第四章 それはどちらも、愛ゆえに②

 

(母さんは事故死じゃなかった。忘れていたのは、父さんのせいだった)
 告げられた事実に眩暈がしてくる。今の今までずっと信じてきた事が真実ではなかった、真実と思っていた事がまやかしだった……こつこつと培ってきたものが崩れ落ちる瞬間というのは、こんな感じなのだろうか。
「事……事故死じゃないなら、私の母さんは、どうして」
「……ごめん、俺も両親から聞いた概要しか知らないんだ。確かに、事故と言えなくもないと思うし衝動的なものだったんだろうけど、それでも、罪は罪だ」
 そこで一旦言葉を切った雪人さんは、もう一度私の体を抱え直した。体に直に触れる体温を以てしても、逸る鼓動と凍り付くような恐怖は収まらなかったけれど。
「……母さんは、何かの事件に巻き込まれたという事ですか?」
「そうなるね。春妃のお母さんは……」
「母さんは?」
「……春妃を誘拐しようとした犯人によって殺されたと、聞いているよ」
 聞こえてきた甲高い叫び声は、自分の口から発せられたものだった。雪人さんが抱き締める腕の強さを強めてくれたけど、溢れる嗚咽は止まらない。
「そんな……そんな! それなら、母さんは、わた、わたしの、せいで」
「違う。それは、断じて違う」
「だけど、かあさんは、とうさんは、いつだって私に周りに気を付けるようにって言ってた。それを、わたしは、やぶったんじゃないの? だから」
「違うよ。研究所の庭の中で遊んでいた春妃を、犯人が正面から押し入って連れて行こうとしたらしいんだ。それで、春妃の悲鳴に気づいたお母さんが駆け付けて、娘を返してって言って犯人に縋り付いた瞬間渾身の力で突き飛ばされたって」
「それなら、わたしが悲鳴を上げたせいだ!」
「違う! 春妃のお母さんは、ご自身の額を切っても、青あざが出来ても、それでも返せって言って揉み合いになって犯人の顔をはっきり見たからだ! だから、犯人は春妃を置いて逃げようとした際に、警察への通報や逮捕を恐れて、春妃のお母さんを」
「いっ……いやあああああああ!」
 それ以上聞いていられなくて、今度は自分の意志で叫び声を上げた。もうやめて、言わないで、ごめんなさい、母さん、どうして……脈絡のない言葉が、浮かんだ端から消えて、消えた端から浮かんでいく。
「春妃! そこにいるのか!?」
 混乱を極めていた頭の中に、聞き慣れた声が響き渡った。どうして、ここに来られたのだろうか。分からないけれど、でも、少しだけ言葉の海に溺れそうになっていたのから意識が救い上げられる。
「父さん!? どうしてここが!?」
「説明は後だ! 今助けるから!」
「……させるか!」
 唸るように叫んだ雪人さんが、私を離して布団の中から出て行ってしまった。ぽっかり空いた空間が寂しくて、一人は心細くて、彼を追いかけるため私も布団の中から抜け出して彼の元へ行こうとする。
「っ!?」
 薄暗くて温かい布団の中から出て蛍光灯の光を浴びた瞬間、脳裏でちかちかと何かが瞬いた。一瞬の内にたくさんの映像が流れ込んできて、目の前が回るような感覚に立っていられなくなる。
 遠くの方で、大きな物音がした。ばたばたと走る足音が、たくさん聞こえてくる。
「春妃、もう大丈夫だ! さあ、これを」
「だめだ! 飲んじゃいけない! もう飲まなくても大丈夫だ!」
「お前は春妃を苦しめたいのか!? 身勝手な欲望に、この子を巻き込むな!」
「あんたに何が分かる! 俺が、どんな、どんな思いで、この十年を過ごしてきたと!」
 二人が争う声が、だんだん遠くなっていった。頭の中に溢れる大量の情報が、私の自我をゆっくりと眠らせていく。キャパシティオーバー。これ以上は、もう、今の私には処理しきれない。
「思い出してくれ!」
 薄れゆく意識の中で、彼の叫びだけがくっきりと鮮明に響いた。落ちかけていた意識が、少しだけ現実に引き戻される。
「思い出したせいで戻ってきた恐怖は、トラウマは、乗り越えられるように俺がずっと一緒にいるから!」
 ずっと一緒にいてくれるの? 私は、あなたの事を、欠片も覚えていなかった大罪人なのに?
「だから、もう一度、僕の事を……僕が好きだったって、お互い好きだったって、僕らは両想いの恋人同士だったって思い出してくれ!」
 愛する人の絶叫がこだました。愛するあなたが、こんなにも悲痛な様子で願いを叫んでいる。ああ、そうだ……あの時もあなたは泣いていたから。だから、励ましたくて、笑ってほしくて、縁が途切れないように、紙に想いを綴って贈り合おうと、やくそくした。
 そんな約束を思い出した瞬間、ぱしんと軽快な音が鳴り響いて、すべてすべてが戻ってきた。初めて会った時の緊張したような彼の面持ちも、自分よりも年下の女の子の相手をどうすればいいのかと戸惑っていたような顔も、笑って見せたら笑い返してくれた初めての笑顔も、この人のそばにいたいと強く強く願ったことも。
「……ゆきひとさん」
 これだけは、あなたに伝えたくて。必死に声を絞り出して、心と記憶をずっと大事に持っていてくれていたあなたの名前を呼んだ。
「春妃?」
「ゆきひとさん、どこ?」
「ここにいるよ」
 霞んでいる視界の中に貴方を探す。ぼんやりとした影しか分からなかったけれど、私の手を握ってくれている温かさは、間違いなく彼のものだ。
「ゆきひとさん」
 そっと彼の手を解いて、彼の顔に触れた。少しだけ熱くなった頬をこちらにぐっと引き寄せて、その中心辺りに唇で触れる。
「え、あ、春妃!?」
「……ずっと忘れていて、ごめんなさい」
 視界に鮮やかな赤が映ったのと意識の限界が来たのは、同時だった。

