俺の愛しい婚約者

  

『彼女と目が合ったその瞬間、雷に打たれたような衝撃が俺を襲った』

 手垢に塗れた表現である事は重々承知している。だが、本当にその位の衝撃を受けたのだから、仕方ない。

「互いの両親が望んでいますから、きっと私たちはこのまま婚約して結婚……という流れになると思います。誠さんは、それでも大丈夫ですか……?」

 美しい漆黒が僕を捉え、不安げに見上げてきた。潤んでいるその瞳が、鈴のような声を奏でる口元が、俺の視線をこれでもかと引き留める。

「俺には恋慕う人も恋人もございませんから、問題ありません。貴女こそ……沙織さんこそ、相手が俺で大丈夫ですか」

 目の前の佳人は、俺よりもだいぶ年下だった。高校二年生と言っていたから、九つは下である。女子高生からしてみれば、二十五を超える男は皆一律におじさん扱いになってしまうのではないだろうか。

「……私、も。問題ありません、から、お話を進めていただいて、大丈夫……です」

 恥ずかしげに頬を染めつつ、鈴の音が幸福を紡ぐ。はっきりと本人からの了承を得たその瞬間、俺の脳内で鐘が鳴り響いた。

  ***

「どうした、グルメ雑誌なんて見て」

 連絡先は無事に交換できたので、さっそく次の約束を取り付けるべく店を物色していたのだが。取引先や同僚、友人らの場合とはかなり勝手が違うので、店選びに少し行き詰っていた。

「……先日、見合いをしたと言っただろう?」

「言ってたなぁ。気が進まんとか言ってた割には、次の日に花を撒き散らしてるかのような浮かれ顔で出勤してきたから……変な薬でも打たれてきたのかと心配したぜ」

「まぁ、彼女にはそのくらいの魅力があったから、彼女中毒のようになっていたんだ」

「その言い方はねーだろ。その彼女に謝れ」

「彼女は驚いていたけれども礼を言ってくれたぞ。そんな風に褒められる事はなかなかないからありがとうございます、とな。やはり心の美しさが外見の雰囲気ににじみ出てるからあんなに美人なのだろう」

「社交辞令以外の何物でもないわ! 高校生に気を遣わせてどうすんだよ!」

「そう、彼女が高校生の未成年なのが悩みの種なんだ。未成年だから、選ぶ事の出来る店が限られる」

 初めて会った日に、年が少々離れているのは支障ないと言ってくれていた。だけども、それはあくまでも『俺たち二人が結婚するにあたっては、どちらも年齢は気にならない』というだけで、こうやって出かけるとなるとそうはいかない。良識ある大人でいなければ、きっと彼女は俺の手からさらさら零れ落ちるようにいなくなってしまうのだ。

「……状況的に居酒屋ってのも憚られるな」

「そうだな。居酒屋はもっと親睦を深めてから、ファミリー層が多い時間帯を狙っていく必要がある。もちろん、彼女が行ってみたいというのならば一向に構わないが」

「向こうもお嬢さんなんだから、無難に高級ホテルのディナーとかでもいいんじゃないか?」

「逆に普段通り過ぎて面白くないかもしれないだろう。新鮮な場所に連れて行ってこそ、甲斐性のある男というもので」

「……それなら、好きな食べ物とか興味あるものとかを聞いてから考えた方が良いんじゃないのか」

「やはりそうか……彼女の手を煩わせる事無くスマートに事を運びたかったんだが」

「何言ってんだよ。そういう会話を丁寧に積み重ねていくからこそ、互いへの信頼や愛情が深まるんだろうが」

「……ふむ」

「一目惚れした結婚相手なんだろ? そんなら猶更、他の人間よりもそういう積み重ねが大事な相手のはずだ。メールでも電話でも何でもいいから、とりあえず一言好きな食べ物は何ですかと聞いてこい」

「……流石、周りを巻き込んだ大恋愛の末に学生結婚した奴の言う事は違うな」

「それは今関係ねぇ!」

 心からの賛辞のつもりで言ったのだが、当の本人には丸めた書類で頭を叩かれてしまった。

  ***

「わざわざありがとうございます! 一度来てみたかったんです!」

 目の前で、可憐な花が咲き誇っている。きらきらとした漆黒が、弾んでいる声が、ここ最近の仕事の疲れを一気に吹き飛ばしていった。

「喜んで頂けたのならば何よりです。ああ、確かにこのオムライスは絶品ですね」

「そうですよね! 時さんのオムライスも好きなのですけど、やっぱり一度は本場といいますか……専門店の味を体験したくて」

 嬉しそうにオムライスを食べている沙織さんは、年相応の溌溂とした可愛らしさを有していた。ああ、色づいている頬も艶やかな唇も、何もかもが輝いている。

 メインであるオムライスを食べ、付け合わせのスープも飲み干し、デザートのバニラアイスも全て平らげたその後。あまり遅くなってもいけないから、という事で彼女を自宅まで送っていった。

