第四章 それはどちらも、愛ゆえに④

 

 ちょっと待ってろと言われたので待っていると、机の上の母さんと目が合った。前に見た写真とは別のやつだ。時折、明らかに視線がカメラの方を向いていない写真を見かける事があるが、今回の写真はにっこりと微笑んでこちらを向いている。
「あった、これだ」
「何それ。缶の入れ物?」
「中身を取ったら入れ物は返してくれ。入れ物の方は、秋姫が初めて俺にくれたお土産のクッキーが入っていた缶なんだ」
「……物持ち良いのね」
 そう言うだけに留めて、かぱっと蓋を外す。中に入っていたのは、大量の封筒だった。
「手紙?」
「ああ。宛先と送り主を確認してみろ」
「宛先はうちの住所よね。一之宮春妃さまへって書いてあるから、これ全部私宛て……え!?」
 封筒の裏に書いてある差出人を確認して、驚きで声を上げた。相沢雪人……間違いない、雪人さんだ。
「まさか、これ、全部雪人さんから?」
「そうだ。この十年毎月届いていたから、ざっと見積もっても百は超えるな」
「毎月欠かさず?」
「大体月末だったな……そら、一番上に乗っているのが先月届いたばかりの最新版だ」
「この住所、雪人さんが今住んでる場所ね。だから父さんはあの場に来られたの?」
「その通りだ。その手紙の住所を頼りに、あの場所へ行った。春妃に例の薬を飲ませたのは丁度六歳の誕生日だったから……雪人くんが何か行動を起こすならば、追加の薬を飲ませる必要のあるあの日だろうと予測していたんだ」
「以前雪人さんに近づくなと言っていたのも、それで?」
「ああ。彼に会って会話したり、一緒にいたりする事で……春妃が過去を思い出すかもしれないという危惧があったから。追加服用も邪魔されるだろうと思ったし」
「そういう事だったのね」
 確かに、こんなにまめに手紙を送ってくれていたくらいなら、父さんが個別に警戒していてもおかしくない。いっそ執着と言えるくらいの強い想いを、彼は、忘れる事なく持ち続けてくれていたのだ。
(……それが嬉しいなんて思うんだから、もう私も同類なのね)
 小さい頃に出会って、初めての恋をした。その全てを忘れてもなお、もう一度彼に惹かれて二回目の恋をした。この想いを運命と言わずして、何を運命と言えようか。
「ありがとう、父さん」
「礼には及ばない。その言葉は、ずっと忘れずに手紙を春妃へ送り続けてくれた雪人くんに言ってやれ」
「それはもちろんだけど。父さんだって、この手紙を捨てずにずっと取っておいてくれたんだもの。その事にはきちんとお礼を言いたいわ」
「……見せたら思い出すきっかけになるかもしれないと思ったら、とても渡すなんて事は出来なかったけどな。でも、この手紙は……間違いなく、春妃への愛から生まれたものだ。こんなにも自分の娘を愛してくれていると分かるこの手紙を、捨てる事なんて出来なかった」
 はは、と力なく笑う父さんへ、もう一度向き直る。父さんと母さんの思い出の缶を返しながら、じっとその瞳を見つめた。
「この手紙を捨てないでいてくれた。それだけで、父さんは自分勝手なんかじゃない娘想いの父親だって証明になると思うわよ」
「……春妃」
「間違いなく、ずっと愛してくれてありがとう。父さんと母さんから貰った愛に恥じないような人間になるから、これからも宜しくね」
 普段だったら、照れくさ過ぎて絶対に言えないけれど。でも、今言わなければ絶対に後悔すると思ったから。愛をくれた貴方へ、ありったけの感謝を込めて。
「……もしかしたらもう雪人さん起きてるかもしれないし様子見てくる。それじゃ、手紙もらっていくわね」
「ああ、分かった……一つ言っておくが」
「何?」
「春妃と雪人くんの交際を反対する気はないが、春妃が大学を卒業するまでは節度ある行為しか認めないからな」
「……は!? それ今言う!?」
「気持ちが盛り上がっている時が一番危ないからな。その辺はきちんと弁えるように」
「分かったわよ、もう!」
 せっかくの余韻が盛大にぶち壊しだ。がっかりというかがっくりというか、そんな気分になってしまったけれど……まぁ確かに一理はある。
「節度は弁えますから、邪魔しないでよ!」
 そんな憎まれ口だけを叩いて、手紙を抱き締めたまま部屋を出る。父さんの口元が何かを呟くように動いていたが、ついぞ聞こえる事はなかった。

