「……ミラ、ミラ。僕のアンドロメダ」
 あの日の衝撃と絶望と焦燥は、ずっと僕に付き纏っていた。一刻でも早く彼女を起こしてもう一度二人で生きていきたいという気持ちはあの頃から一切変わっていないし、彼女を心から愛している気持ちも変わっていない。
 けれど、気づいてしまった。僕は、彼女と違って年をとった。同じ日の同じ時間に生まれたけれど、彼女は、ずっと十九のままで眠っている。かたや僕は、もう三十九になってしまったのだ。彼女の記憶の中の僕よりも、ずっとずっと年を取って、見てくれだって変わっている。
 その事実に気づいた瞬間、言いようのない恐怖に襲われた。彼女は、目を覚まして始めに眼に映した今の僕を、かつての僕だと認識できるのだろうか。認識できたとして、あの頃の様に、愛し続けてくれるのだろうか。
「起きた後のケアのための準備も整えた、二験の準備も整った。後は、ミラを起こして彼女の体の機能を取り戻すだけだ」
 だけど、ここにきて、スイッチを切る勇気が出なくなってしまった。お世辞にも、僕はこの二十年自分の見た目を顧みるような生活はしていない。町に出て不審者と思われない程度には整えていたけど、年相応の皺も、夜空のようだと褒めてくれた髪の色も、だいぶ変わってしまっているのだ。
「……ミラに会いたい、あの碧い瞳が嬉しそうに輝くのを見たい。もう一度、会って話したい。話して、声を聴いて、彼女を抱きしめたい。けれど、起こすのが怖い……怖いんだ」
 誰に聞かせるでもなく呟いた。今この地下室にいるのは、僕一人。彼女の実の両親ですら僕らを気遣って、部屋の外で待機してくれているのだ。
 臆病風に吹かれて、彼らを呼びに行こうかと腰を上げかけた。彼女との約束を破ってしまう事になるけど、僕一人ではこの重圧に耐えられるかわからない。でも、それは不誠実だという感情ももちろん持っていて、意味もなく僕の手が空を切った。
『ねぇ、約束よ』
 そんな声がした気がして、はっと目を開け周りを見渡した。当たり前だが、目の前にいるのは眠っているミラだけだ。静かに、静かに呼吸しているから、動いているのは胸元だけである。
『私を起こしてくれるその時には、必ずカイトスが手を握っていてね。この部屋には必ずカイトスだけで、私の視界に入る一番は、耳に届く一番は、カイトスでいてね』
 それは、二十年前にした約束。眠ったままになる彼女だって、恐怖に怯えていた。自分が目覚めた時の事、このまま目覚めないで終わってしまう可能性、全て、全てに恐怖していた。
 それでも、彼女はコールドスリープを了承してくれた。あなたが起こしてくれるのを待っていると言ってくれた。
『だって、カイトスは必ず私との約束を守ってくれるもの。そんなカイトスが、一番に私を見て名前を呼んでくれるって、約束してくれたもの』
 だから、夢の世界であなたをずっと待っているわ。最愛のあなたを、信じているわ。埋もれてしまっていた記憶が、言葉が、声が蘇ってきた。そうだ、何を怖気づいているのだ。
「ミラが眠り続けるのを了承してくれたのは、僕が約束したからなんだ。約束を破ってしまったら、ミラに顔向けできない」
 そんなのは嫌だった。ミラとの永遠を望んだから、この道を選んだのだ。ミラを愛しているから、生きていてほしいと望んだから、互いに話し合ってこうすると決めたのだ。
「しっかりしろ! 待っている方だって辛いんだ。それでもその道を選んでくれたミラを、僕が裏切ってどうする!」
 もう一度身なりを確認して、汗で湿っていた手を洗う。彼女の寝顔を見つめて心を落ち着け、大きく深呼吸した。
「ミラ、ミラ、僕のアンドロメダ。ようやく……ようやく、朝が来たよ」
 そう声をかけて、カバーを開ける。彼女の手を握って、顔を覗き込むように近づけて。
 止めていた彼女の時を再び動かすために、装置のスイッチを切った。

  ***

 ミラ=ケイティは長い長い眠りから目を覚ました。しばらくぼんやりと虚空を見つめた後で、不意に力を込められた手への感触に気づく。そして、その先へと視線が向けられて……緊張の面持ちで自分を見つめている、あの頃とはだいぶ変わっているカイトス=グリーゼの姿を捉えた。
「――変わらないね」
 カイトスが息を呑む音が響いた。ミラの手がゆっくりと動き、泣きそうに震えているカイトスの頬を撫でる。
「約束を守ってくれてありがとう。カイトスなら、きっと」
 二十年ぶりに聞く彼女の声に、彼は零れ落ちる涙を止める事が出来なかった。あの頃よりも少しだけ低くなった声で、ミラ、ミラ、と変わらず愛おしむ女性の名前を呼ぶ。
「生きているうちに私を目覚めさせてくれるって。また二人で一緒に生きていく事が出来るって」
 ミラの両手がカイトスの頬を包む。引き寄せるような動きを察知したカイトスは、それに逆らう事なく顔を近づけた。
「ずっと信じて、待っていたよ」
 そう言って、ミラはふわりと微笑んだ。その笑顔は、二十年前と何ら変わらない。
 そんなミラに、カイトスが贈った優しい優しい口づけは。拒まれる事なくミラに受け止められた。