「今日は楽しかったです。また連絡しますね」

「はい! あ、あの……」

「どうしました?」

「……今度は、誠さんのお好きな物を食べにいきましょう」

「俺の、ですか」

「はい……今日は私の好きな物だったから、次はあなたが好きな物を一緒に食べてみたいです」

 先程の元気な可愛らしさはなりを潜め、伏せがちの目と紅い頬をこちらに向けて照れ混じりの表情を浮かべている。知らぬ間に塗り直していたらしい口紅が、瑞々しいゼリーのように美味しく映った。

「誠さん? どうしまし、た……!?」

 それはもはや衝動だった。その行動を起こした理由も、思考回路も分からない。ただ、ただ、どうしてもそうしたかったとしか言いようが無かった。

「ん……んむっ」

 思うままに、柔らかなその感触を味わっていく。手の平で包み込んでいるその両頬のしっとりした心地は、絹地もかくやと言ったところか。

 じっくりじっくり味わって、名残り惜しいままそっと解放する。再び合わさった瞳は、互いに潤んで熱を帯びていた。

「……も、も」

「ま、こと……さん?」

「申し訳ない!! あろう事か、うら若き乙女に俺は何て事を!!」

 幸福の余韻はすっかりと消え失せて、次に襲ってきたのは焦燥感。良い年した大人が、女子校生に了承も得ずに口づけるなんて!

「何と申し開きをすれば良いか……ああ、女性にとって初めての口づけは、とても記憶に残る思い出になるものだと……なればこそ、タイミングや雰囲気と言うものが……」

 じわり、じわり。何て事をしてしまったんだ。もしかしたら、彼女には理想の初めてがあったかもしれないのに。それなのに、俺は、自分の中に突き上がった衝動のままに、彼女へ……。

「……あの」

「ひゃい!?」

 自己嫌悪に陥って思考が堂々巡りしていたところに、鈴の音が鳴り響いた。ぎこちない動きで振り向いた先には、惑う顔の彼女がいる。ああ、そんな顔見せられたら、俺の心の中は大荒れだ。

「……わ、私……その……」

「何でしょう……?」

「大丈夫、です……気遣って頂いて、ありがとう、ございます……」

「で、ですが、俺は」

「……驚きはしました、けど……・でも、嫌では、なかった、ので……」

 震えながら零れ落ちたその言葉を、しっかりと受け止めて反芻し理解するのに一分はかかった。驚いた、それはそうだろう、予告もなしにあんな事されたのだから。でも、でも……嫌ではなかった……と、確かに、今。

「……あなたは、私の、婚約者だから」

「沙織さん」

「だから……大丈夫、です。慣れます……」

 衝動を許された事が、嬉しかった。婚約者だから、そういう触れ方をしても良いと許しを得られたのが、幸福だった。

「それなら、もう一度したいです」

 大脳から滑り落ちた言葉は、およそまともな大人の言葉ではなかった。たった今の反省する気持ちは、いったいどこへ行ったのだろう。お前が必要なんだ、頼むから帰ってこい。

「……わ、わかり、ました」

 これ以上の失態を晒さぬよう般若心経を心の中で唱えていたのだが、了承の言葉が聞こえてきて、思わず動転した。目の前の彼女と一瞬だけ目が合い、そして、その漆黒が瞼によって隠される。俺が近づきやすいように、なのか少しだけ背伸びしてくれているのがいじらしい。

 ふっくらとしているその紅を、蕩ける心地で啄んだ。ちゅ、ちゅ、と微かに聞こえる音が、脳内の理性を霞ませていく。軋む様に心臓が音を立てていて、このまま爆発するんではなかろうかという突拍子もない考えまで浮かんできた。

「……んぅ」

 甘い声が、脳裏に響く。了承を得てから触れ合わせた二回目の口づけは、はちみつのような味がした。

  ***

「……どうしたんだ、そんな辛気臭い顔して」

「俺は……俺は……」

「何だ」

「俺は……彼女に嫌われてしまったのだろうか……」

「えっ!?」

 何も変わり映えしていないスマートフォンの画面を眺めながら、何度目か分からないため息をついた。もう、一か月は彼女からの連絡が来ていない。

「メールを送っても、電話しても、応答がないんだ。そりゃ、向こうから連絡がくるのはそう多くなかったけれど、でも、俺が連絡したときは必ず何らかの方法で返事をしてくれていたのに……」

