後編

 

「もう逃げられないよ!」
「くっ……」
 私を見上げるハルトの目が、ぎりりと吊り上がる。夜空みたいな漆黒の瞳が鋭い光を放っていて、正直に言えば少し怖い。だけど、これ以上避けられたままでいるのも辛いのだ。
「さ、全部白状してもらうからね。どうして、契約を結ぼうとしていたのを保留にして、私を避けていたのか!」
 怖気づく心を奮い立たせて、こちらも負けじと彼を見下ろす。しばらくの間は無言の睨み合いが続いたが、ハルトは諦めていなかったらしい。私が一瞬だけ腰を浮かした隙をついて、逃げ出そうとした。
「させない!」
 そんなのは、許さない。彼が動くよりも早く動いて、肩を押さえつけて動きを封じる。尚も逃げようとする彼と私の攻防は、十数分は続いただろう。
「……離せ、リリアム!」
「絶対に離さない!」
 魔力を肉体強化に使い、筋力を上げる。ブーストした私の腕力と純粋な筋力だけのハルトでは、勝負にすらならなかった。ハルトの息だけが、疲労で荒くなっていく。
「くそっ……」
 それなのに……それなのに、ハルトは諦めずに抵抗してきた。そんなにも諦めないのはどうしてなのだ。そんなに、私との契約が嫌になったというのか。そんなに、私と一緒にいるのが、嫌に。
 ふいに、視界がじわりと滲んだ。頬を熱いものが滑っていき、ハルトが着ているシャツに染みを作っていく。
「……どうして」
「え?」
「どうして? どうして、そんなに嫌なの?」
「……リリアム」
「ハルトはもう私がいらなくなった? ハルトはもう別の人が良いの? 私じゃ、もう、役に立たない?」
「そんな事は」
「それなら何でここまで嫌がるの? 私、何かした?」
「違う……違うんだ。リリアムがどうって話ではなくて」
「だけど、ハルトずっと私を避けてた。私が、知らないうちに何か気に障る事したんじゃないの? だから、進めようって言ってた主従契約も」
「違う!」
 そう叫んだハルトは、勢いよく起き上がった。その反動で私は後ろに倒れそうになったけれども、腕を引かれて起こされる。
「違うよ。本当に、リリアムは何も悪くないんだ」
「ならどうして?」
 当然の疑問だろう。私に何も非がないというのならば、ここまで拒否される謂れはない。それなのに保留にされたというのだから、相応の説明がなければ到底納得など出来ない。
 そう思って説明を要求したが、ハルトは口を引き結んだまま黙り込んでしまった。しかしこちらも引き下がる訳にはいかないので、じっと彼の黒い瞳を見つめ続ける。
 先に折れたのは、ハルトの方だった。
「……俺と契約したせいで、俺のせいで……リリアムが早死にするなんて絶対に嫌だと思ったから」
「……え?」
 予想外な言葉が聞こえてきて、文字通り素っ頓狂な声が出てしまった。ハルトと契約したせいで私が早死にする? どういう事だ?
「それ初耳だけど。どこ情報?」
「協会の図書館にあった、悪魔と契約を結ぶための手順を説明してる本の中に書いてあったよ」
 ほら、と言われて枕元に置いてあった該当の本を手渡される。途中の方で、確かにそれっぽい事が書いてあった。
「異性の魔術師と契約を交わしたサキュバス或いはインキュバスは、本来の寿命よりも短命になる……か。なるほど、これを知ったから、ハルトは契約を保留するって言ったの?」
「そうだよ……俺だってさ、リリアムの事好きだしずっと一緒にいたかったから、正式な契約をするんだって思って張り切って……それで、図書館に通って色々調べたんだよ。そしたら、それを見つけて」
 最初はハルトが私をあやすように抱きしめてくれていたけれど、すっかり立場が逆転してしまっていた。私の肩に額をつけて項垂れているハルトの頭を、よしよしと撫でていく。
「リリアムがいない世界なんて耐えられないし、リリアムが本来生きられた時間を俺のせいで奪うのも嫌だった。だけどどうしても契約はしたかったから、何か手段が見つかるまではとりあえず保留しておけばいいかと、思って」
「……それならそうと、初めに言ってほしかったな。そうしてくれていれば、わざわざハルトに薬を盛るなんてしなくて良かったのに」
「何か変だと思ったら、やっぱり薬盛ってたんだな……後学のために聞くけど、どんな薬?」
「一時的に魔力が練れなくなる薬。あと二時間もすれば切れると思うよ」
「……そうか」
