第二章 彼と私、縮まる距離②

 

『次の日曜日、空いてる?』
 そんな文面に、頭が真っ白になった。急いで手帳を引っ張り出して、予定を確認する。
『大丈夫です、一日空いてます!』
 送信してからも、心臓がばくばくと音を立てていた。予定を聞かれるなんて、何かのお誘いかな、それなら嬉しいな……なんて、やっぱり期待してしまう。
 数分後、届いた返事を見て叫んでしまい、父さんにいらない心配をかけてしまった。

  ***

「す、すみません! 遅れてしまいました!」
 そう言って半泣きで駅の改札口に現れた私に、振り返った雪人さんが笑いながら大丈夫だと言ってくれた。
「俺も十分ほど前についたから、そんなに待ってないよ。そもそも、遅れたといっても五分だけだ」
「で、でも、待ち合わせなのに遅れるなんて」
「はは……。春妃はいい子だね」
 優しげな眼差しをこちらに向けて、雪人さんがそう言ってくれる。怒ってない事には安堵したが、いい子なんていう子供扱いには眉を潜めてしまう。
(そりゃあ、大学生から見たら高校生なんて子供かもしれないけど……)
 そんな考えが脳裏に浮かんで、自分で自分に少し驚いた。これ以上の子供扱いを父さんに嫌という程されているから、それ以外の人からの分でも不満に思うより呆れる事の方が多かったのに。
「待ち合わせは人との約束だから。人との約束は守らないといけないって、昔母さんが言っていたんです。だから」
「へぇ。しっかりした親御さんだね。あぁ、だから春妃も見た目の割にしっかりしてるのかな」
「見た目の割に……?」
 どういう事かといぶかしんで眉根を寄せると、彼は私の耳元に顔を寄せて再び口を開いた。
「可愛らしい見た目とは裏腹に、って事だよ」
 そんな歯の浮くような科白をさらりと告げると、雪人さんはちらりと駅の時計を確認した。
「もうそろそろ出そうだね。一旦構内に入ろうか」
「はい!」

  ***

「うーん、どっちがいいのかなあ……」
 二冊の本を手に取りながら、そんな事を呟いた。
「春妃、ここにいたんだね」
「あ、はい。雪人さんの方は……」
「俺はもう決めたよ」
 そう言った彼は、一冊の本を私に見せてくれた。
「これ、薬の本……?」
「さすがだね。その通りだよ」
「一応、製薬系の研究所の娘なので……」
 雪人さんが持っていたのは、新薬開発に関わる話の本だった。見た事のない表紙なので、新しく出た本だろうか。
「春妃は薬に興味あるの?」
「ええ、まぁ。化学とか生物とか好きですし」
「へえ。やっぱり御両親の影響かな?」
「かもしれません。小さい頃から研究所に出入りしていたから、色々見せてもらってましたし」
「ふーん……」
 そう言いながら、少しだけ雪人さんの眉間にしわが寄った。でも、それも一瞬の事で、直ぐにいつもの笑顔に戻る。
「春妃はまだ選んでる最中かな? 参考書が欲しいって言ってたよね」
「はい。一応、候補は絞ったんですが……どちらにしようかで迷っていて」
「ちょっと見せてくれる?」
「あ、はい」
 返事をして、手に持っていた二冊の参考書を雪人さんに手渡した。ぱらぱらと中身を見ながら、彼がぼそぼそと呟く声が聞こえる。そんな真剣な横顔を、心臓が逸るのを感じながら眺めていた。

  ***

 彼が選んでくれた参考書は私に合っていたらしく、随分勉強の効率が上がった。前は三十分以上考えても良く分からなかった問題が、その半分くらいの時間で理解できるのだ。
「そのおかげでこの前の小テストも満点取れたし……何かお礼するべきだよね」
 小テストが満点だった事を父さんに告げると、顔には出さなかったものの父さんは喜んでいたようだ。さすが俺達の娘だ、という呟きが居間を通りかかった時に聞こえてきたので間違いない。その次の日には、必要な勉強を真面目にやっているようだから、友人と一緒であれば次の日曜日に少し遠出をしても良いという許可までくれた。
 少しためらって、考えて。スマホを取り出して、震える手で新規メールを作る。宛先を選ぶのにも、件名を考えるのにも、本文を打つのにも随分時間がかかってしまった。
「……えい」
 ぽん、と画面を叩く。たったそれだけの事なのに、その後もしばらく動悸がおさまらなかった。