 毎日とまではいかないが、週の半分以上は彼女へメッセージを送っていたし、その返答も来ていた。仕事でむしゃくしゃした事があった時に、彼女の声が聴きたくて電話をしたら優しい声で労わってくれた。

「いっそ、家まで行ってみるか……」

「いきなりそれはやめておけ。お家騒動的なあれこれで余裕がない、とかならかえって迷惑になるだけだ。向こうも上流階級なんだろう? 自分たちに余裕がなくても、婚約者が訪れたからにはもてなしを……って気遣わせて負担になってしまう」

「……それならば、一体どうしたら」

「ここ最近連絡が取れていない、貴女が心配だし貴女に会いたいから、家まで行ってもいいかって直接聞けばいい」

「また返事が来ないかもしれないぞ」

「そんときゃ、もう行っていいだろう。今すぐに行くならば余計な負担をかける羽目になるだろうが、一回行きたいと予告しておけば、来るかもしれないといって最低限の準備はするはずだ」

「なるほど、前触れは大事なのだな」

「大事だな。そういうとこまで気を回してこその、頼りがいある婚約者さまだろう?」

 いい笑顔で親指を立てて歯を見せる友人に、同じポーズを返す。書いては消し、書いては消しを繰り返しながら完成した面会願いを、画面を叩いて送り出した。

  ***

 ようやく一週間が終わった、と思って褒美がてらちょっといい缶ビールを開けていると、ふいにスマートフォンが光った。こんな至福の時に誰だと眉をひそめながら手に取ると、そこに表示されていたのは……この一か月半ずっとずっと焦がれていた名前だった。

「はいもしもし!? 俺ですよ沙織さん!?」

「あ、えっと……そうですね、このお声は、誠さんですね」

「あああああ本当に本物の沙織さんの声だ! もう空しく録音していたのを聞き直さなくてもいいんだ!」

「えっと……すみま、せん……?」

 久方ぶりに声を聴けた喜びで大脳直下のあれそれを伝えてしまったが、沙織さんは変わらず咎めも引きもしなかった。やっぱりこの人は女神さまだ。

「……すみません、この一か月半全く連絡しないでいて」

「気になさらないでください。そりゃ、寂しくて心細くて、ひょっとして俺は何かをしでかしていて婚約を破棄されてしまうのではないかと戦々恐々とはしていましたが……」

「……」

 電話の向こうで、息を飲む音が聞こえた。いつにもましてたどたどしい感じで話しているが、一体どうしたというのだろう。いや、一生懸命に話している姿を思い描いて彼女を抱き締めたい衝動に駆られているだけで、それ自体に負の感情は抱いていないのだけれども。

「……私、誠さんに、お伝えしないといけない事があるんです」

「何でしょうか?」

「……お伝えしないと、いけないんです、けど……」

 真面目な声なので、こちらも理性を総動員して真面目に話しているけれども。彼女の声は随分と震えていて、今にも消えてしまいそうなくらいだった。

「電話で伝えづらいなら、メールとかでも大丈夫ですよ? そっちの方が話しやすい事もあるかもしれないですし」

 俺なりの気遣いのつもりだったのだが、沙織さんは押し黙ってしまった。もう、私には、と聞こえた気がするがはっきりとは聞き取れない。

「……出来ないんです」

「何がですか?」

「私には、もう、メールが打てないんです」

「え?」

「いえ、色々と導入すれば出来るようになるかもしれないけれど……でも、今は、メールを打つ事も、本を読む事も、一人で出歩く事も、料理も、全部ぜんぶ……出来なくなってしまったんです」

「……どうして、です」

 予想だにしていなかったその言葉に、妙な焦りを感じ始めた。一体、彼女の身に……俺の婚約者の身に、何が起こっているというのか。

「…………私、目が」

「目が」

「……目が、見えなくなって、しまったんです」

 必死に絞り出したのであろうその声が、遠く遠くで響いている。衝撃で動けないでいる俺の手元のスマートフォンからは、彼女のすすり泣く声が零れていた。

  ***

「と、とりあえず……理由を聞いても、良いですか?」

「そう……ですよね。私にとっても……いきなり過ぎて受け止め切れないでいるのですから、誠さんなら猶更ですよね」

 そう言った彼女は、一旦言葉を切って深呼吸を始めたようだ。息を吐いて、吸って、という規則正しい音が聞こえてくる。

「……今までは、特別体が弱いとか、持病を抱えている、とかはなかったんです。時折風邪を引いたりはしていましたけど、まぁ、そういう事はそれなりに皆さんあるじゃないですか」

