第四話

 

「と、とりあえず……理由を聞いても、良いですか?」
「そう……ですよね。私にとっても……いきなり過ぎて受け止め切れないでいるのですから、誠さんなら猶更ですよね」
 そう言った彼女は、一旦言葉を切って深呼吸を始めたようだ。息を吐いて、吸って、という規則正しい音が聞こえてくる。
「……今までは、特別体が弱いとか、持病を抱えている、とかはなかったんです。時折風邪を引いたりはしていましたけど、まぁ、そういう事はそれなりに皆さんあるじゃないですか」
「そうですね。俺も、十年前に一度だけ風邪を引いた事があります。あとは、寝不足のまま釣りに行って、捌いた魚に当たった事があるくらいですか」
「そうですか……誠さんは、体がお強いのですね」
「そうみたいですね」
 自分の中ではごく普通の事だと思うのだが、今の話をするとみんな口を揃えてそう言うのだ。俺にとっての普通とみんなにとっての普通には、大きい隔たりがあるらしい。何故だ。
「だから……少し見えづらいなって思った時も、疲れてるんだろうなって思っていたんです。ちょうどその時試験勉強していたから、その所為だろうって」
「ふむ」
「だけど……試験終わって、夏休みに入ってそれが終わっても、変わらなくて。むしろどんどん見えなくなってる気がするって思って、流石にこれは眼科へいかないとまずいって思って……近所の眼科へ行ったら……」
「……行ったら?」
「お医者さんが難しい顔をして何かを書き付けていて、怖くなってどうしたんですかって聞いたら、紹介状書くから大学病院で検査を受けるよう言われて……」
 震える声に、嗚咽が混じる。これ以上彼女を苦しめるくらいなら、もう聞くべきではないと思うのに。彼女を苦しめてまで知りたいなんて、どうかしていると思うのに。それでも、彼女とのこれからを望んでいるからこそ、彼女には話してほしかったしきちんと聞いておきたかった。
「お医者さんは両親と懇意にしてる方だったので、その日のうちに両親へ連絡を入れてくれていたみたいでした。茫然としたまま家に帰ったら、次の日にはその大学病院へと連れていかれました」
「成程。そこで、もう一度検査を受けたんですね?」
「……はい。そして、私の目の現状と、将来について聞きました。今はまだ辛うじて色の違いくらいは判りますけど、この病気はまだ治療薬がないから目はもう元通りにはならない、最終的には明暗が分かるか分からないか、そのくらいになるだろうと」
 その言葉に息を呑んだ。今まで当たり前に見えていたものが、見えて当たり前だった景色が、暗闇に閉ざされたままになる。生きていく上で、視覚が担っている働きは大きい。それが丸ごとなくなってしまうというのは、どれだけの恐怖なのだろう。
「ごめ……な、さい、ごめんなさい」
「何を謝る事があるんです」
「だって、私、目が見えなくなるんです」
「ええ、治療薬がないなら……悲しいですが、そうなってしまうのでしょう」
「目が見えないなら、きっとあなたの傍にいるには重荷になる、だから」
「……だから?」
「婚約のお話も、なかった事になるんだろうなって思って……それで」
「……は!?」
「あなたに話さないといけないのに、話したら別れなきゃいけないから、話したくないって、思って、だから」
「ちょちょちょちょ、待ってください何故そんな結論になっているんですか!?」
「え……だって、あの」
「いやいやいやいや貴女との婚約を破棄する気なんてこれっぽちも微塵も小指の爪の先もありませんよ!!」
「で、でも……」
「ありませんってばそんなの断固拒否しますからね!? 貴女と別れるとか絶対に嫌ですか……ごっふぅ!!!」
 必死になりすぎて息継ぎなしに言葉を発していたからか、言い終わらないうちに盛大にむせてしまった。だけど、言葉が切れたら残酷な決定打を突き込まれそうで、それだけは阻止せねばならぬと、機関銃のようにまくしたてねば未来がなくなると思ったのだ。そう、だから、言わせなければこちらの勝ちである。
「だ、大丈夫ですか誠さん!?」
「だ、だい、じょう……ごほっ……ぶ……げほっ……です……」
「あの、何かお飲み物飲まれた方が」
「い、いえ……お気遣いはありがたい……がふっ……ですが、大丈夫です……」
 きっと、電話の向こうでは可愛らしい顔を困惑させておろおろと手が揺れているのだろう。その姿が鮮明に浮かぶくらいには、俺は彼女を愛しているのだ。
「さ……沙織さん」
「はい」
「何があろうと、何を言われようと、俺には毛頭そのつもりはありませんから安心してください」
「そのつもり……?」
「言葉にするのも不吉すぎますし言霊というのもありますのでその言葉を言う気はありませんが、俺は何があろうと貴女を手放す気はないしこのまま結婚するつもりですから、それだけは肝に銘じておいてください。間違っても、自分を責めないように」
 病気というのは、基本誰の所為でもないのだ。生活習慣がどうこう言うものを除けば、誰が悪いわけでもなければ、誰かの所為というものでもない。だから、彼女が自分を責める必要はこれっぽっちもないのだ。
「沙織さんは、訓練校とかに行くご予定はありますか?」
「え、それは……まだ決まっておりませんけど……」
「本来なら貴女が大学を卒業してから祝言を上げるという話でしたけど、この状況ならこのまま大学というのも難しいでしょうし、あれなら先に話を進めて貴女を娶った方がいいでしょうね。そうすれば訓練校に行くとなっても学費とかをうちで持てますし、その方が妹さんの将来にも影響しない」
「……誠さん」
「詳しいことはまた両家の両親もいる場で話しましょう。夜も遅いですし」
「はい……あの」
「何ですかそのつもりの話なら聞きませんよ」
「違いますよ。ありがとうございます……とお礼を言いたかったんです」
「何故に」
 お礼を言われるような事は特に言っていないと思うのだが。むしろ、両家が関わるから親同伴でないとこれからの話が出来ないという情け極まりない発言をせざるを得なかった……というこの状況にだいぶダメージを負っているのだが。
「こんな状況になっても、婚約者に力強く結婚するつもりだって言ってもらえたのは……貴方が思うよりももっとずっと、幸せなものなんです。だから」
「俺の脳内直下で沙織さんが幸せになれたのならば、恥を晒した甲斐があったというものです」
「……先ほどの言葉が脳内そのままというのなら、さらに幸せが倍増しますね」
「本当ですか? やはり俺は女神と婚約していたようだ」
「……ありがとうございました。私の神様」
「どういたしまして、私の女神」
「おやすみなさい」
「おやすみなさい、沙織さん」
 幸福な気持ちで、通話終了ボタンを押す。今日は久々にいい夢が見られそうだと思った。