「……お恥ずかしい所をお見せ致しました」
「いえ、それは……大丈夫なんですけども」
「俺の精神が大丈夫じゃない……ごめんね……」
雪人さんに抱き締められる事十数分。団体らしき人々の会話が聞こえてきたので、彼を引きずるように壁の方へ連れて行ったら、そんな風に謝られた。最後の方はちょっと可愛いなぁなんて思っていたくらいなので、本当に気にしないで欲しいのだが。
「でも……あの」
「うん?」
「ありがとうございます……まだ、私の事好きでいてくれて」
「え……まだ?」
「はい。三週間前に初めて会った時にそうおっしゃって下さいましたけど、その後は特に話題になる事なかったから……今はどうなんだろうなって思っていたので」
「……ああ、成程」
どう切り返したらいいかがまるで分らなかったので、取り繕うことない本心を述べてみた。私は一生詐欺師にはなれそうもない。
「んー……聞きたい事っていうか、話したい事とかは色々あるんだけどさ」
「話したい事、ですか」
「そう。だけど、時間押してきたし、人の前でするのも無粋だし、もう出ようか……あ、まだ見たいものとかある?」
「既に一通り見てますし大丈夫ですよ。私も、それが良いと思います」
「うん。じゃあ、そうしようか」
一旦諸々を保留にして、出口へと向かう事になった。館内マップをもう一度確認して場所を確認し、そちらの方へと体を向ける。その瞬間、私の右手が彼の左手によって包まれた。思わず雪人さんの方を確認すると、彼の視線はこちらではなく館内の案内表示に向いている。恐らく、無意識の行動だったのだろう。
特に離す理由もないし、正直嬉しいと思ったので、下手に騒がずに大人しく付いていく事にした。しかし、私の手を握っていた事に気づいたらしい彼は……引き留める間もなく、ぱっと手を離してしまった。
「ごめ、ごめん。つい、無意識で」
「大丈夫ですよ。せっかくだから、あの……」
そう言って、彼の目の前に右手を差し出した。雪人さんは、いつになく真っ赤に顔を染めて慌てている。怯まずにじっと見つめ続けていると、分かったと震えが混じる声と共にもう一度握られた。自分からはぐいぐい来る割に、こちらから働きかけるとよく狼狽えている気がする……彼が照れるポイントがいまいち掴めない。
無事に手を繋ぐ事に成功したので、距離も少しだけ詰めて歩き出した。出口付近にある売店でお土産を吟味し、可愛らしいデザインの缶クッキーと可愛いペンギンのアクリルキーホルダー、海をイメージしたデザインのボールペンを購入する。こっちの方は雪人さんの分も纏めて会計が出来たので、ほっと胸を撫で下ろした。出入り口付近で立ち止まっては邪魔になってしまうので、外に出てから彼の分を手渡す。
「ごめんね、ありがとう」
「いいえ。私の方がもっと頂いてますし」
「気にしないで良いのに」
「……今日だけでいくら使ったか思い出してほしいのですけど」
じとっとした目を向けながら、彼には聞こえないように呟いた。当の本人は、ボールペンを嬉しそうに眺めている。
「実用的な物を選ばれましたね」
「ああ、うん……前に使ってたのが、丁度インク切れちゃってね。買わないといけないな、と思っていたものだから」
「キーホルダーとかは、あまりお好きではないですか?」
「そういう訳ではないけど、物は使ってこそだと思うし、どちらかというと実際の生活で使う物を選ぶ事が多いかな」
「そうなんですね」
その辺は価値観の違いだろうか。私は、そんな沢山は欲しいと思わないけれど、ご当地キーホルダーとかグッズは好きな方だ。
「……さて、春妃」
「何でしょうか」
「今の段階での、返事を聞かせてもらってもいいかな」
「返事、ですか」
「うん。俺はね、春妃の事を一人の女性として愛しているから、春妃が承諾してくれるなら今すぐにでも恋人同士になりたいんだよ」
彼の瞳は、怖いくらいに綺麗だった。視線を逸らす事は許さないとでもいうかのように、まっすぐこちらを見つめている。
「春妃は、どう? 俺の事、どう思ってる?」
「……」
どう思っているか、というならば。それは勿論、私だって貴方を好きだという答えになるけれど。でも、今この瞬間から彼と恋人になりたいか、と言われると頷けない。
私は、小さい頃から『研究』というものに触れてきた。そして、そんな『研究』を成功させるために必要なのは、何よりも慎重さだというのを理解し体感している。時には大胆さも必要だけれども、基本的には周到で綿密な準備がいるし、結果が出るまで何度も何度も試行錯誤しながら検証を積み重ねていく持続力、そして、過不足なく検証結果を評価するための冷静さが不可欠だ。だから……不安要素が多い現状では、私がどんなに彼を好きなんだとしても、彼との関係を変えるべきでないというのが結論である。