「そうですね。俺も、十年前に一度だけ風邪を引いた事があります。あとは、寝不足のまま釣りに行って、捌いた魚に当たった事があるくらいですか」

「そうですか……誠さんは、体がお強いのですね」

「そうみたいですね」

 自分の中ではごく普通の事だと思うのだが、今の話をするとみんな口を揃えてそう言うのだ。俺にとっての普通とみんなにとっての普通には、大きい隔たりがあるらしい。何故だ。

「だから……少し見えづらいなって思った時も、疲れてるんだろうなって思っていたんです。ちょうどその時試験勉強していたから、その所為だろうって」

「ふむ」

「だけど……試験終わって、夏休みに入ってそれが終わっても、変わらなくて。むしろどんどん見えなくなってる気がするって思って、流石にこれは眼科へいかないとまずいって思って……近所の眼科へ行ったら……」

「……行ったら?」

「お医者さんが難しい顔をして何かを書き付けていて、怖くなってどうしたんですかって聞いたら、紹介状書くから大学病院で検査を受けるよう言われて……」

 震える声に、嗚咽が混じる。これ以上彼女を苦しめるくらいなら、もう聞くべきではないと思うのに。彼女を苦しめてまで知りたいなんて、どうかしていると思うのに。それでも、彼女とのこれからを望んでいるからこそ、彼女には話してほしかったしきちんと聞いておきたかった。

「お医者さんは両親と懇意にしてる方だったので、その日のうちに両親へ連絡を入れてくれていたみたいでした。茫然としたまま家に帰ったら、次の日にはその大学病院へと連れていかれました」

「成程。そこで、もう一度検査を受けたんですね?」

「……はい。そして、私の目の現状と、将来について聞きました。今はまだ辛うじて色の違いくらいは判りますけど、この病気はまだ治療薬がないから目はもう元通りにはならない、最終的には明暗が分かるか分からないか、そのくらいになるだろうと」

 その言葉に息を呑んだ。今まで当たり前に見えていたものが、見えて当たり前だった景色が、暗闇に閉ざされたままになる。生きていく上で、視覚が担っている働きは大きい。それが丸ごとなくなってしまうというのは、どれだけの恐怖なのだろう。

「ごめ……な、さい、ごめんなさい」

「何を謝る事があるんです」

「だって、私、目が見えなくなるんです」

「ええ、治療薬がないなら……悲しいですが、そうなってしまうのでしょう」

「目が見えないなら、きっとあなたの傍にいるには重荷になる、だから」

「……だから?」

「婚約のお話も、なかった事になるんだろうなって思って……それで」

「……は!?」

「あなたに話さないといけないのに、話したら別れなきゃいけないから、話したくないって、思って、だから」

「ちょちょちょちょ、待ってください何故そんな結論になっているんですか!?」

「え……だって、あの」

「いやいやいやいや貴女との婚約を破棄する気なんてこれっぽちも微塵も小指の爪の先もありませんよ!!」

「で、でも……」

「ありませんってばそんなの断固拒否しますからね!? 貴女と別れるとか絶対に嫌ですか……ごっふぅ!!!」

 必死になりすぎて息継ぎなしに言葉を発していたからか、言い終わらないうちに盛大にむせてしまった。だけど、言葉が切れたら残酷な決定打を突き込まれそうで、それだけは阻止せねばならぬと、機関銃のようにまくしたてねば未来がなくなると思ったのだ。そう、だから、言わせなければこちらの勝ちである。

「だ、大丈夫ですか誠さん!?」

「だ、だい、じょう……ごほっ……ぶ……げほっ……です……」

「あの、何かお飲み物飲まれた方が」

「い、いえ……お気遣いはありがたい……がふっ……ですが、大丈夫です……」

 きっと、電話の向こうでは可愛らしい顔を困惑させておろおろと手が揺れているのだろう。その姿が鮮明に浮かぶくらいには、俺は彼女を愛しているのだ。

「さ……沙織さん」

「はい」

「何があろうと、何を言われようと、俺には毛頭そのつもりはありませんから安心してください」

「そのつもり……?」

「言葉にするのも不吉すぎますし言霊というのもありますのでその言葉を言う気はありませんが、俺は何があろうと貴女を手放す気はないしこのまま結婚するつもりですから、それだけは肝に銘じておいてください。間違っても、自分を責めないように」

 病気というのは、基本誰の所為でもないのだ。生活習慣がどうこう言うものを除けば、誰が悪いわけでもなければ、誰かの所為というものでもない。だから、彼女が自分を責める必要はこれっぽっちもないのだ。

