第四章 それはどちらも、愛ゆえに③

 

「……ん」
 ぼんやりとしていた意識が浮上してきたので、ゆっくりと目を開けた。天井が見慣れたものなので、どうやら私は自分の部屋にいるようだ。
 寝息が聞こえてきたので、そちらの方へと目を向ける。そこにいたのは、ベッドの淵に俯せて眠っている雪人さんだった。左手が温かいと思ったのは、彼に握られていたかららしい。
 出来ればそのままでいたかったけれど、起き上がりたかったので注意しながらベッドを抜け出した。椅子に掛けていたブランケットを彼の肩に掛けてから、音を立てないようにして部屋を抜け出す。
「……もう体は大丈夫なのか?」
 台所で水を飲んでいると、後ろから父さんに声を掛けられた。昨日見た時と同じ格好をしているので、寝ていないのかもしれない。
「うん」
「頭痛がするとか、気分が悪いとかは」
「ないわよ。関節が少し痛いくらい……今って何時?」
「朝の五時だ」
「じゃあ、もう次の日になったのね」
「そうだな」
 父さんの声が、いつになく沈んでいるように聞こえた。疲れているのか、落ち込んでいるのかは定かではないが。
「……秋姫の事は」
「思い出したわ。雪人さんの記憶と一緒に」
「あの、瞬間は」
「全部。全部、思い出した」
 彼と会って惹かれ合い、お互い好きだと言い合って約束をした事も。身を挺して私を守って、微笑みながら息を引き取った母さんの事も。全部、ぜんぶ。
「聞きたい事があるの。今大丈夫?」
「問題ない。何だ?」
「結局、あの誘拐犯は知り合いだったの?」
「……以前に共同研究を持ち掛けてきた研究所の所員の一人だった。挨拶に来た面子の中にいてな……だから秋姫とも面識があった」
「持ち掛けてきたって事は、共同研究そのものはしなかった?」
「ああ。あまり良い噂を聞かない研究所だったから断ったんだが、それを根に持っていたらしい。そこで、脅迫の材料にする為に、お前を誘拐しようとしたんだそうだ」
「とんだ研究所ね……あの犯人が計画も?」
「いや、彼は実行犯という位置づけだな。年老いた両親を人質にされて、経営陣に命令されたらしい」
「……最低」
「今思えば、彼も被害者だったのかもな。当時は、彼も含めて全てが憎い、全て殺してやると復讐心に満ちていたが」
「……」
 その全てに、どこまで入っていたのだろう。そんな事をふっと思ったが、聞くのが怖くて止めておいた。当時がどうあれ、今の父さんはちゃんと私を大事にしてくれている。
「その人、ちゃんと生きてるよね?」
「生きてるよ。諸々の事情を汲んで懲役十五年の実刑判決になったが、真面目に服役していたから今は仮出所してご両親の面倒をみているらしい」
「経営陣は?」
「当時求刑し得る最大の刑を求めたら、それが認められた。研究所も解体になって社会的な制裁も加えられたのは不幸中の幸いだったな。決定打は実行犯の彼の証言だったから、そこにだけは感謝している」
「よく証言してくれたわね、その人。報復とか怖くなかったのかしら」
「警察がご両親の身の安全は自分たちが保証すると約束してくれたそうだ。当のご両親にもきちんと真実を話せと説得されたらしくて、決心したようだな」
「……そう」
 だからと言って、経営陣は勿論実行犯も到底許せるものではないけれど。でも、末端だけでなくて親玉もきちんと裁かれたのならば、少しは母さんも浮かばれるだろう。
「あと一つ……父さんは、私に何をしたの?」
「何をした、とは?」
「雪人さんが言っていたの。私が母さんの死の真相と雪人さんと一緒にいた記憶を全部無くしていたのは、父さんの仕業だって」
「ああ、成程……そうだな、雪人くんならそう形容するだろうな。あの年頃の子が、好きな相手が自分を忘れるかもしれないと言われて納得出来る筈がない」
「……一体何を」
「当時開発を進めていた薬を春妃に飲ませたんだ。トラウマとなり得る記憶を忘れさせる薬効を持った、記憶消去とか阻害に近い薬だ」