  ***

「春妃!」
 満面の笑みで私の元に駆け寄ってきてくれたのは、今まで見た中でも一、二を争うくらいの嬉しそうな笑みを浮かべた雪人さんだ。
「今日は誘ってくれてありがとう。メールが来た時は夢かと思ったよ!」
「そんな、大げさな……」
「大げさなもんか。まさか春妃の方からなんて……本当に嬉しかったんだよ!」
 熱っぽい瞳で見下ろしながら、雪人さんが私の手を握る。手から伝わる体温がいつもより高い気がして、こっちの方まで熱くなってきてしまった。
「と、とりあえず、出発しましょう?」
「そうだね。せっかく二人きりで出掛けるんだ。ここで立ち止まっていたら、もったいない」
 さぁ、行こう。年よりも幼いくらいの嬉しそうな表情で、雪人さんがそう言って私の手を引いて歩きだした。

  ***

「んー、やっぱりここは居心地がいいなぁ」
 雪人さんに連れてこられたのは、普段使う駅から二つほど離れた駅の近くにある植物園だった。出かけないかと誘ったものの場所が浮かばなかったので、彼に希望を聞いた結果そこにしようという話になったのだ。
「……ここ、よく来られるんですか?」
「ああ、うん。休みの時とかに時々」
「そうなんですね。植物がお好きなんですか?」
「それもあるけど、ここは静かで雰囲気がゆったりとしてるだろう? 昔から、弁当持って日がな一日植物を見て、のんびりと過ごす事が多かったんだ」
「……へぇ、優雅ですね」
 何かをずっと見ていられるって、なかなか出来る事ではない。私も、自分には多少せっかちな部分があると自覚しているから、手を動かさずに何かを眺めるというのは出来ない方である。そんな事無いと思うんだけど、何もしないのはもったいないって思ってしまうのだ。
 そう思って素直にそう告げると、それを聞いた雪人さんは一瞬だけ固まって……いきなり笑い出した。お腹を抱えているからつぼに嵌ったようだが、何がそんなにおかしいと言うのか。
「ふはっ、ははは……まさか、そんな返答が来るとは」
「何がおかしいんです?」
 むっとした表情を取り繕うのも忘れて、彼に向ってぼそりと呟いた。不機嫌そうな私の顔を見たからなのか、雪人さんは笑いつつもごめんごめんと謝ってくれる。
「だって、誰もそんな風には言ってこなかったもの。大体は、そうなんですねで流すか、もっとアクティブに行動しないと人生勿体ないぞとかそういうお説教だったからね」
「……前者はともかく、後者の言葉を言って来た人って人の趣味にけちをつけられる程高尚な人物なんですかね」
「まぁ、そういう人は、たぶん能動的に何かをして余暇を有効活用する事で、自分を高めるべきだ……と考えている意識の高い人なんだろうよ」
「そういう人が本当にハイスペックだった事ってあんまりない気もしますけど」
「それは言ってあげない方が良いね。口論になる」
 本当に自分を高めたいと思っている人は、インプットも大事にするだろうと思う。そして、正確な知識を頭に入れるだけでなく、それをきちんと理解してから共有したり行動に移したりする事で、その知識を確固たる自分のものにする。そういった一連の行動を丁寧に行う事でより洗練された人間に成れると思うし、そういう人がいわゆるハイスペックな人と言えると思うのだ。
「植物を良く眺めているならば、やっぱり今日は違うとか同じ種類の木でも個性があるとか、気づきも多いですか?」
「学者ではないから直感的なものばかりだけどね。なんか違うなーとかこう伸ばしてきたかー、枝。みたいなのはあるかな」
「へぇ……」
 盆栽いじってるおじいちゃんみたい、という感想が喉から出かかったが寸での所で押し留めた。盆栽やってるおばあちゃんも若い人もいるのだから、そう言ってしまうのも如何なものか。いや、そもそもそういう問題ではないのかもしれないけど。
 その後も、つらつらと互いの話をしていった。学校の事、普段の過ごし方、好きな事、嫌いな事……話題は、全く尽きる事がなくて。自分の話に豊かな反応を返してもらえるというのが嬉しかったし、聞いてもらえるのが嬉しかった。だから、彼に問われるままにこちらの事を語って、彼の事もたくさん問うた。その度に、彼は嬉しそうに詳細を答えてくれた。