「沙織さんは、訓練校とかに行くご予定はありますか?」

「え、それは……まだ決まっておりませんけど……」

「本来なら貴女が大学を卒業してから祝言を上げるという話でしたけど、この状況ならこのまま大学というのも難しいでしょうし、あれなら先に話を進めて貴女を娶った方がいいでしょうね。そうすれば訓練校に行くとなっても学費とかをうちで持てますし、その方が妹さんの将来にも影響しない」

「……誠さん」

「詳しいことはまた両家の両親もいる場で話しましょう。夜も遅いですし」

「はい……あの」

「何ですかそのつもりの話なら聞きませんよ」

「違いますよ。ありがとうございます……とお礼を言いたかったんです」

「何故に」

 お礼を言われるような事は特に言っていないと思うのだが。むしろ、両家が関わるから親同伴でないとこれからの話が出来ないという情け極まりない発言をせざるを得なかった……というこの状況にだいぶダメージを負っているのだが。

「こんな状況になっても、婚約者に力強く結婚するつもりだって言ってもらえたのは……貴方が思うよりももっとずっと、幸せなものなんです。だから」

「俺の脳内直下で沙織さんが幸せになれたのならば、恥を晒した甲斐があったというものです」

「……先ほどの言葉が脳内そのままというのなら、さらに幸せが倍増しますね」

「本当ですか? やはり俺は女神と婚約していたようだ」

「……ありがとうございました。私の神様」

「どういたしまして、私の女神」

「おやすみなさい」

「おやすみなさい、沙織さん」

 幸福な気持ちで、通話終了ボタンを押す。今日は久々にいい夢が見られそうだと思った。

  ***

「はっ?」

 久しぶりに会った両親が、不可思議な事を言った気がして。今までにそんな反応を返した事はないのだが、ついつい怪訝な返答をしてしまった。

「すみません、どうも俺は疲れているようです。今、何と、おっしゃいました?」

「お前と例の令嬢との婚約は破棄してきた。もっと別の女を探してくるから、お前もそのつもりでいろ」

 この人たちは、何を言っているのだ。頭が言葉を理解する事を拒否しているが、それでは話が進まない。ええと、思い出せ。お前と例の令嬢との婚約……俺と、沙織さんとの、婚約、を……。

「……どうしてそんな事をしたんですか!!」

 まるで意味が分からなかった。どうして、どうして。婚約を申し入れたのはこちらからだと聞いているぞ!

「こちらの方からどうしても是非にと言ってお願いしたと聞いていますよ!? それなのに、どうしてそんな、言い出しっぺの方から断るなんて非常識な真似を!?」

「結婚というのは家と家の結びつきを意味する。あちらの家とこちらの家が結びつけば双方に有利になる……と見越して申し入れたのだから、それがなくなるならば解消する他ない」

「それはあまりにも勝手な言い分だ!」

 あまりに時期が悪すぎる。どうして、こんな、沙織さんが大変な時に。彼女が大変な時に、さらに心に傷を負わせるような事を!

「口を慎め。この家のためになる事をするのが、お前の役目だ」

「いくら何でもあんまりです!」

「口を慎めと言っている!」

 父の怒鳴り声が響いた直後に、がきんと嫌な音が鳴って目の前に火花が散った。頬の辺りに温い液体が伝ってくる。息子が顔から血を流しているというのに、加害者である父はもちろん、母も微動だにしなかった。まぁ、俺自身もそんなものに構っている暇はないからどうでもいいが。

「この家に、目が見えない不完全者など相応しくない」

「……は?」

「この家に必要なのは、完璧な優秀者」

「何を、言って」

「頭脳も身体能力も備わっているのは必要最低限。それなのに……目で見るという人間ならば当たり前に出来る事すら、まともに出来ない障害者など。家にもお前にもふさわしくない」

 その暴言が、俺の中の何かを乱暴に掻き切った。切れた端から一気に着火し、怒りが逆上して体内を沸騰させていく。

「……っ、ふざけるな!!」

 俺は、視野の狭いお坊ちゃんだったのだと、強く強く思い知らされた。どうして、今までこの人たちを尊敬出来ていたのだろう。

 今は、ただ。彼らには嫌悪と失望しか沸かなかった。

「……父さんと母さんが、彼女との結婚を認めない、婚約を許さない、というのならば」

 俺は、もう、彼女以外の女性に目を向ける事など考えられないのだ。初めて出逢った時の照れた顔も、口づけた後の幸福に彩られたうつくしい笑みも、名前を呼んだ時の嬉しそうな表情も、全部、全部心の奥深くに染み込んで刻まれた。幸せになるならば、彼女と一緒でないと嫌だ。たとえ、それがどんなに困難な道であろうとも。

