等を纏めて』
『いいえ。肌着は……まぁ良いですが、それ以外の物は全て新品が準備してあるそうですから持っていく必要はありません。直接身に着けるもので、最低限必要なもののみを持って行きなさい』
『……分かりました』
心を無にして、了承の返事だけを一言告げる。満足したらしい伯母は、一週間後に迎えの駕籠が来るからそれに乗っていくようにという言葉を残して帰っていった。やりとりを思い出した弾みで嫌味な笑顔まで思い出してしまい、目を閉じて軽く頭を振る。しゃらしゃらと澄んだ音が頭上から聞こえてきて、少しだけ心が洗われた。
(……あのひとは相変わらずね)
何も知らない子供ではないので、伯母の魂胆は分かっている。厄介者の私を人間界に追い払って、私の両親が残した着物や茶碗等の金目の物を全部自分の物にしたいのだろう。
高位神の一族のひとつと言われる龍神の一族の出であるくせに、考えている事は思いっきり俗物なのだから笑ってしまう。そんな俗物神の言いなりになる気はなかったので、家にあった物は家具も着物も保存食も何もかもを纏めて持って来た。きっと今頃、もぬけの殻になったあの家を見て腰を抜かしている事だろう。良い気味だ。
そんなこんなしているうちに、婚礼の儀を執り行う部屋にやってきた。この部屋の先に、私の旦那となる人がいるのか。せめて、こちらの話をきちんと聞いてくれる人なら良いのだけれど。私も、妻として頑張るから。
脳内で必死に祈りながら開かれた扉の中に入る。正装で立っていたのは、金糸の刺繍が入った黒地の眼帯を左目に着けている、長身で強面の男性だった。
***
「あなたが心春どのか」
「……はい」
「銀色の髪に緑の瞳……聞いていた特徴とも一致するな」
「ええと……あの……あなた様が」
「ん? ああ、俺が間宮秋満だ」
まみやあきみつ。ここへ向かう途中に聞いた、強い力を持つ龍神の娘を妻にと望んだ男の名前。人間の身で神嫁を望むなんて、怖いもの知らずなのか何らかの理由で切羽詰まっているのか……さて、どっちだろう。
「まずは謝辞を。この家に来てくれて感謝する」
「……ご丁寧にどうも」
「早速だが婚姻の儀に移らせて頂きたい。宜しいか?」
「はい」
秋満さまは顔に似合わず律儀な性分らしい。そこは有り難いが、それでも帳消しに出来ないくらいの威圧感だ。眼帯を着けているからなのか、見えている目が釣り目だからか……思わず身震いしてしまったくらいには、怖い。
「それではこちらへ」
右手を差し出されたので、覚悟を決めてその手を掴んだ。その瞬間、何故かは分からないが先ほど感じた怖さとは全然別物の恐怖に襲われる。思わず手を振り払おうとしてしまったが、気合で堪えた。気分を害さなかっただろうかと思ってそっと彼の様子を伺ったが、こちらの態度に違和感は覚えなかったらしい。
彼の方に引き寄せられたので近寄ると、彼の瞳と諸に視線が合った。人間の中では珍しい、赤みの強い紫色をしている。
何となく目が離せなくて見つめたままでいると、咳払いが聞こえてきた。儀式を始めても良いかと聞かれたので、進行役の神主さまらしい。
「汝、目の前の間宮秋満を夫とし、共に生きる事を誓うか」
「はい」
「汝、目の前の心春を妻とし、生涯を添い遂げると誓うか」
「ああ」
儀式は滞り無く進み、祓いの儀も祝詞も盃も交わし終えた。後は、一礼してこの部屋から辞すだけだ。一週間で作法を覚えなければならなかったのでどうなるかと思ったが、問題なく終えられそうでほっと胸を撫で下ろす。
「心春どの……いや、心春」
「はいっ!?」
いきなり名前を呼ばれて、素っ頓狂な声で叫んでしまった。儀式の最中にも思ったが、秋満さまは声が良い殿方なので不意打ちは心臓に悪い。
