「わざわざありがとうございます! 一度来てみたかったんです!」
目の前で、可憐な花が咲き誇っている。きらきらとした漆黒が、弾んでいる声が、ここ最近の仕事の疲れを一気に吹き飛ばしていった。
「喜んで頂けたのならば何よりです。ああ、確かにこのオムライスは絶品ですね」
「そうですよね! 時さんのオムライスも好きなのですけど、やっぱり一度は本場といいますか……専門店の味を体験したくて」
嬉しそうにオムライスを食べている沙織さんは、年相応の溌溂とした可愛らしさを有していた。ああ、色づいている頬も艶やかな唇も、何もかもが輝いている。
メインであるオムライスを食べ、付け合わせのスープも飲み干し、デザートのバニラアイスも全て平らげたその後。あまり遅くなってもいけないから、という事で彼女を自宅まで送っていった。
「今日は楽しかったです。また連絡しますね」
「はい! あ、あの……」
「どうしました?」
「……今度は、誠さんのお好きな物を食べにいきましょう」
「俺の、ですか」
「はい……今日は私の好きな物だったから、次はあなたが好きな物を一緒に食べてみたいです」
先程の元気な可愛らしさはなりを潜め、伏せがちの目と紅い頬をこちらに向けて照れ混じりの表情を浮かべている。知らぬ間に塗り直していたらしい口紅が、瑞々しいゼリーのように美味しく映った。
「誠さん? どうしまし、た……!?」
それはもはや衝動だった。その行動を起こした理由も、思考回路も分からない。ただ、ただ、どうしてもそうしたかったとしか言いようが無かった。
「ん……んむっ」
思うままに、柔らかなその感触を味わっていく。手の平で包み込んでいるその両頬のしっとりした心地は、絹地もかくやと言ったところか。
じっくりじっくり味わって、名残り惜しいままそっと解放する。再び合わさった瞳は、互いに潤んで熱を帯びていた。
「……も、も」
「ま、こと……さん?」
「申し訳ない!! あろう事か、うら若き乙女に俺は何て事を!!」
幸福の余韻はすっかりと消え失せて、次に襲ってきたのは焦燥感。良い年した大人が、女子校生に了承も得ずに口づけるなんて!
「何と申し開きをすれば良いか……ああ、女性にとって初めての口づけは、とても記憶に残る思い出になるものだと……なればこそ、タイミングや雰囲気と言うものが……」
じわり、じわり。何て事をしてしまったんだ。もしかしたら、彼女には理想の初めてがあったかもしれないのに。それなのに、俺は、自分の中に突き上がった衝動のままに、彼女へ……。
「……あの」
「ひゃい!?」
自己嫌悪に陥って思考が堂々巡りしていたところに、鈴の音が鳴り響いた。ぎこちない動きで振り向いた先には、惑う顔の彼女がいる。ああ、そんな顔見せられたら、俺の心の中は大荒れだ。
「……わ、私……その……」
「何でしょう……?」
「大丈夫、です……気遣って頂いて、ありがとう、ございます……」
「で、ですが、俺は」
「……驚きはしました、けど……・でも、嫌では、なかった、ので……」
震えながら零れ落ちたその言葉を、しっかりと受け止めて反芻し理解するのに一分はかかった。驚いた、それはそうだろう、予告もなしにあんな事されたのだから。でも、でも……嫌ではなかった……と、確かに、今。
「……あなたは、私の、婚約者だから」
「沙織さん」
「だから……大丈夫、です。慣れます……」
衝動を許された事が、嬉しかった。婚約者だから、そういう触れ方をしても良いと許しを得られたのが、幸福だった。
「それなら、もう一度したいです」
大脳から滑り落ちた言葉は、およそまともな大人の言葉ではなかった。たった今の反省する気持ちは、いったいどこへ行ったのだろう。お前が必要なんだ、頼むから帰ってこい。
「……わ、わかり、ました」
これ以上の失態を晒さぬよう般若心経を心の中で唱えていたのだが、了承の言葉が聞こえてきて、思わず動転した。目の前の彼女と一瞬だけ目が合い、そして、その漆黒が瞼によって隠される。俺が近づきやすいように、なのか少しだけ背伸びしてくれているのがいじらしい。
ふっくらとしているその紅を、蕩ける心地で啄んだ。ちゅ、ちゅ、と微かに聞こえる音が、脳内の理性を霞ませていく。軋む様に心臓が音を立てていて、このまま爆発するんではなかろうかという突拍子もない考えまで浮かんできた。
「……んぅ」
甘い声が、脳裏に響く。了承を得てから触れ合わせた二回目の口づけは、はちみつのような味がした。