「俺は、二人の息子である事をやめてここから出ていきます。金輪際、連絡もしません。金銭的な援助も一切受けなくて大丈夫です」

「い、いきなり何を!」

「会社も別の人に継がせてください。俺は、相続権を放棄します」

「馬鹿を言うな! 何のために、今までお前を育ててきたと!」

「この世に生み落としてくれた事と育ててくれた事、彼女に逢わせてくれた事には感謝します。けれど、人を人とも思わないような暴言を吐いたあなた達を、俺は一切許容できないし共存したくない」

「この親不孝が! 今までの恩も忘れて!」

「今までの恩に関しての謝辞なら今述べたじゃないですか。あなたの耳は節穴ですか」

「こ、の……子供が父親に逆らうなど、許されんぞ!」

「それでは、今から俺たちは赤の他人でよろしい。さようなら、どこかの誰かさん方」

 はっきりと言い切り、部屋に戻って持ってきていたスーツケースを掴んで家を飛び出す。馬鹿を言うな、ふざけるな、と怒鳴っている声が聞こえるが、一切合切を無視して夜道を駆けていった。

  ***

 今日の宿を無事に見つけ、簡単に荷解きをする。これから自分は、何をするべきなのか、何をどうすれば、彼女を支えて共に生きていけるのか。ぼんやりと指標を考えながら手を動かし、ある程度まとまったところでスマートフォンに手を伸ばした。

『……はい。紗織です』

「紗織さん」

 三コール辺りで、慕わしい声が響いた。けれど、声音はどことなく沈んでいる。それが、あの人たちの……そして、他でもない自分もその一因であるという事に、申し訳なさと苦悩が襲い掛かった。

『どうしましたか? こんな夜更けに珍しいですね』

「すみません。起こしてしまいましたか?」

『いいえ、起きていたので大丈夫です』

 ふふ、と優しく囁くように笑う声が届く。時折彼女はこうやって笑うから、たまに向こうの方が年上なのでは、なんて突飛な考えが浮かぶ事もあった。

「貴女に、話したい事がありまして」

『話したい事……婚約の話、ですか?』

「ええ」

『でしたら、それは……仕方が、ないって、思』

「紗織さん、その事なんですけど」

『は、はい?』

 彼女の言葉を遮って、切り込んだ。仕方がないから諦める、なんて悲しい言葉は音としてすら聞きたくないのだ。

「自分ひとりをきちんと食わせられるようになって、紗織さんの事も、生活も治療もきちんとカバー出来るようになって、必ず迎えにいきます」

『……え!』

「今までだって、親元を離れて一人暮らししてて、会社勤めもしてきましたけど。でも、やっぱり根底には何かあれば両親に頼ればいいって、そんな甘えがあったんです」

 彼女の治療費や学費が自分の収入では足りないならば家で持てばいいと。そこにあったのは、その家とは、外ならぬ実家の事であり、両親の金である。頼れば出してくれるだろう……なんて考えてた甘ったれだから、こんな事になってしまったのだ。

「だけど、貴女とのこれからを望むのならば、そんな甘っちょろい事は言っていられないし、俺には貴女との未来以外考えられないんです。だから、そうですね……五年だけ、ください」

『ま、待ってください、あなたは、あなたは』

 跡継ぎでしょう、と呟いているその声が。貴方には、背負うべきものがあったでしょう、と諭すような声が、響く。ああ、沙織さんは、小憎らしいまでに聡明なお方であるようだ。

「……両親とは縁を切りました」

『……何、ですって!』

「貴女への……いえ、貴女を含めた体の不自由な方々を、同じ人間と思わないような暴言を吐いたあの二人を、俺は許容出来ないし共存もしたくない」

『それ、は』

「そんな人間が君臨している会社を継ぐくらいなら、俺自身で会社を興して、俺に賛同してくれる人と一緒に仕事をします。もちろん、賛同者だけではよりよくはならないでしょうから、様々な、幅広い意見を取り入れながら事業を行なうつもりです」

『……起業されるのですか?』

「あくまで例えです。貴女をしっかりと養えて、必要な教育や支援を受けられるようならば、別に会社員のままでも構いません」

 とはいえ、現状でも十分大手にいる。それでも覚束ない……というのならば、踏み切るしかないのだ。幸い、会社を興したいと言っている友人が数人いる。そのメンバーと協力し合えば、希望はある。

