ゆらり、ふわり。私は、温かいお湯の中に浮かんでいるかのような、そんな心地よい浮遊感の中にいた。
くるりと周りを見渡せば、そこは一面の白だった。真っ白なソメイヨシノの花びらが、どこからともなく吹いてきた風に飛ばされて舞っている。足元に積もっている花びらまで舞い上げているので、風の威力はかなりのものだ。
花びらから守るために腕で顔を覆ってじっとしていると、勢いのよかった桜吹雪がふっと止んだ。そして、はらはらと美しく落ちてゆく花びらの中に、それまでは見えていなかったとある影が浮かび上がる。
影は、青年のようだった。少し外に跳ねた茶色がかった黒髪を持ち、夜空のような深い色の瞳でこちらを見つめている、私よりも年上に見える青年。
その青年と目が合った。その瞬間、彼から柔らかな微笑みを向けられる。そんな眼差しに鼓動が跳ねて、きゅんと胸がときめいた。そして、青年から一切眼が離せなくなってしまう。
もっと貴方の事が知りたい。貴方の声を聞いてみたい。貴方と色々話して仲良くなって、私の事も知ってほしい。
今までにないくらいの胸の高まりが、私を後押しした。勇気を出して、彼に話しかけようと試みる。
でも、それと同時に再びソメイヨシノが舞いだした。一瞬で視界が真っ白になって、彼の姿が見えなくなっていく。
「……待って!」
私の叫びも空しく、彼の姿は白にかき消された。
***
はっと目が覚めると、そこにはいつもの天井があった。右の手の甲も一緒に映っているのは、夢の中でも腕を伸ばしていたからだろうか。
「……また、この夢」
ぽつりとそう一人ごちた。夢の余韻か、まだ胸の動きが早い。
「いつからだったっけな。確か……中学の時?」
まだぼんやりしている頭を起こそうと思って、口に出して確認しながら記憶を辿っていく。
最初にこの夢を見たのは、中学校に上がってしばらく経ってからの事だった。そして、その半年後、三ヶ月後、一カ月後、二週間後……といった感じで、再び同じ夢を繰り返し見ている。最近では、多ければ一週間の内に二度は見ているのではなかろうか。
「何かを暗示している、とか? まさかね……」
偶然にしては、やたらと頻度が多い気はするけれども。毎回同じ桜吹雪が舞っていて、毎回その中にあの青年がいるけども。でも、予知夢とか、そういう非現実的な事が私に起こるとはとても思えないし。
枕元の目覚まし時計を見ると、既に七時前だった。今日からは課外がないから早く起きる必要はないのだけれど、もう目が覚めてしまったしと思ってベッドから抜け出す。顔を洗ったり着替えたりした後、長い髪を結ぶために鏡の前に立った。
「……あの人は、髪の長い女子好きかな」
三年以上夢に現れていて、毎回優しく微笑まれて、それでもその人が気にならない……なんて人はいないだろう。だから、どんな人なのだろうかと思って想いを馳せたり、彼の姿を思い出してため息をついたり、なんて事は……きっと、とても自然な事。
一之宮春妃、高校一年生、十五歳。初恋相手は、夢の中の人でした。
***
「おはよう、父さん」
「あぁ、おはよう」
そう返事をしながら、父さんがこちらを振り向いた。珍しい事に、既に着替えて身なりもきちんと整えている。普段は、車を運転するのに身なりを整える必要なんぞ無いって言って不精しているのに。
「今日はもう出るの?」
「……ああ。昨日の試験の結果が気になってな。上手くいっていると良いんだが」
「それ、この前言ってたどっかの会社と共同開発するってやつ?」
「そうだ。開発チームのメンバーではないんだが、まぁ、所長だからな」
「そうね。トップが気を配るのは、とても大事な事よね」
医薬品開発やそれに関わる研究を生業としている、一之宮研究所。私の父さんはそこの所長を務めている。全国で名を知られている……というような有名な企業ではないが、そっち方面では実績も確かで評判も良いらしい。娘である私が言うのも何だが、その道では有名ってやつだ。
「一旦様子を確認したらまた戻ってくるから、それまでに朝食を済ませて玄関で待っておけ」
父さんは、淡々と当たり前のようにそう告げてきた。そんな父さんを……私は、重苦しい気持ちを抱えながら眺める。
