第一章 出会いと再会②

 

「そういえば、三月に入ったって事は桜の蕾も付いた頃かな?」
 ぴりぴりと痛いくらいの寒さになる時もあるからあまりそんな感じがしないけれど、暦の上ではもう三月だ。枝に蕾が付いて、咲くために膨らみ始めていてもおかしくない。
「まだ時間はあるし……もう人通りも多くなってきたし……」
 きょろきょろと周囲を窺う。通りには、ランドセルを背負った小学生や指定鞄を肩にかけている中高生も増えてきた。車の往来も相変わらずだ。
「……行っちゃおう、かな」
 父さんの働く研究所は、私の通学路の延長線上から少しだけ外れた所にある。そして、その研究所の裏には一面を草に覆われた小高い丘があって、一本の大きな桜の木が生えていた。
 人通りは少ないけれど車の往来は多いので、小さい頃は一人で行ってはいけないと言われていた場所だ。でも、今はもう高校生だし、既に陽も上っていて視界は良好。そんな危険な事は無いだろうし、少し寄るくらいなら遅刻する事もないだろう。
 小さい頃から、私はその桜の丘が大好きだった。まだ母さんが生きていた頃、花が咲く時期になると家族三人で花見をしていた、思い出の場所だからだ。
 最も、二人とも忙しかったから桜は窓から眺めるだけで間近で見た事はない。だけど、あの場所自体には葉が茂る頃に母さんに連れられて行った事があるし問題ない。
 てくてくとその丘へ向かって歩き出した。せめてもと思って、少しだけ遠回りをしてなるべく人が多い道を進んでいく。
 しばらく歩いて、ようやくお目当ての場所が見えてきた。でも、木まではまだ遠いので、茶色い幹や枝が見えるだけで蕾が付いているかまでは分からない。周囲と時計を確認して、そのまま歩を進めていった。
「……あれ、誰?」
 木に近付いていくと、その傍らに誰かが立っているのが見えた。並んでいる木と比較してみると、私より背の高い人らしい。
「んー、私が行ったら邪魔かなぁ」
 その人は、静かにたたずんでいた。シルエットから察するに、手を幹にあてて顔を上げているようだ。上の枝の様子を見ているのかもしれない。
 引き返そうか、どうしようか。立ち止まって思案していると視線を感じた。顔を上げて前を見ると、先ほどまで見えていた茶色っぽい頭部ではなく、白っぽい顔の辺りが見える。
 視線を向けられている、見られている。そう気付いた時、なぜか……このまま立ち去ってはいけない、彼の元に行かなければならない、そう思った。
 ほぼほぼ直感のようなもので、理由なんて分からない。でも、そう思ったら止まれなかった。見た事がない人間には二度と近づくな、近づかれる前に逃げろ。そんな父さんの言いつけは、一切合切頭の中から抜け落ちていた。
 導かれるように、桜の方へと進んでいく。木の傍の人の服装がはっきりと分かる位置まで近づいた。まだ寒いからなのか、かっちりとしたコートを着てマフラーを巻いている。コートもマフラーも同系色の色で統一されていて、すっきりとした印象の……青年のようだ。
 彼との距離が縮まれば縮まるほど、反比例するかのように鼓動の速度は大きくなっていった。このまま近づいていったら、私の心臓は音を立てて壊れてしまうのではないだろうか。そんな事を考えてしまうくらいに、私の胸は高鳴っていた。
 胸が高鳴る理由は分からないけど、臆する事なく進んでいく。目的の彼は、その場から一歩も動かなかった。私が来るのを待っているかのように、目を逸らさず、こちらを向いてじっとしている。
 とうとう彼の正面に来た。私より頭一つ分くらい大きい彼の顔を、大きく深呼吸した後で仰ぎ見る。
 彼とまともに視線がぶつかった。改めて彼の瞳を覗き込んだその瞬間、闇夜のような濃い瞳が大きく見開かれる。
「はる……ひ?」
 心地よい低音が耳に響いた。初対面の筈の彼は、はっきりと私の名前を口にする。
(……違う、初対面じゃない)
 茶色がかった、外に跳ねた短髪。夜空のように濃い色の瞳。すっきりとした目元に、きりっとした口元。何度も出逢って、何度も舞い散る白にかき消された、焦がれた人。