『……どうして、そこまで』

「え?」

『だって、私は、私たちは、親が決めた婚約者同士です。その親がもういいと言うならば、本心はどうあれ……その意を酌むべきと、我を、通しては、いけないのだと』

 とうとう、彼女の声が涙で震え始めた。ぐす、と鼻を鳴らしているのも聞こえてきて、不謹慎だが可愛らしいとときめきだす。

「……貴女の事が、好きなんです」

 気の利いた事を言おうとはしたのだ。したのだけど、思案して飾り立てた言葉では、本心が伝わらない気がして。結局、脳裏に浮かんだ言葉をそのままに、彼女へと伝えた。

「俺は、沙織さんの事を愛しています」

『……まこと、さん』

「初めて会った時、何て美しくて可愛らしい方なんだと思って、一目惚れしました。初めて会った場がお見合いの場で、俺はなんて幸運なんだと、本気で思いました」

 電話口から、すすり泣く声が消えた。語り始めたら止まらなくて、思い浮かぶままに俺の想いを溢れさせていく。

「一緒に食事に行く度に、美味しそうに食べてくれるのが可愛くて嬉しくて、また行きたい、次はどこにしようって、そればかり考えてました。年の離れた妹が可愛いんだと嬉しそうに話してくれる姿に、貴女の愛情深さを垣間見て、いずれは俺の事もそんな風に話してほしい……なんて、思うようになりました」

『ほん、とう、に……』

「本当です。貴女の事が大好きで、だからこそ、目が見えなくなってきっと苦労してるだろうから、傍で支えていきたいと思っていたんです。俺は夫になるんだから、一番身近な存在になるんだから、俺がしっかりサポートするんだって、いろいろ考えてて。人づてではありましたけど、両親が変わってしまったと、寂しそうに話しているとも聞いていたから、だから、なおさら俺がって、思っていました」

『そんな、風に……そこまで』

「五年で準備を完了します。完了させて、大手を振って、貴女を……紗織さんを、迎えに行く。だから、待っていて欲しいんです」

 どうしてそこまでという問いには、伝えたかった想いは、全て伝えられた。後は、それを聞いた彼女がどんな返答をするかだ。電話の先から声が響くのを、固唾を飲んでのんで待っていた。

『……待って、います』

「! で、は!」

『待っています……あなたを、貴方の事を、待っています』

「沙織さん!」

 体中が、歓喜と安堵で打ち震えた。ああ、良かった、と呟いた声が、思っていた以上に部屋に響く。

『破談になるのは仕方ないんだって……私の眼はもう見えないから、貴方の負担にしかならないから、だから、しょうがないんだって、そう思って諦めようとしていたんです。諦めたくなんて、なかったけど、でも、今の私にはどうしようもないって、努力する前から諦めようと、してた』

「そう、でしたか」

『でも……きっと、私にも出来る事があるはずですね。貴方の助けになれるように、必要以上に負担をかけずに、ずっと二人で生きていけるように、私にだって何かあるはずですね』

「えぇ」

『あなたが、私のために尽力してくださるというのならば、私も一緒に立ち向かいます。ただ待ってるだけのか弱い女は……嫌だから』

「……それでこそ、紗織さんらしい」

 いつだって貴女は。その煌めく漆黒を逸らす事なく、物事に立ち向かっていた。その身に何が降り掛かろうとも、暗闇に縋る事なく立ち向かおうとしていた。そんな彼女を、俺は、他の他人よりももっと近い距離で見守る事が出来ていた。

『あ、あの……二つだけ、お願いがあるんです』

「何ですか? 紗織さんの願いならば、何だって」

『……音信不通には、ならないでほしいんです。会うのが難しいなら電話で、電話も難しいならメールでも構わないから、連絡が欲しいんです』

「ふむ」

『メールなら読み上げ機能使えばいいですし、何なら詩織ちゃんに読んでもらえばいいですから』

「それくらいならば、大丈夫ですけども。貴女の方の負担になりませんか?」

『その位じゃ負担になんて、なりません。だって……苦しい時は、つらい時は、真っ先に頼ってほしいもの』

 夫を助けるのは妻の役目ですから、他の誰にも譲る気はないんです。一瞬幻聴を聞いたのかと思って太ももをつねってみたが、変な声が出るくらいには痛かった。つまり、これは、現実で沙織さんに言ってもらえたという事である。