「済まない、驚かせてしまっただろうか。儀式を終えて夫婦になったのだから、あまり他人行儀でもいけないだろうと思って」
「ええと……はい、分かりました。そういう事でしたら、慣れますので大丈夫です」
「そう言ってくれると有難い。心春も、俺の事は好きに呼んでくれ」
「……では、秋満さまで」
好きに呼んでいいと言われたが、秋満さまは旦那さまだ。失礼な真似は出来ないだろう。そう思ってそう呼んだのだけれど、彼は形の良い眉を寄せてしまった。
「そんなに畏まらなくても大丈夫だぞ。本来ならば、俺の方が敬称で呼んで言葉を改めないといけない位なのに」
心春は強い力を持つ龍神なのだから。鋭さはあるが曇りはない綺麗な瞳を向けられて、そんな言葉を告げられた。
その瞬間、胸の内に湧き上がって来たのは罪悪感。だけど、それをこの場で言うのは憚られた。
「……そんな事ありませんよ。私達が神でいられるのは、神として力を振るう事が出来るのは、私達を信仰してくれる信者がいてこそですから」
伯母達はその辺を軽視しているが、私は、それは間違いない事実で蔑ろにしてはいけない部分だと思っている。信仰を失った神がどうなるか……その末路を見た筈のあのひと達がそれを軽視している事が信じ難いし、許し難い事実だと思っている位なのだ。
眠らせた筈の過去が蘇ってきて、目尻から涙が零れていきそうになった。みっともない姿を見せる訳にはいかないので、ぐっと唇を噛み締める。
「とりあえず、儀式は無事に終わった。夜にまたそちらへ向かうから、それまでは部屋で寛いでくれ」
労わるような声が降ってきて、頭の上に温もりが触れた。久方ぶりのその重みのせいで、涙腺が緩んで仕方ない。
「……お気遣い頂き、ありがとうございます」
何とかそれだけを伝えて、部屋を出ていこうとした彼を見送った。
***
夜にそちらへ向かう。聞いた時は言葉通りに受け取って、色々な話が出来れば良いな……なんて呑気に考えていたけれど。
(婚姻の儀を挙げた夜にする事って言ったら一つしかないじゃない!)
そう気づいて、危うく絶叫しかけた。神界で遠巻きにされていた私には、その手の経験は一切無い。秋満さまはどうなのだろうかと、ふと思ったけれど……思っただけで何故か面白くなくなってきたので、これ以上は考えない事にした。
「旦那さまがいらっしゃいました」
部屋の入口に控えていた女中に声を掛けられて、文字通り飛び上がった。かろうじて返事らしきものをし、秋満さまを迎え入れる。
「心春」
「……秋満さま」
「足りない物や合わない物はなかったか?」
「大丈夫です。むしろ、こんなに準備して下さっていたなんて申し訳ないくらいで」
「無理を言って来てもらった訳だから、この位はするさ。ああ、そうだ……心春は嫁入り道具を沢山持ってきてくれたようだが、人間界では使えないなんて事もあるかもしれない。その辺りの確認だけはしておいて欲しい」
「分かりました」
嫁入り道具として持ってきたというより、奪われたくなかったから持ってきたというのが正しいので、気遣われるとかえってばつが悪い。しかし、そのまま仕舞い込んでいては物も可哀そうなので確認はしておこう。
会話を終えると、秋満さまはこちらへと近づいてきた。飛び出ていくんじゃないかと思う位に心臓が鳴っているが、果たして私は一晩持つのだろうか。
「隣に座っても?」
「はいっ」
思いっきり声が上ずったが、秋満さまは突っ込まないでいて下さった。少しだけ右にずれて、彼が座れるだけの隙間を作る。二人分の体重が乗った寝台は、ぎしりと音を立てた。
「……何かつけているか?」
「どうしてです?」
「何というか、その……良い香りがするから」