 記憶阻害薬。副作用でそういう効果を発揮した薬があるとか、研究は今も進められているとかって話を聞いた事はあるが、うちでも研究をやっていたのか。
「その薬、今はもう実用化されてるの?」
「いや……研究は中止した。データは残してあるが、簡単には見られないようになってる」
「それはどうして?」
「阻害される記憶の範囲が予想よりも大きくてその後の患者の生活に影響が大きかった事と、半減期が長すぎて継続服薬における管理が難しい事、実用化した場合に懸念される事象が多い割にメリットが少なさそうだと判断した事が理由だな」
「……なるほどね」
「確かに、過去のトラウマのせいで日常生活がままならない人にとっては夢のような薬だろう。だけど『忘れる』という事を簡単に考えて安易に使われてしまえば、犯罪を助長させるうえ人間の人格形成や成熟に悪影響を及ぼす」
「そうね。試験に落ちた、失恋した、喧嘩した、悪口を言われた……その度に忘れたいといって繰り返し使ってしまえば、精神部分はもちろん健康被害も招きかねない」
「その通りだ。勿論、そのせいで脅迫を受けたり命を脅かされたたりと怖い思いをしたとか、自殺を考えたとか、そこまでいけば服薬検討の余地はあるだろうが……特に、前者なら医者に行くより警察に行ったほうがいい」
「……まぁね」
 そう単純な話ではないだろうし実にさまざまな意見があるだろうが、言わんとしている事は理解出来る。製薬会社の娘がこう言っていいのかは謎だが、薬なんて飲まなくていいなら飲まない方がいいのだ。
「そんな意見を持つ父さんでも、その薬を飲ませた方が良いと判断したくらいに私の状態は酷かった?」
「……寝てもすぐに起きて泣いてしまう、食事をまともに食べない、少しでも秋姫を連想させるものを見たらお母さんお母さんと言って疲れて眠るまで泣き続ける……世話をする周りの大人の疲労度もすごかったし、当の春妃がどんどんやつれていった」
「……」
「唯でさえ秋姫を失って絶望していたのに、このまま春妃まで死んでしまうのではないかと思うと、本当に恐ろしくて堪らなかった。だから、これが最良の選択だと、これ以上春妃を苦しめてはいけないと、この苦しみから春妃を解放するのが父親である俺の役目だと……自分を正当化して、薬を飲ませた」
「……そう」
「そう考えると、俺もあいつらと変わらなかったのかもな。苦しむ娘を見たくなかったという理由で服薬させたんだから。そのせいで、本来何の責も負うべきでなかった雪人くんを十年間苦しめた」
 理屈としてはそうなるのかもしれないし、その決定が彼を傷つけてその後の人生に影響を及ぼしたのは事実だろう。けれど、そもそも娘への愛情がなければ、苦しんでいるのを見るのが辛いとは思わないのではないだろうか。
 だから、父さんが服薬という選択肢を取ったからと言って、それが百パーセント父さんのエゴとは思わない。その選択には、確かに、私という娘に対する愛情があったと思う。
「……そうね、彼には謝らないといけないわよね。雪人さんが昨日私にやった事だって褒められる事じゃないけれど、それでも、そこまで思い詰めさせてしまったのは私たちのせいだわ」
「私たち? 春妃は悪くないだろう」
「無関係ではないもの」
 私がもっと見知らぬ大人を警戒していたら。声なんてかけずに室内に逃げていたら。解放された時に母さんの傍に駆け寄っていたら。そうしていたならば、もしかしたら……母さんは今も生きていたかもしれないのだ。そうすれば、私が薬を飲む必要はなかったし、雪人さんを苦しめる事もなかった。全て忘れて一人だけのうのうと生きていた私が、一番の罪人なのかもしれない。
「……そうだな。それじゃあ、彼が起きたら一緒に謝ろう」
「うん」
「ああ、そうだ……先に渡しておきたいものがあるから、ちょっとついて来てくれ」
「何?」
「見てからのお楽しみだ。今の春妃になら……もう渡しても大丈夫だろうから」
 そう言った父さんが歩き始めたので、大人しく後をついていく。ついたのは、父さんの寝室だった。