第二章 彼と私、縮まる距離③

 

「……立ち入った事で申し訳ないんだけどね」
 話がひと段落して互いに持っていた飲み物を一口ずつ飲んだ後で。それまでの様子が一変して、急に真剣な眼差しになった雪人さんにそう問いかけられた。そんな彼の瞳にどきりとしながら、何でしょうかと返事をする。普段はにこにこ笑っているから忘れがちだけど、雪人さんはかなり綺麗な顔立ちをしているから真顔になると心臓に悪い。
「春妃のお母さんは、どうしてるの?」
 家族の話をしているのにお父さんの話ばかりだから、と言われて、思わず息を飲んで口を噤んだ。別に、今更激情に駆られる事はないし避けたい話題でもないのだけど、一から説明するのは久々だから。ちょっとだけ、動揺してしまったのだ。
「……私の母は、十年前に亡くなりました」
 今度は、雪人さんの方が口を噤んでしまった。ごめんね、と謝られて話が打ち切られそうな気配がしたので、大丈夫ですよと微笑んでみせる。
「私が小学校に入学する直前でした。当時の事はあんまり覚えていないので聞いた話なんですけど……車との接触事故だったと」
「……そうなんだ」
 そう呟いた後で、雪人さんは何事かをもごもごと呟いた。微かに聞き取れたような気もするけど、はっきりとは分からなくて。だから、どうしたんですかと尋ねてみたけれど上手くはぐらかされてしまった。
「それ以来、ずっとお父さんと二人暮らしなのかな?」
「はい。研究所の人達も皆で面倒見て下さってたので、寂しいとか悲しいとかって感情を抱く事はそれほどなかったですけど」
 多かったのは、もしこうだったのならどうだっただろうかという漠然とした空想だ。友達や先輩、後輩が自分の母親について話してくれる度に、母さんが生きていたらそんな話したのかな、とか一緒に出掛けたりしてたのかなってぼんやり考えていた。
「春妃は、周りに愛されて育ったんだね」
 しみじみと言われて、面映ゆさに俯いた。確かに、両親そろって子供がいる……といった世間一般で言われている家族構成とは少し違う環境ではあったが、周りの人達が大切にしてくれていたのは十分理解しているし、感謝しているのだ。
「……出来る事なら、その頃に一緒にいてあげたかったな」
「その頃?」
「春妃のお母さんが亡くなられた直後くらいに。君の事を、傍で支えられたら良かったのになって思ってさ」
 今更言っても仕方ないのにね、と雪人さんが力なく笑った。彼が辛そうに、苦しんでいるように見えて、こちらまで苦しくなってくるような気がして。何とか元気づけたくて、気が付いた時には、私は彼の手を両手で握りしめてその瞳を見つめていた。
「過去には出来なかったとしても、今一緒にいて下さってます。私の話を聞いて、困ってる事を聞いて、貴方なりの言葉を返して下さってます。だから、そんなに悲しまないで下さい」
 彼の黒い瞳が、ぱちぱちと瞬いた。次いで、かっと耳の方まで朱に染まる。はるひ、あの、と焦ったような声音が聞こえてきて手を振り解かれそうになったので、握る力を強めた。
「こうやって今一緒にいてくれてる事が、私の話を聞いてくれて、私に色々話してくれるのが、嬉しいの。だから、貴方はそれでいいんです」
 言いたいと思った事を言い切れたので、ほっとして手を放す。赤い顔のまま茫然としている雪人さんが、はくはくと口を開いて声にならない言葉を紡いだ。
「雪人さん?」
 聞き取れなかったので、聞き直すべく問い掛ける。よく聞こえるようにと思って少し距離を詰めると、彼は明後日の方向に手をぶんぶん振りながら後ずさった。
「あ、あり、が……とう……」
 さっきよりも、距離は離れてしまったけれど。私に聞こえる声で、そう言ってもらえたから。そう言ってもらえたのが、嬉しかったから。
「こちらこそ、ありがとうございます!」
 お礼にお礼を返して、笑ってみせた。