彼の顔が近づいてきて、ほんの一瞬だけ怯んでしまった。顔が怖いのにはある程度慣れてきたのだが、そもそも家族以外の男性とこんなに近い距離にいた事がないのでそちらの方に慣れないのだ。こちらの心臓の音、聞こえていないと良いけれど。
「ええと……あの、湯浴みの後に、侍女の方々が香油を塗って下さって」
「ああ、なるほど……艶々してるから、髪に塗ってあるのか?」
「髪もですけど、腕とか足にも」
「…………そうか」
そう言った秋満さまは、呻くような声を上げながら顔を離した。ほっとしたのも束の間、髪を一房手に取られて鼻先まで持っていかれる。すんすんと匂いを嗅がれて、羞恥でどうにかなってしまいそうだった。
「ああ、梔子だな」
「そうですね。香りが良いですし果実は薬にも染料にもなりますから、庭にあると何かと重宝しますよね」
「心春の家の庭には梔子があったのか?」
「はい。梔子以外にも、甘草とか芍薬とか……薬草関係が多かったです」
髪を持たれたままなので落ち着かないが、会話を途切れさす訳にもいかないので必死に言葉を紡いでいく。くるくると指に巻き付けられている自分の髪を眺めている時間は、無限のように感じられた。
「そうか。薬草なら、うちの庭にもいくつか植えられているから見てみるといい」
「ありがとうございます」
「庭師には言っておくから、声を掛けてくれれば案内……」
「秋満さま?」
流暢だった言葉が不自然に途切れたので、どうしたのだろうかと思って彼の顔の方へと視線を向ける。すると、同じ快適な温度の部屋にいる筈の秋満さまは、やたらと汗をかいていた。
「どうなさいました? 汗が」
「あ、ああ、済まない。大丈夫だから」
「そのままにしていては風邪を引いてしまいますよ。ええと、先ほどお借りした手拭いが……あったあった」
白い木綿の手拭いを掴んで、彼の額や頬、首の辺りを拭っていく。十分拭き取れたと思った瞬間、秋満さまの体がぐらりと傾いだ。支えを失った体はこちらに倒れ込んで来て、私ごと寝台の上に倒れ込んでしまう。ほんの一瞬だけ結婚初夜にする事が頭をよぎったが、彼の体の熱さと異常な息の荒さから緊急事態を察した。
「秋満さま! 大丈夫ですか!」
「う……」
「少々お待ち下さいませ。人を呼んで参ります!」
「こは……だい……」
「何が大丈夫なものですか!」
「どうかなさいましたか!」
縋ってくる秋満さまの手を振り払って駈け出そうとしたその時、部屋の扉が開いて控えていた家臣の一人が現れた。確か、ここに来て最初に案内をしてくれた、秋満さまの腹心だった筈だ。
「秋満さまが! すごい熱で!」
「……っ!」
腹心の方の顔が一瞬で険しくなった。失礼、と一言断りを入れてくれた後で、慣れた手つきで脈や体温・呼吸を確認している。
「一旦寝台に寝かせます。申し訳ありませんが、掛け布団を捲って下さいますか」
「はい」
言われた通りにすると、彼は何かを唱えた後で秋満さまを持ち上げた。そして、そのまま寝台へと近づきその上に下ろす。
「あの……奥方さま」
「……あっ、私ですか?」
「はい。あの、奥方さまは龍神様だと聞いております。治癒の術とかの心得は」
「あります」
「お願い出来ませんか? 必要な物がございましたら、至急お持ち致します」
「大丈夫ですよ。少しだけ寝台から離れて下さい」
神力は、強すぎるが故に人間の害となる時がある。見た感じ臣下の彼は人間の術者のようなので耐性はあるだろうが、念には念を押す位で丁度よいだろう。
十分に距離を取ってくれた事を確認して、治癒の術を展開していく。両手に纏った神力を、秋満さまの額に、肩に、体にと丁寧に行き渡らせた。
(……呼吸が整ってきた)
荒かった息は規則正しくなり、汗もすっかり引いている。無事に一仕事を終えられて、ほっと胸を撫で下ろした。