 はぁとひとつため息をついて、ハルトは私を抱き締めたまま寝転がった。ハルトは緊急用に魔力を使わなくても使える魔具を持っているから一瞬身構えてしまったが、杞憂だったのか彼の手は私の頭や髪を気の向くまま撫でるばかりだ。
「……多分それ、異性と契約したサキュバスやインキュバスのほとんどは、主である魔術師と恋人関係にあったからなんだと思う」
 こんな風に……と言って彼の手を、指同士を絡めながら握る。初めの頃の私はちょっと肩が触れるだけでも過剰に反応していたのに、自分からハルトに触れにいくなんて。悪魔も変わるものである。
「あのね、恋したサキュバスやインキュバスは、仲間内では落ちこぼれだって言って嘲笑されるの。どうしてだと思う?」
「いや……何で? 確実なエナジー供給源が出来る訳なんだし、むしろ強くなりそうじゃないか?」
「それが違うんだな。恋をしたサキュバスは恋人からしかドレイン出来なくなるから、吸えるエナジー量自体は圧倒的に少なくなるんだよ。それで」
 サキュバスやインキュバスの戦闘力は、ドレインしたエナジーの量に比例する。だから、複数人から沢山奪って余す事無く自身の強化に使ったサキュバスと、恋人ただ一人からドレインした分だけで強化したサキュバスであれば、前者の方が強くなるのは自明の理だろう。
「本来サキュバスは恋なんてしないし、しても割り切れる人がほとんどなの。だけど、唯一人に恋をしてその人とだけ長期間に渡って関係を持つような、一途と言えるサキュバスも少なからず存在する。そんなサキュバスが恋人と死に別れてしまったら、どうなるかは明白でしょ?」
 愛する人と死に別れたから、悲しくて、苦しくて、生きる気力さえもなくなってしまうなんてのは悪魔でも人間でもあり得るだろう。まして、サキュバスやインキュバスの場合、生きるためには異性からのエナジードレインがいる。
 通常のサキュバスやインキュバスの場合、生命維持のために必要なエナジーは異性との粘膜接触を介さないと間に合わない。短命だという通説が出来ているのは、きっと……生きるためと割り切れずにドレインを拒否し、そのまま死んでしまったサキュバス或いはインキュバスがほとんどだったからだろう。
「だから……私なら大丈夫だよ。ハルトに会うまでは、女性や子供から少しずつ貰って生き長らえてきたもの。いずれ一人になった後も、生きる手立てはある」
 私は、サキュバスとしては稀有な、自分の体が異性に触れられるのに耐えられないタイプだった。大きくなったら自分で異性を誘惑してドレインしないといけないよって言われて絶望した程だ。
 だから、必死に努力した。少しのエナジーでも活動出来る様に、戦えるように、生きていけるように。そんな私を純情ぶってるとかお嬢様気取りとか、そう言って馬鹿にしてくるサキュバスは沢山いたけれど。そこは私も悪魔の端くれ、馬鹿にしてくる奴は片っ端から捻じ伏せてきた。
 それでも私に勝てないくせにって言って笑い返してやった時の彼女達の悔しそうな目は、今でもよく覚えている。それを痛快と思うくらいには、私も気が強いし性根は悪魔だ。
「ねぇ、だから、ハルトの一生を私に頂戴。その代わり、ハルトが望むだけ協力する。戦闘の補助でも共闘でも家事でも溢れて毒になった魔力の受け皿にも、何だってなるから」
 心からの願いを告げて、ぎゅうっと彼にしがみ付いた。私が自分から触れたいと思う異性なんて、この世にハルト唯一人だけ。同じ時を生きられないのは分かっているけれど、だからこそ、一緒にいられる間は全部一人占めしていたい。
「……リリアム」
「はい」
 名前を呼ばれたので、ハルトへ目を向けた。怯むほどだった鋭さはなりを潜め、熱っぽく潤んでいる。両手を握られたので、逆らわずに握り返した。
「俺は、リリアムに初めて会った時に好みだって思って、一緒にいるうちに愛おしいと思うようになって、一生を共にするならこの子が良いって思うようになった。そのくらい、俺はリリアムの事を愛している」
「……はい」
「だから、リリアムが大丈夫と言うのならば、俺はその言葉を信じる。信じるから、俺と主従契約を結んで俺の一生に付き合ってくれ」
「……もちろんよ!」
 嬉しくて嬉しくて、握っていた手を解いてもう一度彼に抱き着いた。そんな私の事を、ハルトも力強く抱き締めてくれる。
「これからもよろしく、俺の悪魔でお嫁様」
「こちらこそ。私の主でお婿さん!」
 それぞれ告げて、視線同士を絡め合わせて。吐息も混ざって熱同士が触れ、心がとろりとろりと溶けていく。

 唇を離した後で、弾ける様に笑いあった。