はらはらと桜吹雪が舞う中を、少年と少女が歩いていた。少年に手をひかれて歩く少女の顔は、喜びに満ち溢れている。少女は心からその少年を慕い、信頼しているという事だろう。
「すごいね! こんなにきれいに咲いてる桜を近くで見るの、初めてだよ!」
「そっか。ここは研究所の近くだから、来た事あるかと思っていたけれど」
「ううん。この辺りは、普段歩いてる人が少ないから行っちゃダメだってお父さんが言ってたの。お母さんは近くで見た方がきれいだって言ってたから、見てみたかったんだけど……」
はしゃいだ声を上げていた少女は、はっと押し黙って眉根を寄せると少年を振り仰いだ。その顔には、二人で勝手に来てしまったから互いの両親に怒られないだろうかという心配が浮かんでいる。
今にも泣いてしまいそうな少女を安心させるかのように、少年が手を握る力を強めた。そして、夜空と同じ濃い色の瞳を細めて、少女へ向ける。
「大丈夫だよ。きっと……所長がここに来るなとおっしゃったのは、歩いている人は少なくても車の往来は多いからじゃない? 大事な一人娘が車の事故にでもあったら心配だと、そうお考えになったんだと思うよ」
「そうなの? それなら、私たち怒られない?」
お父さん怒ると怖いから怒られたくないよう、と不安げな様子でそう言った少女の事を、少年は見下ろした。そして、その顔に温かな微笑みを浮かべると、明るい声音で答えを口にした。
「怒られないよ。俺はもうすぐ最上級生だし、春(はる)妃(ひ)は一年生になるんだよ? 二人一緒なんだから、大丈夫さ」
「……なら、いいの!」
そう言うと、春妃と呼ばれた少女は少年……雪人(ゆきひと)に飛び付いた。雪人はそれに応えるようにかがむと、自身に甘える春妃の頭を撫でる。
「もう少しで、しばらくの間お別れか」
さびしそうにぽつりとつぶやく雪人の掌が、春妃の頬を滑る。そんな手をぎゅっと握りしめながら、春妃ははっきりとした口調で雪人に告げた。
「離れてても大丈夫だよ! こうやって会えなくなるのはさびしいけど……でも、毎月お手紙書くから!」
「……春妃」
「離れてたって、私は雪人君が大好きだよ!」
真っ直ぐな、強い意志を秘めた春妃の瞳が、雪人のそれへと向けられる。懸命な瞳を向けられた雪人の頬が、周りの花びらと同じ薄紅色に染まった。ぐっと口を引き結んだのは、目尻から溢れそうになった涙を少女に悟られないためであろうか。
「うん。俺も毎月春妃に手紙を送るよ。楽しかったこと、大変だったこと、嬉しかったこと、悲しかったこと……全て、全て隠さずに、俺を全て伝えよう」
堪えきれなかった涙の粒を浮かべながら、雪人は嬉しそうにそう告げた。そして、華奢な春妃の体をぎゅっと抱きしめる。
「春妃。俺は君が好きだ。春妃の事が、好きなんだ」
その言葉に、嘘偽りは一切混ざっていなかった。本当に、少年は、少女の事を心から愛していたのだ。
「春妃がいたから、俺は……」
その続きを言う前に、雪人の口からとうとう嗚咽が漏れて言葉が途切れた。己の肩に額を乗せて泣く雪人の背に、悲しそうで苦しそうなその背に、春妃も必死に腕を回す。
「私も、私も雪人君が好き! 大好き! ずっとずうっと、大好きだよ!」
はらりはらりと花びらが舞い散る桜の木の下で、二人は別れを惜しむように抱き合っていた。
***
しかし、その一週間後。少女は愛しい彼の事を全て忘れてしまった。
二人の出会いも、温かな思い出も、交わした約束も、何もかも。
それでも、少年は少女の事を諦められなかった。少女の事が、大好きだった。
だから、返事が来る事はなかったけれども、毎月欠かさずに手紙を送っていた。