第三章 歯車が回りだした②

 

「むふー、美味しかった!」
「ご満足頂けたなら何より」
「春妃が選ぶお店はほぼ間違いなく美味しいから、今回も美味しいだろうとは思ってたんだけどね……想像以上だったわ」
「そう? グルメの夏葉に信頼してもらってるなんて光栄ね」
「春妃の味覚は信頼してるよ。あと、テストのヤマの的中精度も」
「何でそれなのよ!」
 食って掛かって肩を揺さぶると、夏葉の口から抗議の声が上がった。そんな言い方されたら、私は勉強を真面目にやっていない、みたいに思われてしまうじゃないか。
「雪人さん、違いますからね! 私、きちんとテスト範囲全てを勉強した上で、先生が授業中に強調してたとことか頻度とかで優先順位をつけて前日とかの総復習をしているだけで、決して勘でかいつまんで一部だけしかやってないとかじゃないですからね!」
「うん。そんなに必死になって弁解しようとするなんて、春妃は可愛いね」
「ひえっ」
「良かったじゃん、褒められたよ」
「夏葉ステイ!」
 ほとんど涙目で叫ぶと、二人分の笑い声が聞こえてきた。親友とも片想いしている相手とも一緒にいられるなんて、今年の誕生日は一石二鳥……とか考えていた今朝の自分を殴ってやりたい。
「腹ごしらえも終わりましたし、今日のメインに行きますよ!」
「はぁい」
「了解。水族館だったっけ」
「そうです。一か月前にリニューアルしたって聞いたから、行ってみたくて」
 昔から、水族館とか海とかの水に関わる場所が好きだった。きっと、水の気配がある場所では少しだけのんびりしても良いかと思えるからだろうと思う。それが何でなのかは、さっぱり分からないのだけど。
「水族館入ったらすぐに別行動する?」
「え……夏葉が良いなら、一周は一緒にしたい」
「……お誕生日様がそう言うなら仕方ないわね。さっきからだいぶ二人に当てられてるから自由になりたいんだけど、もうちょっと一緒にいるわ」
 じとっとした目を向けられたが、心当たりがなかったので首を捻った。別に、そんなにべたべたとくっついている訳ではないと思うのだが。そもそも、私たちは付き合っている恋人同士とかではない。
「付き合う前から無自覚にこれなんて。自覚して事実になったらどうなるのかしらね」
 辛うじて私に聞こえるくらいの声量で、夏葉がぼそりと囁いた。聞こえなかったらしい雪人さんは不思議そうな顔をしているが、聞こえた私の頬はカッと熱を持つ。きっと、見た目にも真っ赤になっているのだろう。
「夏葉ちゃん、どうかしたのかい?」
「二人は本当に仲が良いなと思いまして。付き合いは私の方が長い筈なのに」
「ふふ、嫉妬かな?」
「ご想像にお任せします……それじゃあ、入場しましょうか」
 行こうと言われて手を引かれたので、抵抗せずについていく。そんな私の後を、雪人さんが更についていく。
「……そうだね。一緒にいた期間、なら確かに君の方が長いんだろうけどさ」
「雪人さん、何かおっしゃいましたか?」
「何でもないよ。入場料はいくらだったっけ」
「高校生以上になるので二千三百五十円です」
 ゲート横のパネルを見ながら答えると、雪人さんはおもむろに財布の中を確認し始めた。うん、大丈夫だ、と聞こえるが……まさか。
「二人の分も俺が払うよ。すみません、大人三人で」
「あ、私は年パス持ってるので入場料いらないんです。ご自身の分と春妃の分だけお願い出来ますか? 私のパス特典があるから、二人とも二割引でいけますよ」
「ありがとう……じゃあ、大人二人でお願いします」
「かしこまりました。三千七百六十円でございます」
 夏葉の年パスを確認した受付のお姉さんが、にこにこ笑いながら料金を告げる。私に口を挟む隙を与える事無く雪人さんは支払いを済ませてしまったので、大人しくチケットを受け取った。
「食事代まで出して頂いたのに……こっちまですみません」
「春妃は今日誕生日なんだから、遠慮する事はないんだよ。俺はバイトとかで稼いでるし大丈夫」
「……でも! されっぱなしは嫌です! お土産は私が買いますから!」
 雪人さんに一歩近づいてそう宣言し、先に入っていた夏葉の元へと駆け寄る。少し遅れてゲートをくぐった雪人さんの顔は、さっきの私と負けず劣らずの色に染まっていた。