  ***

『ほら春妃。雪人くんにちゃんとご挨拶しなさい』
『こ……こんにちは……』
 そう父さんの陰から呟くと、目の前の少年の表情が少しだけ和らいだのでほっと胸を撫で下ろした。もっと年上の大人と話すのには慣れていたけれど、それ以外の人には慣れていなかったから緊張していたのだ。最も、向こうも幼稚園児と話す機会はなかなかなかったらしいので、同じように緊張していたらしいが。
『え、えっと……何して遊ぶ? 絵本でも読む?』
 困ったような表情でそう申し出てくれた彼に、私は絵本の朗読をお願いしたんだったと思う。あの頃から、雪人さんの声は好きだった。
『面白かった?』
『うん!』
 慣れてない感は否めなかったけど、それでも雪人さんの読み聞かせを聞くのは楽しいものだった。だから、その気持ちをそのまま伝えたんだったと記憶している。
『それなら、良かった』
 そう返事をしてくれた彼も、つられた様に笑ってくれた。彼の笑顔が見られたのが嬉しくて、もっと喜ばせたくて……以降も、雪人さんが遊びに来る度にずっと後をついて回った。彼がご両親と一緒に引っ越さないといけないと知った時はわんわん泣いて困らせたけど、これで父さんや母さんともっと一緒に居られるといって嬉しそうだった雪人さんを困らせるのだけは嫌で、一生懸命強がりながら彼を励まし想いを告げ、手紙のやりとりをしようと約束した。
『あなただれ? 父さんにご用があるの?』
 その日は、雪人さんが研究所に遊びにくるのがいつもの時間よりも遅くなると聞いていた。だから、待ちわびた私は庭で待ちたいと言って、正門から外に出ない事を約束に許してもらった。そこで、買ってもらったスケッチブックにクレヨンで絵を描いていたら……見慣れない大人が、するりと庭に入ってきたのだ。
 私が普通の子供だったなら、きっと、見知らぬ大人を怖がって部屋に駆け込んで声なんか掛けなかったと思う。だけど、幼稚園にいる時間以外は常に大人に囲まれていた私にとって……大人は見慣れた存在で、怖い存在では無かったのだ。だから、見た事がない人だけど父さんの知り合いかもと思って、話しかけてしまった。
『いやだ! こわい! たすけて!』
 侵入者は、私の問いには答えずいきなり近寄ってきて私を抱え上げた。いきなり視界が高くなって、無言のその人が怖くなって……暴れながら必死に叫んだ。
『私の娘に何をしているの!』
 私の悲鳴を聞きつけて、エプロン姿の母さんが駆け寄ってきた。これでもう大丈夫と思った私は、必死に母さんの方へと手を伸ばした。
 あともう少し。そう思った矢先、いきなり母さんがバランスを崩して地面に倒れこんだ。私を抱えたままだった誘拐犯が、母さんに足払いを掛けたのだ。
 だけど、母さんは諦めなかった。咄嗟に犯人の足を掴んで、両腕で拘束した。動けなくなった犯人は母さんを振り払おうとして、何度も、何度も母さんを蹴り飛ばそうとしていた。
『春妃を離しなさい!』
 額から血が流れてきても、頬が腫れあがっても、母さんの瞳は光を失わなかった。あの細い体のどこにそんな力があったのだろうと思うけれど、数キロ十数キロの自分の子を抱っこしたりおんぶしたりする必要があるのだから、世の母親とはそういうものなのかもしれない。
 そんな風に庭が騒がしくなったので、研究所の中からも人が何人か出てきた。窓にも人影が見えてきて、焦ったらしい犯人は、そこでようやく私を放り投げるようにして地面に落とした。したたかに体を打ち付けてすごく痛かったのだけど、解放された安心感の方が何十倍も大きかったので、それで泣いた覚えがある。
 だけど、正義感が強かった母さんは犯人を逃がす気はなかったのだろう。横目で私の無事を確認した後も、犯人を離さなかった。逃げようと必死な犯人の足を力任せに引きずって、庭の草木の上に引き倒した。
「……あなたは」
 地面に転がった犯人の覆面は半分くらい外れていたから、私よりも近い位置にいた母さんには顔がはっきり見えたのだろう。あなたは、確か。犯人を見ながら、母さんは間違いなくそう言った。そして、そう言って動きを止めた瞬間……犯人の蹴りをもろに食らって、文字通り母さんの体が宙に飛んだ。
「秋姫! 春妃!」
「お父さん! お母さんが!」
「秋姫、しっかりしろ!」
「お母さん……おかあさん!!」
 自分の服が血で汚れるのも構わず、母さんに縋りついた。まだ息のあった母さんは、うっすらと目を開けて私を視界に入れる。
「……はるひ」
 唇が微かに動いて、私の名前が紡がれた。そして、母さんは……安心したように微笑んで、そのまま目を閉じた。
「……おかあさん!!」
 必死に、必死に呼び掛けたけれど。母さんが目を開けてくれる事は、二度と無かった。