『……ずっと勇気が出なくて、言えないでいたんですけど』

「何でしょう?」

『私も、貴方の事が……』

「俺の事が?」

『貴方が……誠さんが、大好きです。貴方の事を、愛しています』

 その瞬間、脳内に雷が落ちた。初めて会ったあの日のように、衝撃で頭が真っ白になっていく。そして、その白を幸福の色に染め上げていくのは、彼女への深い深い愛情なのだ。

「……最高の応援ですね。それこそ、貴方にしか出来ない応援だ」

 想いを贈ったら、返してくれる。同じように、共にいる未来を望んでくれた。そんな彼女のためならば、必ず成し遂げてみせる。

「今の言葉を、しっかりと心に刻み付けておきます」

『私も。貴方にそう言って頂けたの、初めてですし』

「……えっ」

 幸せの桃色に彩られていた脳内が、ひゅんと再び白紙化する。え、嘘だろ。

「お伝えした事、ありません、でしたっけ……」

『……私の記憶の中では、ありませんね。貴方は、全身で表現してくださる方だったから、言葉まで欲しいなんて我が儘かなと思って言えなかったですけど……』

 それでは、あれか。俺は、彼女本人には言葉で愛を告げる事すらせずに、当の彼女に口付け抱き締めて、肩を抱いて恋人の婚約者と触れ回っていたのか。

「最初にそれをお伝えするべきでした……色々と吹っ飛ばして申し訳ない……」

『でも私たち、そもそもの出逢いが出逢いですし』

 結婚せよと言われて引き合わされて、言われるままに結婚しようとしていた。互いに気持ちが向いていずとも、結婚しなければならない状況ではあった。そこから互いを深く愛して、結婚するなと強制されても跳ねのけようと躍起になるくらいには、互いへの愛情を抱くようになったけれど。

「それはそうですけどね……これからは、もっと伝えていくようにしますね」

『はい』

「それでは……あんまり遅くなってもいけないですし、この辺で」

『はい。お休みなさい』

「お休み……俺の愛しい婚約者さま」

『お休みなさい、私の愛しい婚約者さま』

 二人して同じ事を言いあい、ふふふ、と笑いながら通話を終える。あぁ、こんな幸福に溢れる日々を過ごすためなら、何だって成し遂げてやる。

 明日からは、毎日が正念場だ。決意を新たにすべく、拳をぐっと握り締めた。

  ***

「お父さん、ご本読んで!」

「よんで!」

 ビー玉のような眼をきらきら輝かせてこちらを向いている子供たちへ、わかったと返事をしながらソファへと腰掛ける。両脇をそれぞれに固められながら、作家である義妹が執筆した絵本を読み上げていった。

「あっお母さんだ! お帰りなさい!」

「お帰りなさい!」

「沙織さん!?」

 がばりと顔を上げると、結婚して数年になる最愛の妻が佇んでいた。子供たちを膝にのせて空間を作り、こちらですよと呼びかける。慣れた様子ですいすいと近づいてきた彼女の手を取って隣に導き、腰を下ろした彼女の肩に腕を回して引き寄せた。

「ただいま帰りました」

「お帰りなさい。どうでした?」

「目の方は相変わらずでしたけど……こちらは順調でしたよ」

 そう言って自身の腹部を優しく撫でている沙織さんは、まさに慈愛の女神のような神々しさだった。女神を娶る事が出来るなど、俺は本当に幸せ者である。

「お母さんどうしたの? お腹痛いの?」

「ううん」

「お腹すいたの?」

「そうでもないけど……ああ、でも、もうそんな時間ね」

 夕飯までまだあるし、何かつまみましょうか。そう言って女神が腰を浮かしかけたので、それを制して座らせる。

「誠さん?」

「すみません、先ほど小腹が空いたと思ってお菓子ボックスを探していた時に、物の配置を少々変えてしまったので……俺が取ってきます」

「ああ、そうだったんですね。それではお願いします」

 沙織さんの目は、もうほとんど見えていない。そのため、物の配置を変えた際はそれを戻すか変更部分を覚えるまで俺が家事をするというのが、二人で決めた約束事だった。

 手頃な菓子をいくつか選び、人数分の麦茶とともに持っていく。勢いよく麦茶を飲んでいるわが子たちを眺めながら、グラスを持っている沙織さんへも視線を向けた。

「美味しそうに飲んでくれていますか?」

「ええ、二人ともとても笑顔ですよ」

「それなら良かった」

 ふふふ、と女神が笑う。その優しさに満ち溢れたうつくしい微笑みは、初めて会った時から一切変わらない。

「来年の夏は、また忙しくなりますね」

「でも、三回目です。二人も成長しているから、お兄ちゃんとして協力してくれるでしょう」

 弟妹というのは可愛いものですからね。力強く頷く沙織さんの、得意げな表情が微笑ましい。

「俺ももちろん協力します。送り迎えから立ち合いまで何でもござれ」

「頼もしいですね、私の旦那さまは」

 そう言って、そっと手を握ってくる最愛の妻が愛おしくてたまらなくて。彼女がグラスを置いた瞬間を見計らって、程よいグロスでしっとりとしているその唇を攫った。

  【完】

アルファポリスの賞に応募するために書いた話です。誠氏のテンション書いててとても楽しかったので、沙織ちゃん視点とかも書いて長編化してみたいな~なんて密かに思っていたりします。

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