第三話

 

「……どうしたんだ、そんな辛気臭い顔して」
「俺は……俺は……」
「何だ」
「俺は……彼女に嫌われてしまったのだろうか……」
「えっ!?」
 何も変わり映えしていないスマートフォンの画面を眺めながら、何度目か分からないため息をついた。もう、一か月は彼女からの連絡が来ていない。
「メールを送っても、電話しても、応答がないんだ。そりゃ、向こうから連絡がくるのはそう多くなかったけれど、でも、俺が連絡したときは必ず何らかの方法で返事をしてくれていたのに……」
 毎日とまではいかないが、週の半分以上は彼女へメッセージを送っていたし、その返答も来ていた。仕事でむしゃくしゃした事があった時に、彼女の声が聴きたくて電話をしたら優しい声で労わってくれた。
「いっそ、家まで行ってみるか……」
「いきなりそれはやめておけ。お家騒動的なあれこれで余裕がない、とかならかえって迷惑になるだけだ。向こうも上流階級なんだろう? 自分たちに余裕がなくても、婚約者が訪れたからにはもてなしを……って気遣わせて負担になってしまう」
「……それならば、一体どうしたら」
「ここ最近連絡が取れていない、貴女が心配だし貴女に会いたいから、家まで行ってもいいかって直接聞けばいい」
「また返事が来ないかもしれないぞ」
「そんときゃ、もう行っていいだろう。今すぐに行くならば余計な負担をかける羽目になるだろうが、一回行きたいと予告しておけば、来るかもしれないといって最低限の準備はするはずだ」
「なるほど、前触れは大事なのだな」
「大事だな。そういうとこまで気を回してこその、頼りがいある婚約者さまだろう?」
 いい笑顔で親指を立てて歯を見せる友人に、同じポーズを返す。書いては消し、書いては消しを繰り返しながら完成した面会願いを、画面を叩いて送り出した。

  ***

 ようやく一週間が終わった、と思って褒美がてらちょっといい缶ビールを開けていると、ふいにスマートフォンが光った。こんな至福の時に誰だと眉をひそめながら手に取ると、そこに表示されていたのは……この一か月半ずっとずっと焦がれていた名前だった。
「はいもしもし!? 俺ですよ沙織さん!?」
「あ、えっと……そうですね、このお声は、誠さんですね」
「あああああ本当に本物の沙織さんの声だ! もう空しく録音していたのを聞き直さなくてもいいんだ!」
「えっと……すみま、せん……?」
 久方ぶりに声を聴けた喜びで大脳直下のあれそれを伝えてしまったが、沙織さんは変わらず咎めも引きもしなかった。やっぱりこの人は女神さまだ。
「……すみません、この一か月半全く連絡しないでいて」
「気になさらないでください。そりゃ、寂しくて心細くて、ひょっとして俺は何かをしでかしていて婚約を破棄されてしまうのではないかと戦々恐々とはしていましたが……」
「……」
 電話の向こうで、息を飲む音が聞こえた。いつにもましてたどたどしい感じで話しているが、一体どうしたというのだろう。いや、一生懸命に話している姿を思い描いて彼女を抱き締めたい衝動に駆られているだけで、それ自体に負の感情は抱いていないのだけれども。
「……私、誠さんに、お伝えしないといけない事があるんです」
「何でしょうか?」
「……お伝えしないと、いけないんです、けど……」
 真面目な声なので、こちらも理性を総動員して真面目に話しているけれども。彼女の声は随分と震えていて、今にも消えてしまいそうなくらいだった。
「電話で伝えづらいなら、メールとかでも大丈夫ですよ? そっちの方が話しやすい事もあるかもしれないですし」
 俺なりの気遣いのつもりだったのだが、沙織さんは押し黙ってしまった。もう、私には、と聞こえた気がするがはっきりとは聞き取れない。
「……出来ないんです」
「何がですか?」
「私には、もう、メールが打てないんです」
「え?」
「いえ、色々と導入すれば出来るようになるかもしれないけれど……でも、今は、メールを打つ事も、本を読む事も、一人で出歩く事も、料理も、全部ぜんぶ……出来なくなってしまったんです」
「……どうして、です」
 予想だにしていなかったその言葉に、妙な焦りを感じ始めた。一体、彼女の身に……俺の婚約者の身に、何が起こっているというのか。
「…………私、目が」
「目が」
「……目が、見えなくなって、しまったんです」
 必死に絞り出したのであろうその声が、遠く遠くで響いている。衝撃で動けないでいる俺の手元のスマートフォンからは、彼女のすすり泣く声が零れていた。