  ***

 薄暗い通路を通りながら、左右の水槽を眺めていく。さっきも同じように眺めていた筈なのに、まるで見え方が違う気がする。
「ねぇ、さっきは気づかなかったけど……水槽の奥にもう一匹いたんだね」
「えっあ……そうですね。擬態していたんでしょうか」
「擬態というか、元々砂に近い色みたいだ。似た色で動かなければ、気づき難いのも無理はないな」
「……詳しいんですね」
「何、横の説明文を読んでおいただけだよ」
 雪人さんは楽しそうに笑っているけれど、正直私はそれどころではなかった。好きな人と二人きり……なんて今にも心臓が口から飛び出てきそうだ、比喩でなく。
「それにしても、夏葉ちゃんが年パスを持っていたとは驚いた」
「あ、ああ……昔から、夏葉は生き物が好きだから。水族館だけじゃなくて、動物園のサポーターにもなってますよ」
「動物園のサポーター? そんな制度があるんだね」
「簡単に言えば寄付制度ですね。寄付者の特典として年パス渡してるみたいです」
「なるほど。動物の助けになれて自分も得して、ウィンウィンってやつか」
「ですね」
 つらつらと会話しながら、ゆっくりと進路を進んでいく。もう一度大水槽の前にやってきたが、相変わらずの迫力だ。
「春妃は?」
「私?」
「春妃は、生き物好き?」
「……好きか嫌いかの二択なら、好きになりますね。でも、夏葉ほどではないです」
 年パスは特に持っていないし、動物園も水族館も一人で行こうとは思わない。一人で行きたくなるのは、海とか湖とかだ。実際に一人で行けた事はないけれど。
「雪人さんはどうなんですか?」
「俺?」
「はい。雪人さんは、生き物……というか動物好きですか?」
「俺は植物の方が良いかな。広義的に言えば植物も生き物だけど」
「それもそうですね」
 周りに人がいなかったので、さっきよりも水槽に近づいた。大きなサメが目の前を横切っていったので、何とはなしに目で追っていく。
「……あのさ、春妃」
「はい、何でしょう」
「春妃はさ、植物の中では何が一番好き?」
「植物ですか?」
「うん。唐突で申し訳ないんだけどさ、答えてくれると嬉しいな」
「んん……そうですね、植物……」
 植物そのものは色々と脳裏に浮かぶが、好きとか嫌いとかっていう概念で考えた事はなかったのでなかなか決め手に欠ける。ああ、でも、そうだ、好きというか、思い出深くて印象的なのは……。
「桜ですかね」
 そう答えた瞬間、雪人さんが息を飲んだ音が聞こえてきた。どうしたんだろうと思って振り向いたけれど、水族館の館内は照明が絞られているので表情が分かりづらい。
「小さい頃に家族三人で部屋から花見してたからっていうのもあるんですけど……中学に上がった頃から、夢にもよく出てくるようになったんです」
「どんな、ゆめ?」
「……綺麗に咲き誇っている桜の木が一本あって、私はその桜の木を見ている場面から始まります。しばらくしたら強い風が吹いて桜の花びらが舞って……私よりも年上だろうと思われる、青年が現れるんです」
「……その青年は、何を言ってる?」
「何も。じっと私の方を見てくるけど、会話らしい会話はなくて。だけど、もう、何度も何度も夢に出てくるから、どんな人なんだろうとは思って……こっちから話しかけようとするんですけど、いつも桜吹雪の中に消えていってしまって、目が覚めるんです」
 こんな夢の話をされても迷惑だったかな、とは言い終わってから気づいたけれど。でも、話題を振ってきたのは雪人さんだし追加で質問もされたくらいだから、問題はないだろう。
「……その人さ、見た目とか、どんな風?」
 そう聞かれて、うっと言葉に詰まった。馬鹿正直に雪人さんに似ている、と答えるのも気恥ずかしいけれど、嘘をついたりはぐらかしたりして逃げるのは許さない、と言わんばかりの気迫が彼の顔には浮かんでいた。
「雪人さんに似てるんです。少し外に跳ねた茶色がかった黒髪で、夜空のみたいな深い色の目をしてるから」
 恥ずかしいのを必死に堪えて、正直にそう告げた。と、その瞬間、雪人さんがいきなり私の腕を掴んできた。
「……ひゃあ!?」
 気が付いた時には、彼の腕の中に囲われていた。初めて会った時みたいに強く強く抱き締められて、全身が沸騰してしまったみたいになる。
「好きだよ」
 耳元に吹き込まれた言葉は、いつになく震えていた。まだ好きでいてくれたのだという喜びが、血液に乗って駆け巡る。
「春妃の事が、ずっと好きだよ。ずっと、ずっと……忘れられなくて、好きは募るばかりで、ずっと……」
 しかし、続いた言葉のせいで頭の片隅がすっと冷えた。私と彼は、まだ出会って一か月も経っていない。だけど、その言い方だと……まるで、彼は、何年も前から私を知っていると言っているかのようだ。
「あ、の……雪人さん」
「ごめん、嫌じゃなかったら、しばらくこうさせて」
「嫌ではないんですけど……ええと……」
「お願い、春妃」
 そう言われてしまっては、断り切れない。いつ人がくるかも分からないような場所でとは思ったが、水を差すのも悪い気がするし。
(……さっきの疑問は、帰りにでも確認してみよう)
 ひとまずはそう考えて自分の心に折り合いをつけ、しがみついてくる彼の背をずっと撫でていた。