  ***

「わざわざすみません、家まで送ってもらうなんて」
 植物園が閉園の時間を迎えたので、今日はこの辺でという事になったのだけど。通学時に送り迎えしてもらっているなら今回もその方がいいだろう、と言って雪人さんが家まで送ってくれる事になった。
 彼は私が普段使う駅よりも数個手前の駅のところに住んでいるらしく、私を自宅まで送り届けるとなると彼にとっては結構な遠回りになってしまう。それは申し訳ないなという気持ちと、ほんの、ほんの少し……自宅の場所が知られるのはまずいのでは、という警戒心があったのだけど。小さい頃に何度かお邪魔させてもらった事があるから場所は覚えているし、春妃に何かある方が大変だと言われたので今更だと思って厚意に甘えさせてもらう事にしたのだ。
「良いんだよ。これくらいは、させてくれ」
「これくらいって……結構な遠回りじゃないですか」
「俺の歩く距離が長くなるだけで春妃の安全が保障されるなら、安いものだ」
 そんな言葉に、そんな大げさなと笑って見せようと思ったのだけど。彼は、至極真面目な表情でその台詞を言っていた。
(どうしてそこまで……)
 そう思わなくもないが、彼の真意が分からない以上考えても仕方がない。なので、取り敢えずありがとうございます、とお礼を伝えるだけに留めた。
 しばらく並んで歩いていると、見慣れた我が家が見えてきた。ああ、あの家だったよねと確認されたので、首を縦に振って肯定する。門の前に来て、門を開けてくぐろうとしたところで、雪人さんに呼び止められた。
「今日は誘ってくれて本当にありがとう。春妃からのお誘いというだけでも嬉しかったのに、こうやって一日一緒に居られて最高の気分だったよ」
「そう、ですか」
「……春妃はつまらなかったかな。植物園で植物眺めながらお弁当食べただけだったもんね」
「いえ! そんな事は! ないですけど!」
 つまらなかった訳ではない。私にとっても、今日はとても楽しいものだった。メールとか電話でのやりとりもしてたけど、やっぱり、こうやって顔を合わせた方が何倍も楽しかったし……嬉しかった。彼が思っているよりもずっと、私は、彼と一緒にいたいと思っているし一緒にいるのが楽しいと思っているのだ。
 だけど、時折感じる息苦しさがどうしても拭えない。どうして、そこまで、と。どうして、そこまで……気遣ってくれるのだ、という疑問が胸の奥で燻っているのだ。
「……門の前で、何をやっているんだ」
 何となく煮詰まっていた空気を切り裂くような、鋭い声が聞こえてきた。はっとして振り仰ぐと、不機嫌そうに顔を歪めている父さんが仁王立ちになっている。
「お騒がせしてすみません。日が沈み始めた時分にお嬢さんを一人で帰すのも危ないと思って、こちらまでお送りしたところでした」
「それは感謝申し上げるが、ここまで送り届けたのならばもう用は済んだだろう。この時期はまだ冷える。娘が風邪を引いたらどうするんだ」
「申し訳ありません。そこまで気が回りませんでした」
 妙に緊迫した雰囲気の中で、父さんと雪人さんが会話している。下手に口を挟んだりするのも身じろぎしたりするのも憚られて、ずっと息を殺して動かないでいた。
「それじゃあね、春妃」
 ふいに名前を呼ばれて、驚きで体をびくりと震わせた後で彼を見上げた。彼がこちらに向けている顔は、もういつもの柔和なものに戻っている。
「今日はありがとう。またメールするね」
「は、はい……こちらこそ、ありがとうございました」
 何とか言葉を絞り出し、彼へ何度目かのお礼を告げる。それを聞いた雪人さんは、ふわりと笑いながらこちらに手を振り、来た道を戻っていった。
「……もう入るぞ。これ以上外にいたら本当に風邪を引いてしまう」
 私たちのやり取りをじっと眺めていた父さんに促されるままに、門をくぐって玄関へと向かった。