『彼女と目が合ったその瞬間、雷に打たれたような衝撃が俺を襲った』
手垢に塗れた表現である事は重々承知している。だが、本当にその位の衝撃を受けたのだから、仕方ない。
「互いの両親が望んでいますから、きっと私たちはこのまま婚約して結婚……という流れになると思います。誠さんは、それでも大丈夫ですか……?」
美しい漆黒が僕を捉え、不安げに見上げてきた。潤んでいるその瞳が、鈴のような声を奏でる口元が、俺の視線をこれでもかと引き留める。
「俺には恋慕う人も恋人もございませんから、問題ありません。貴女こそ……沙織さんこそ、相手が俺で大丈夫ですか」
目の前の佳人は、俺よりもだいぶ年下だった。高校二年生と言っていたから、九つは下である。女子高生からしてみれば、二十五を超える男は皆一律におじさん扱いになってしまうのではないだろうか。
「……私、も。問題ありません、から、お話を進めていただいて、大丈夫……です」
恥ずかしげに頬を染めつつ、鈴の音が幸福を紡ぐ。はっきりと本人からの了承を得たその瞬間、俺の脳内で鐘が鳴り響いた。
***
「どうした、グルメ雑誌なんて見て」
連絡先は無事に交換できたので、さっそく次の約束を取り付けるべく店を物色していたのだが。取引先や同僚、友人らの場合とはかなり勝手が違うので、店選びに少し行き詰っていた。
「……先日、見合いをしたと言っただろう?」
「言ってたなぁ。気が進まんとか言ってた割には、次の日に花を撒き散らしてるかのような浮かれ顔で出勤してきたから……変な薬でも打たれてきたのかと心配したぜ」
「まぁ、彼女にはそのくらいの魅力があったから、彼女中毒のようになっていたんだ」
「その言い方はねーだろ。その彼女に謝れ」
「彼女は驚いていたけれども礼を言ってくれたぞ。そんな風に褒められる事はなかなかないからありがとうございます、とな。やはり心の美しさが外見の雰囲気ににじみ出てるからあんなに美人なのだろう」
「社交辞令以外の何物でもないわ! 高校生に気を遣わせてどうすんだよ!」
「そう、彼女が高校生の未成年なのが悩みの種なんだ。未成年だから、選ぶ事の出来る店が限られる」
初めて会った日に、年が少々離れているのは支障ないと言ってくれていた。だけども、それはあくまでも『俺たち二人が結婚するにあたっては、どちらも年齢は気にならない』というだけで、こうやって出かけるとなるとそうはいかない。良識ある大人でいなければ、きっと彼女は俺の手からさらさら零れ落ちるようにいなくなってしまうのだ。
「……状況的に居酒屋ってのも憚られるな」
「そうだな。居酒屋はもっと親睦を深めてから、ファミリー層が多い時間帯を狙っていく必要がある。もちろん、彼女が行ってみたいというのならば一向に構わないが」
「向こうもお嬢さんなんだから、無難に高級ホテルのディナーとかでもいいんじゃないか?」
「逆に普段通り過ぎて面白くないかもしれないだろう。新鮮な場所に連れて行ってこそ、甲斐性のある男というもので」
「……それなら、好きな食べ物とか興味あるものとかを聞いてから考えた方が良いんじゃないのか」
「やはりそうか……彼女の手を煩わせる事無くスマートに事を運びたかったんだが」
「何言ってんだよ。そういう会話を丁寧に積み重ねていくからこそ、互いへの信頼や愛情が深まるんだろうが」
「……ふむ」
「一目惚れした結婚相手なんだろ? そんなら猶更、他の人間よりもそういう積み重ねが大事な相手のはずだ。メールでも電話でも何でもいいから、とりあえず一言好きな食べ物は何ですかと聞いてこい」
「……流石、周りを巻き込んだ大恋愛の末に学生結婚した奴の言う事は違うな」
「それは今関係ねぇ!」
心からの賛辞のつもりで言ったのだが、当の本人には丸めた書類で頭を叩かれてしまった。
***
「わざわざありがとうございます! 一度来てみたかったんです!」
目の前で、可憐な花が咲き誇っている。きらきらとした漆黒が、弾んでいる声が、ここ最近の仕事の疲れを一気に吹き飛ばしていった。
「喜んで頂けたのならば何よりです。ああ、確かにこのオムライスは絶品ですね」
「そうですよね! 時さんのオムライスも好きなのですけど、やっぱり一度は本場といいますか……専門店の味を体験したくて」
