「先生のお母さんは良くなったの?」
「ええ。もうすっかり元気になったから、また戻って来たの」
弦次さまは親とだけ伝えていたらしいが、この子の中では母親という事になっていたらしい。特に訂正する必要もないので、話を合わせていった。
「それじゃあ、また前みたいに教えてくれる?」
「勿論よ。上手くなりたい、という子には全力で協力するわ」
「やったぁ!」
大きな瞳をきらきらとさせて、目の前の女の子が微笑んだ。会うのは二か月近くぶりだが、前よりも成長している気がする。
「あのね、先生が来られない間も練習欠かさずにしてたの。それで、前に教えてもらった曲が綺麗に弾けるようになったから、聞いてほしくて」
「良いわよ。それじゃ、まずはその曲から……」
久々の個人指導が始まった。欠かさず練習していたというのは本当らしく、前よりも格段に指の動きや音の響きが良くなっている。そう言えば、練習していたら糸が切れたという知らせが入って、急きょ糸を掛け直しに行ったと弦次さまが言っていたっけ。これからの事を考えるならば糸掛けは自分で出来た方が良いだろうから、今度それも教えておこう。
「うん。見違えるようね」
「ほんと?」
「ええ。前は旋律をなぞるだけでいっぱいいっぱいって感じだったけれど、今は弾きこなして感情を込められるようになっていると感じたわ」
「えへへぇ。まずは全部弾けるようになってから、どんな曲かを考えて楽しいとか悲しいとかを考えながら弾くようにしたの」
「凄い進歩ね……どなたかから聞いたの?」
「お祖母ちゃんから」
「という事は、初めて会った時に一緒にいらっしゃったお爺さんの奥さま?」
「そうだよ!」
教え始めた当初から、比較的習得が早い方だとは思っていたが。もともと弾いている姿や音は知っていたからだったのか。もちろん、ここまで上手く弾けるようになったのはひとえに彼女本人が努力したからだが。
「お祖母ちゃんもね、琴の演奏が凄く上手かったの。今は弾いてないけど、私がもっと小さかった事はお昼寝の時に弾いてくれたり、雨で外に遊びに行けない時に弾いてくれたりしたんだ」
「そうだったのね。それじゃ、お祖母さまは貴女が琴を習い始めてとても喜んだんじゃない?」
「うん。弾いてみてって言われて演奏したら、とても喜んでくれたよ」
「お祖母ちゃん孝行にもなったわね」
「今度遊びに行く時は、更に沢山の曲が弾けるようになっておくからねって約束したの」
「あら。それじゃあ、はりきって練習しないといけないわね」
「そうなの! だから、よろしくお願いします!」
「任せなさい!」
どんと請け負い、授業を再開した。なかなか白熱して時間を忘れてしまい、彼女のお母さまが様子を覗きに来た時には予定時間をとうに過ぎてしまっていた。
「申し訳ありません。もっと時間に注意を払っておくべきでした」
「良いのよ。今日は特に予定もないし、久々の授業でしたからね」
「楽しかったよ!」
「ほら、この子もこう言っているし、気にしないでいいわ。ああ……でも」
「何でしょうか?」
「貴女の方は約束がなかったかしら? 確か、職人様と一緒に街に行くと」
「あ!」
すっかりと頭から抜け落ちていた。先に行っているから後から落ち合おうと言って、場所まで決めていたのに。
「そう、そうでした。買う物があって」
「それなら早めに行ってあげて。ああ、今日のお代はこちらで……次は、いつ頃にしましょうか」
「来週だとこの日が空いてますので、そこにしますか?」
「その日だと……時間を変えてもらえるかしら。午後に宴を開く予定だから、午前の方が集中できると思うの」
「大丈夫ですよ。では、その日の午前中にまた参ります」
「ええ。よろしくお願いしますね」
「待ってます!」
母子二人に見送られ、転がるようにして道を駆けていく。早く早く、弦次さまに会いたかった。
***
「……大丈夫か?」
心配そうな目を向けてくる弦次さまへ、何とか頷いてみせる。久々に全力で走ったので、わき腹が痛い。自力で立っているのがきつくて彼に寄りかかったら、難なく支えて下さった。
「積もる話もあるだろうし、少々遅くなるかもしれんとは思っていたんだ。だから、そんな無茶をしなくても良かったのに」
「で、でも……約束は、約束、ですか、ら……」
「桐鈴は真面目だな」
「……私が言うのも何ですけど、弦次さまは私に甘すぎます」
「自分の恋人を甘やかして何が悪い」
「自覚があるなんて余計にたちが悪い!」
そう叫んで、力任せに彼の腕を抱き締める。意にも介さず平然としている様が、いっそ恨めしいくらいだ。
「甘さと優しさは違います。私と一緒になった事で、貴方が悪く言われるのは嫌なんですよ」
「悪くも何も、元々から評判は良くないからな。今更気になどしないが」
「私が嫌なんです! 弦次さまは……まぁ、少々暴走する事もありますけど、基本的には優しくて情に厚い方です。他にも素敵なところは沢山ございます。それなのに世間から悪し様に言われるのは腹が立ちます」
「そうか。それほどまでに、俺を想ってくれているか」
「そうですよ! だから、外では節度ある態度を」
「……なら、家の中ではどれだけ甘やかしても構わないと?」
一段低い掠れた声が、耳を通り鼓膜を震わせた。腰が砕けていきそうになって、思わず弦次さまにしがみつく。
「そういう! 声を! 外で出さない!」
「俺は普通に話しているだけだが?」
「もーっ!」
反論が言葉にならなくて、可愛げのない叫び声をあげながら弦次さまの事を睨みつけた。それなのに、桐鈴は可愛いなと微笑まれて頭まで撫でられる。この方の頭の中、一体どうなっているのだろう。
「ともかく! 予定が押してしまったんですから行きますよ!」
「そうだな。かんざしを買って、それに見合う着物と帯と下駄と帯飾りと」
「かんざししか買いませんからね!」
続く言葉を遮って、むんずと彼の手を握る。恋人同士になったのだからと思って指を一本一本絡ませる握り方をしたが、特に咎められはしなかった。
(……当たり前だけれど、私よりも大きくて、少し節ばってる)
自分の手との違いを改めて意識して、何となく面映ゆい。けれど、離したいとは微塵も思わないので、このまま店まで向かう事にした。