 夢の世界でしか会えなかったその人と、現実世界で出逢えた瞬間だった。

  ***

「ええと……君は、一之宮春妃さん?」
 私を凝視したまま、彼が問うた。目つきそのものは、信じられないものでも見るかのようだけれど……体が小刻みに震えだして、瞳も潤み出している。
「……はい」
 どうして彼がそんな表情をしているのかは分からないけれど、彼は私のフルネームを知っていた。私よりも年上のようだし、新しく研究所に入った新人さんとかだろうか。
 目の前の彼が一歩踏み出した。彼の、その……ただならぬ雰囲気に押されて、私は反射的に半歩ほど後ずさってしまう。
「……やっと……」
 感極まったような声と表情でそう呟いた彼は、私の方へ手を伸ばした。そして、彼が手を伸ばしたという動作を私が認識して行動するより早く、彼の腕に囲い込まれる。
「春妃……」
 ぎゅうと腕に力を込めるのと同時に、吐息交じりの自分の名が耳に吹き込まれていく。予想だにしない展開に、頭の中が一瞬で真っ白になった。持っていた弁当入れが落ちていく音が、ずっと遠くから響いてくる。
「やっと、会えた」
 腕の力が少しだけ緩んだ。そっと顔を上げてみると、目尻に涙を溜めたまま笑っている彼の顔が映る。その顔が、夢の中での微笑みによく似ていて、心拍数が一気に跳ね上がった。そして、それと呼応するように顔が熱くなっていく。
「……あの、あなたは?」
 更に言葉を続けようとしていた彼には申し訳なかったけれど、私の心臓は限界だ。家族親族以外の男性に抱きしめられた事なんてないし、熱っぽい目で見られた事も名前を呼ばれた事もない。そもそも、現実世界では……初対面の筈、なのだけれど。
「どちらさま、ですか? 新しく研究所に来た方?」
 そう尋ねると、それまでは桜よりも濃い色に染まっていた彼の顔から、一気に色が失われた。そして、はっと息を飲み込んで目を伏せた彼は、一旦私を解放してくれる。
「あぁ……そうか。そうだったね」
 自嘲するような笑みを浮かべながら、彼がぼそりと呟いた。何がそうなのか、思い当る事が全くないので尋ねようとしたのだけれど。その前に、彼の自己紹介が始まった。
「初めまして、になるんだね。俺は相沢(あいざわ)雪人(ゆきひと)。大学生だよ」
「大学生?」
「うん」
 そう返事をしながら、彼はしゃがみ込んで私の弁当入れを拾ってくれた。はい、と手渡されたので、ありがとうございますと言って受け取る。その間、ずっと彼は私から視線を外さなかった。
「あの、聞いても良いですか?」
「何をかな?」
「なぜ、ここにいらっしゃるんですか? 来年から研究員として働くから下見……とか、そういうのですか?」
 弁当入れを持ったまま、両手を体の前で合わせながら尋ねる。視界から彼を外さないようにして、彼の返事を待った。
「いや、俺は今度大学の四年生になるから、そういうのではないんだ」
「では、なぜ?」 
 探るように彼を見つめる。すると、自分が警戒されている事が分かったのか、彼の表情が申し訳なさそうなものになった。
「僕の両親が以前ここで働いていたと言う話を聞いてね。それで、近くまで来る予定があったからちょっと見てみようと思って」
「……それで、ここまで辿り着けたんですか?」
「ここに桜の木がある事も聞いていたんだよ。所長一家と一緒に、部屋で花見をしていた事もね」
「……そう、ですか。それなら、不躾な質問でした。申し訳ありません」
 どうもそれだけではないような気がする。それだけならば、初対面の筈の私を抱き締めたりはしないと思う。けれど、私にはそれを問い正すだけの話術と勇気はなかった。
「いや、初対面の人間にはこれくらいでいいんだよ。春妃は可愛いから、話す前から相手を信用するような危ない真似はしない方が良い」
「はい……えっ!?」
 今、彼は何と言ったか。さらっと当たり前のように言っていたからそのまま受け止めそうになったが、何か凄い事を言っていなかったか?
「い……今、私が可愛いって……嘘でしょう?」
「嘘なもんか。何で驚くの。俺は事実を言ったまでだよ」
「……はいっ!?」
 かっと体が熱くなって、血が一気に沸騰したかのようになった。落ち着きつつあった鼓動が、再び勢いを増してくる。
「春妃はちゃんと自覚した方が良いね」
「な、何をですか?」
「自分の可愛らしさを」
「ひえっ……!!」
 私はまだ夢の中にいたのだろうか。起きたら、また自室の天井が見えるのだろうか。そう思って何度も目を閉じたり開いたりするのだけれども……目に入るのは毎回、彼の顔と彼が背にしている桜の木だ。
「どうしたの、そんなに目をぱちぱちとさせて」
「……誰のせいだと思っているんですか!!」
 とても現実とは思えない科白を、夢の中の住人だった貴方が、焦がれて止まなかった貴方が言ったから、こんなに戸惑っているのに!
 そう思って、彼を半泣きで怒鳴りつけた。すると、彼は心外だとでも言うように眉根を寄せる。
「遠目から見たんでも分かるくらい、春妃は可愛い女の子だよ。さっきもね、春妃があんまりにも可愛いから思わず見惚れてしまったんだ。それで、目が離せなかったんだよ」
 彼は憎らしいくらいの爽やかな笑顔で、恥ずかしさで卒倒しそうな言葉を告げる。
「やっぱり、そうだ」
 そう言って、彼が私の両手を握った。ああ、私の顔はきっと耳まで真っ赤になっている事だろう。
「こんなに可愛い女の子……初めて会った」
 私の手を包みこんでいる彼の手に、ぎゅっと力が籠もる。そして、彼の顔が私の方に近寄ってきて、耳元で囁かれた。
「春妃、俺は春妃に一目惚れしちゃったみたいだ。だから、そうだね……まずは、俺と友達になってくれないかな?」
 夢の中の焦がれ人は、想像以上に刺激的な人だった。