嬉しそうにオムライスを食べている沙織さんは、年相応の溌溂とした可愛らしさを有していた。ああ、色づいている頬も艶やかな唇も、何もかもが輝いている。
メインであるオムライスを食べ、付け合わせのスープも飲み干し、デザートのバニラアイスも全て平らげたその後。あまり遅くなってもいけないから、という事で彼女を自宅まで送っていった。
「今日は楽しかったです。また連絡しますね」
「はい! あ、あの……」
「どうしました?」
「……今度は、誠さんのお好きな物を食べにいきましょう」
「俺の、ですか」
「はい……今日は私の好きな物だったから、次はあなたが好きな物を一緒に食べてみたいです」
先程の元気な可愛らしさはなりを潜め、伏せがちの目と紅い頬をこちらに向けて照れ混じりの表情を浮かべている。知らぬ間に塗り直していたらしい口紅が、瑞々しいゼリーのように美味しく映った。
「誠さん? どうしまし、た……!?」
それはもはや衝動だった。その行動を起こした理由も、思考回路も分からない。ただ、ただ、どうしてもそうしたかったとしか言いようが無かった。
「ん……んむっ」
思うままに、柔らかなその感触を味わっていく。手の平で包み込んでいるその両頬のしっとりした心地は、絹地もかくやと言ったところか。
じっくりじっくり味わって、名残り惜しいままそっと解放する。再び合わさった瞳は、互いに潤んで熱を帯びていた。
「……も、も」
「ま、こと……さん?」
「申し訳ない!! あろう事か、うら若き乙女に俺は何て事を!!」
幸福の余韻はすっかりと消え失せて、次に襲ってきたのは焦燥感。良い年した大人が、女子校生に了承も得ずに口づけるなんて!
「何と申し開きをすれば良いか……ああ、女性にとって初めての口づけは、とても記憶に残る思い出になるものだと……なればこそ、タイミングや雰囲気と言うものが……」
じわり、じわり。何て事をしてしまったんだ。もしかしたら、彼女には理想の初めてがあったかもしれないのに。それなのに、俺は、自分の中に突き上がった衝動のままに、彼女へ……。
「……あの」
「ひゃい!?」
自己嫌悪に陥って思考が堂々巡りしていたところに、鈴の音が鳴り響いた。ぎこちない動きで振り向いた先には、惑う顔の彼女がいる。ああ、そんな顔見せられたら、俺の心の中は大荒れだ。
「……わ、私……その……」
「何でしょう……?」
「大丈夫、です……気遣って頂いて、ありがとう、ございます……」
「で、ですが、俺は」
「……驚きはしました、けど……・でも、嫌では、なかった、ので……」
震えながら零れ落ちたその言葉を、しっかりと受け止めて反芻し理解するのに一分はかかった。驚いた、それはそうだろう、予告もなしにあんな事されたのだから。でも、でも……嫌ではなかった……と、確かに、今。
「……あなたは、私の、婚約者だから」
「沙織さん」
「だから……大丈夫、です。慣れます……」
衝動を許された事が、嬉しかった。婚約者だから、そういう触れ方をしても良いと許しを得られたのが、幸福だった。
「それなら、もう一度したいです」
大脳から滑り落ちた言葉は、およそまともな大人の言葉ではなかった。たった今の反省する気持ちは、いったいどこへ行ったのだろう。お前が必要なんだ、頼むから帰ってこい。
「……わ、わかり、ました」
これ以上の失態を晒さぬよう般若心経を心の中で唱えていたのだが、了承の言葉が聞こえてきて、思わず動転した。目の前の彼女と一瞬だけ目が合い、そして、その漆黒が瞼によって隠される。俺が近づきやすいように、なのか少しだけ背伸びしてくれているのがいじらしい。
ふっくらとしているその紅を、蕩ける心地で啄んだ。ちゅ、ちゅ、と微かに聞こえる音が、脳内の理性を霞ませていく。軋む様に心臓が音を立てていて、このまま爆発するんではなかろうかという突拍子もない考えまで浮かんできた。
「……んぅ」
甘い声が、脳裏に響く。了承を得てから触れ合わせた二回目の口づけは、はちみつのような味がした。
***
「……どうしたんだ、そんな辛気臭い顔して」
「俺は……俺は……」
「何だ」
「俺は……彼女に嫌われてしまったのだろうか……」
「えっ!?」