「……私、は」
ようやく話し始めた私の事を、雪人さんは射貫くような視線で見つめてきた。それに押し負ける事がないように気合いを入れて、自分なりに出した答えを丁寧に告げていくこうと試みる。
「単純に好きか嫌いかで言うのならば、私も雪人さんが好きです。そして、好きの種類も、貴方と同じ種類の……恋愛的な意味での『好き』です」
そこまで告げて一旦言葉を切り、雪人さんの様子を伺った。彼は嬉しそうに、頬を染めてはにかんでいる。
「それなら、さ」
「でも、付き合うとか恋人とかは、正直まだ考えられません」
はっきりと言い切ったら、雪人さんの顔から表情が無くなった。あれだけ赤かった顔色も、今は青く感じられる程だ。
「それは、どうして?」
「……私が、まだ高校生だから」
当たらずとも遠からず、そんな理由を口にした。私は、ようやく今日で人生満十六年を迎えた人間だ。その程度の人生の積み重ねで、父さんが会うなと言っていた人物に、明らかに私の認識と齟齬があるような事実を滲ませている人物に、ついて行っていいのか判断するのは早計だと思うから。だから、雪人さん自身の事をもっと沢山知って、父さんが反対する理由も知った上で、感情に従うのか理性に従うのかを判断出来るように、時間が欲しい。
「……そっか」
高校生だからとしか言わなかったから、もっと説明を求められるかと思ったけれど。予想に反して、雪人さんは納得してくれたようだ。能面のようだった表情が幾分か和らいで、普段に近い優しい表情に戻っている。
「良いよ。春妃の気が進まないのに、無理強いするのは気が引けるし」
「ありがとうございます……重ね重ね、すみません」
宙ぶらりんな状況にしてしまっているのは自覚しているので、謝罪の言葉も併せて告げる。すると、雪人さんがこちらに近づいてきた。
「気にしないで。十年待ってたんだ。今更数年追加したって俺の気持ちは変わらない」
「それは、どういう……っ!?」
触れられる距離まで近づいていた雪人さんがポケットから何かを取り出したのと、ぐらりと視界が歪んだのはほぼ同時だった。続けようとしていた言葉は音にならずに消えていき、瞼が重くなっていく。
「……可愛い春妃。もう少しだけ、付き合ってね」
ほとんど失いかけた意識の中で、彼の声だけが響いていた。
***
「……ここは?」
まだぐらぐらする頭を押さえつつ、よっこらしょと体を起こす。ばさりと落ちていった物を確認したが、タオルケットのようだ。
「気が付いた?」
そんな言葉が聞こえてきて、弾かれる様に振り返った。視線の先にいた雪人さんは、マグカップとティーポットを持っている。
「手荒な事してごめんね。でも、必要な事だったから」
「……私を眠らせて、ここに連れて来る事が?」
「うん。ああ、ここは僕が一人暮らししてるアパートだから、春妃の家からさほど遠くはないよ。安心してもらっていい」
「そうですか、それじゃ」
今すぐ帰って謝れば、叱られるだけで済むかもしれない。そう思って腰を浮かせかけるのと、ティーポットたちを机の上に置いた雪人さんが口を開いたのは同時だった。
「……まぁ、帰せるのは明日になるけれど」
「明日!? それじゃ困ります!」
父さんとの約束の一つは『午後十六時に家に帰ってくる』だ。時計が見当たらないので正確な時間は分からないが、確認出来た窓の外はもう暗くなっている。雪人さんだって、約束の事は知っている筈なのに!
「私の荷物、どこですか? 埋め合わせはまた今度しますから!」
「そう言われてもね……ここまでして連れてきた子を、素直に帰すと思う?」
「……何が目的なんですか」
心の中に、嵐が吹き荒れる。まさか、まさか……好きだと言ってくれたのも、笑ってくれたのも、全部、この瞬間のためだったと言うのだろうか。私をここに閉じ込めて、身代金なり研究データなりを、要求するつもりだった?
「……春妃が忘れてしまった記憶を、取り戻してもらうため」
予想外の言葉が返ってきて、一瞬動きを止めてしまった。そんな私の隙を逃さずに、雪人さんは私を寝かせていたベッドの上に押し倒して私の上にのしかかる。見上げた彼の瞳から、じっとりと張り付くような気配を感じた。
「何を、私が忘れていると?」
「それは、じきに分かるさ……そのために、わざわざここに連れてきたんだ」
「何、それ!」
「何があっても、今日は家には帰さない。今日帰られたら、僕の悲願が叶わなくなるから」
「どういう、意味……」
零れ落ちた私の言葉に、雪人さんは何も言葉を返さなかった。ただただじっと見降ろしてくるばかりで、黙って私を見つめている。
出会って初めて、彼の事を恐ろしいと思った。