「そしたらすぐに出られる。今日からはもう課外ないんだろ? 明日以降は早朝に研究所に顔を出す必要はないから、今日だけは……」
「……ううん。私ももう出るわ」
「は?」
「もう一回帰って来るなんて手間よ。父さんはそのまま研究所の方で仕事して。私、今日はバスで行くから」
そう告げると、父さんの眉間にくっきりと皺が入った。でも、通学路を自分の足で歩けるという機会を逃すわけにはいかない。
「時間があるから、のんびりと歩いてみるつもりなの。道順はきちんと覚えてるし、普段は町を歩いてる人の近くまでいけないから、人のいる中を歩くっていうのやってみたいし」
「……まぁ……そういう時間も、大事だとは思うんだがな。でも……」
「そうよ。そもそも学校へ通うのに送り迎えなんて。私はもう高校生なのよ」
「春妃の学校じゃ珍しくもないだろう」
「そりゃ、そうだけど……」
私が通う女子校は、幼稚園から大学までのエスカレーター式だ。名家のお嬢様とか大企業の社長令嬢とか財閥のご令嬢とかも多いので、そういう光景も珍しい訳ではない。けれども、大半の子は普通に自分の足で通っているのだ。私だって、出来るならそうしたい。
「……なら、あんまり路地の裏とかには入るなよ」
「ええ」
「常に周りの様子を確認して、時々は後ろを振り返るんだ」
「はい」
「そして、鞄は常に車道とは反対の方に持つ」
「私はリュックサックだけど」
「弁当入れにICカードと小銭入れを入れてただろ、それの事だ。そしてバスの中では立つ位置や座る位置には細心の注意を……」
「それくらい言われなくても分かってるわ。幼稚園児じゃないんだから」
「最近は何があるか分かったもんじゃない」
そう言って、父さんが立ちあがった。鞄を持って玄関に向かったので、見送るために後を追いかける。
「そういや、もう三月に入ったのか」
「そういえばそうね。公立の高校はもう卒業式があったらしいわよ」
「そんな時期か。なら、春妃の誕生日も近いな」
「ええ、あと三週間くらい」
靴を履く父さんの背中を見ながら答えていく。履き終わった父さんが、こちらを振り向いた。
「今度の誕生日で、何歳だ?」
「……娘の年くらい覚えておいて。次で十六よ」
「十六、か」
父さんは、何か思案しているような表情を浮かべ出した。そして、俯きながらもう十年かとか在庫はきちんととか、よく分からない事をぶつぶつ呟きだす。
「どうしたの? よく聞こえなかったんだけど」
「あぁ、いや、独り言だ」
「そうなの?」
「そうだ、だから気にしないでくれ……そうだ、それよりも」
一度言葉を切った後で、父さんが再び私を見た。その、いやに真剣な目に、何か怒られるような事をしただろうかと少しの焦りを覚える。
「誕生日の日は、きちんと家にいるんだぞ」
「あぁ……それ」
「分かってるな? 一日中だぞ?」
「……何度も聞いてるんだから、分かってるわよ」
身構えていた分、思いっきり脱力してしまった。父さんの過保護は今に始まった事じゃないし、過保護の理由もきちんと分かっている。だから、誕生日当日に一日中家にいろといういいつけに対しても、きちんと『分かった』って何度も言ってるのに。
「忘れるなよ。じゃ、行ってくる」
そう言って、父さんは研究所の方に向かった。いってらっしゃいと見送った後で、玄関のドアに鍵をかけて居間の方へと戻る。朝ご飯を食べたテーブルの椅子に座って、ぼんやりと肘をついた。
「……母さんが生きていたら、もう少し融通のきく人になっていたのかしら?」
居間に飾ってある、微笑む母さんの写真に話しかける。十年前、私が小学校に上がる前に事故で亡くなった母さんは、この写真の中のような温かい笑みを、いつも浮かべている人だった。
大学時代の一つ下の後輩で、同じ研究室でチームを組んでいて。仕事上でも私生活でも自分にとって大切な存在だった母さんを亡くしてから……父さんは、一人娘である私に対してそれまで以上に過保護になった。もう二度と家族を失いたくないのだと、そう言っていた。
「……さて、私も出るか」
椅子から立ち上がって身支度して、久々の通学路へ踊るように駆け出した。