何も変わり映えしていないスマートフォンの画面を眺めながら、何度目か分からないため息をついた。もう、一か月は彼女からの連絡が来ていない。
「メールを送っても、電話しても、応答がないんだ。そりゃ、向こうから連絡がくるのはそう多くなかったけれど、でも、俺が連絡したときは必ず何らかの方法で返事をしてくれていたのに……」
毎日とまではいかないが、週の半分以上は彼女へメッセージを送っていたし、その返答も来ていた。仕事でむしゃくしゃした事があった時に、彼女の声が聴きたくて電話をしたら優しい声で労わってくれた。
「いっそ、家まで行ってみるか……」
「いきなりそれはやめておけ。お家騒動的なあれこれで余裕がない、とかならかえって迷惑になるだけだ。向こうも上流階級なんだろう? 自分たちに余裕がなくても、婚約者が訪れたからにはもてなしを……って気遣わせて負担になってしまう」
「……それならば、一体どうしたら」
「ここ最近連絡が取れていない、貴女が心配だし貴女に会いたいから、家まで行ってもいいかって直接聞けばいい」
「また返事が来ないかもしれないぞ」
「そんときゃ、もう行っていいだろう。今すぐに行くならば余計な負担をかける羽目になるだろうが、一回行きたいと予告しておけば、来るかもしれないといって最低限の準備はするはずだ」
「なるほど、前触れは大事なのだな」
「大事だな。そういうとこまで気を回してこその、頼りがいある婚約者さまだろう?」
いい笑顔で親指を立てて歯を見せる友人に、同じポーズを返す。書いては消し、書いては消しを繰り返しながら完成した面会願いを、画面を叩いて送り出した。
***
ようやく一週間が終わった、と思って褒美がてらちょっといい缶ビールを開けていると、ふいにスマートフォンが光った。こんな至福の時に誰だと眉をひそめながら手に取ると、そこに表示されていたのは……この一か月半ずっとずっと焦がれていた名前だった。
「はいもしもし!? 俺ですよ沙織さん!?」
「あ、えっと……そうですね、このお声は、誠さんですね」
「あああああ本当に本物の沙織さんの声だ! もう空しく録音していたのを聞き直さなくてもいいんだ!」
「えっと……すみま、せん……?」
久方ぶりに声を聴けた喜びで大脳直下のあれそれを伝えてしまったが、沙織さんは変わらず咎めも引きもしなかった。やっぱりこの人は女神さまだ。
「……すみません、この一か月半全く連絡しないでいて」
「気になさらないでください。そりゃ、寂しくて心細くて、ひょっとして俺は何かをしでかしていて婚約を破棄されてしまうのではないかと戦々恐々とはしていましたが……」
「……」
電話の向こうで、息を飲む音が聞こえた。いつにもましてたどたどしい感じで話しているが、一体どうしたというのだろう。いや、一生懸命に話している姿を思い描いて彼女を抱き締めたい衝動に駆られているだけで、それ自体に負の感情は抱いていないのだけれども。
「……私、誠さんに、お伝えしないといけない事があるんです」
「何でしょうか?」
「……お伝えしないと、いけないんです、けど……」
真面目な声なので、こちらも理性を総動員して真面目に話しているけれども。彼女の声は随分と震えていて、今にも消えてしまいそうなくらいだった。
「電話で伝えづらいなら、メールとかでも大丈夫ですよ? そっちの方が話しやすい事もあるかもしれないですし」
俺なりの気遣いのつもりだったのだが、沙織さんは押し黙ってしまった。もう、私には、と聞こえた気がするがはっきりとは聞き取れない。
「……出来ないんです」
「何がですか?」
「私には、もう、メールが打てないんです」
「え?」
「いえ、色々と導入すれば出来るようになるかもしれないけれど……でも、今は、メールを打つ事も、本を読む事も、一人で出歩く事も、料理も、全部ぜんぶ……出来なくなってしまったんです」
「……どうして、です」
予想だにしていなかったその言葉に、妙な焦りを感じ始めた。一体、彼女の身に……俺の婚約者の身に、何が起こっているというのか。
「…………私、目が」
「目が」
「……目が、見えなくなって、しまったんです」
必死に絞り出したのであろうその声が、遠く遠くで響いている。衝撃で動けないでいる俺の手元のスマートフォンからは、彼女のすすり泣く声が零れていた。