  ***

(……まだ寝てるみたいね)
 雪人さんの様子を確認した後で、一旦自分の机へと向かう。たくさんの想いの結晶たちを一纏めに置いて、腕の中を空にした。
 改めて彼に近づき、その隣に腰を下ろす。じいっと寝顔を見つめてみたが起きる気配がなかったので、彼の肩に掛けたブランケットを少しだけ捲って入り込んだ。ぴったりとくっついて、嬉しいような恥ずかしいような、でもほっとしたような……そんな様々な気持ちになる。
「……ん?」
「雪人さん」
「ん……えっ、春妃?」
「はい」
「えっ、あ……ええと、その」
「何ですか?」
「……その、起きて大丈夫?」
「はい。さっきまでぐっすり寝ていたので」
「そうか……」
 ぱちぱちと目を瞬かせている様子が可愛らしい。声が少しだけ舌足らずなのは、寝起きだからだろうか。
「雪人さんはまだ眠いです?」
「いや……何というか……状況に追いつけてない……春妃と同じブランケットに入ってるとか幻覚を見てるのかな……」
「私が貴方を好きなのは、記憶が戻ってない時から知ってたでしょう?」
「それはそうだけど……でも……俺は」
 彼が動いたので、ブランケットが捲れて私の体が外に出てしまった。寒かったので更に雪人さんにくっついたら、言葉になっていない声が漏れてくる。
「……怒ったりとか、怖かったりとか、そういうのはないの?」
「貴方に対して?」
「うん。だった、俺は、春妃を眠らせて勝手に自分の部屋に連れて行ったし、その……怖い思いや苦しい思いをさせたでしょ」
「……やり方は手荒だったと思いますけど、怒りとか恐怖とか、裏切られたとか、そういうのは思ってないです」
「そ、そうなの?」
「どっちもどっちだったと思うから」
 彼がそんな行動に出たのは、私があの日々を忘れてしまったから。忘れてしまったのは、忘れるような薬を飲んだから。そもそもの原因を考えれば、彼一人を責められる訳がない。
「いや……春妃は何も悪くないよ」
「無関係ではありませんから」
「そりゃ無関係ではないけど……」
「だからお互い様なの。そう思う事で両成敗、お互い反省して解決ってするのが一番平和的だと思いますけど」
 敢えて感情を乗せずに、淡々と告げていく。今回の出来事で、誰が悪いとか誰が被害者だとか、そういうのを考えるのは不毛だろうと思う。誰だって被害者で、誰だって加害者だったのだ。確実に言えるのは、諸悪の根源は例の研究所の経営陣という事くらいだろう。
「春妃は凄いね」
「そうですか?」
「凄いよ。普通、そんな簡単に割り切れるものじゃないでしょ」
「……だって、あんなものを貰っちゃ絆されるに決まってるわ」
 思い出すだけで頬が熱くなってきたので、彼の肩へと額を押し付ける。不思議そうな声で何をあげたっけって言っている雪人さんに、机の上の方を見るよう言って場所を指さした。
「十年間、ずっと。毎月送って下さってたんでしょう?」
「……え!? 嘘!? 取ってあったの!?」
「毎月月末に来てたからって言って、父さんが母さんから貰ったっていう缶の中に保管してくれてたみたいです。あの日父さんが雪人さんのアパートに来られたのも、あの手紙の住所を辿ったからって言ってました」
「ちょっと待って……ええ、捨てられてると思ってたのに」
「……そう思ってたのに、毎月送って下さったの?」
「うん……万一億一、捨てられる前に春妃が受け取ってくれていたら、状況が変わるかもしれないって思ったから」
「ふぅん……」
 そんな博打みたいな事を思って、彼はずっと送り続けてくれていたのか。毎月となると相当な負担だったと思うのに、それでも、そんな一縷の望みを掛けて、ずっと私の事を考えて手紙を……。
「……んふふ」
「あのさ、もう再会出来たからあれ全部回収して闇に葬って良い? 十年前のとか特に恥ずかしい通り越して黒歴史になりかねないんだけど」
「何馬鹿な事言ってるんです? もう私のものだから一通も返しませんよ。毎晩一通ずつ読むの……楽しみ」
 彼が立ち上がろうとする気配がしたので、がっしりと抱き着いて動きを封じた。今回ばかりは抵抗されたけれども、軍配はこちらに上がる。
「せめて俺のいないとこで読んでね……」
「はい」
「あの、それと、さ」
「何でしょう?」
「……もう俺たち恋人って事で良い?」
 しがみついていた私を抱き直して、額同士を合わせられながら。彼の甘やかな言葉が私の耳をくすぐっていく。
「一つだけ条件があります」
「何?」
「……もう、あんな無茶は二度としないで下さいね」
「勿論約束する。俺が無茶しないように、春妃も自分を大事にしてね」
「分かりました。無茶しなきゃならない時は連絡入れます」
「連絡すれば良いってものでもないよ!?」
「でも、テスト前とかは踏ん張り時だし」
「……ほどほどにね」
「はい。あと」
「今度は何かな」
 げんなりとしたような表情を浮かべている彼の手を、おもむろにぎゅっと握る。互い違いに指を組んで手を握ると、彼の方も握り返してくれた。
「……私の事、ずっと忘れずに愛してくれてありがとうございました」
 手を握ったまま、見下ろしてくる彼の瞳を見つめながらそう告げる。嬉しそうにはにかんでくれた雪人さんの顔が近づいてきたので、逆らう事無く瞳を閉じた。