「ねえ、さま」
未だかつて、姉さまを呼ぶのにここまで緊張した事はあっただろうか。
(……あったわね)
姉さまが集中治療室から出てきて、初めて呼び掛けた時。様々な不安に押し潰されそうになりながら、掠れた声で名前を呼んだ。
「フロー? どうしたの?」
「あの……今夜ね」
「今夜?」
「姉さまのお部屋に、行っても良い?」
幾度となく繰り返してきた筈の台詞を、つっかえつっかえ姉さまに告げる。聞き終えた姉さまのミントグリーンが、ぱちぱちと瞬いて大きく見開いた。
「ええ、勿論。美味しいお茶とお菓子を準備するから、久々に二人で過ごしましょう」
にっこりと笑って承諾してくれて、ほっと胸を撫で下した。いつも通り話してくれる姉さまの様子に、ゆっくりと緊張が解れていく。
「姉さまはお茶だけ準備してくれたら大丈夫よ」
「そうなの?」
「うん。あの……頂いたお菓子があって」
「頂いた? 誰に?」
「……ラリマール様」
彼の名前を告げると、ミントグリーンが楽し気に揺れた。思わず身構えてしまったけれど、姉さまは特に何を言うでもなく頷くばかりである。
「来るのは何時頃になりそう?」
「そうね……二十二時には」
「分かったわ。楽しみに待っているから」
久々に真正面から見た姉さまの笑顔は、変わらず優しいものだった。
***
「……姉さま」
「いらっしゃい。ベッドサイドにミニテーブルを用意したから、お菓子はそこに置いてくれる?」
「うん」
言われた通り、持参したクッキーをテーブルの上に置く。色とりどりのクッキーを見て目を輝かせている姉さまを横目に、ベッドの上へと腰かけた。
「見ているだけで楽しいわね。味も違うの?」
「確か……五種類あったはず」
「そんなにあるのね。研究って頭使いそうだし、糖分が必要になるものなのかしら」
「クッキーでどこまで糖分取れるかは疑問だけど……合間の待ち時間に、何かしら摘まむ事が多いとはおっしゃっていたわ」
返事をしつつ、隣にいる姉さまの方へ視線を向けた。前にお揃いで買ったナイトウェアに、初めて見る薄紫のヘアバンドを付けている。これも、例の婚約者であるオバール・ブロッサムから貰ったものなのだろうか。
「どうかした?」
「え?」
「私の頭、ずっと見てるから」
「ええと……あの、初めて見るヘアバンドだなって」
「ああ、これ? この前お会いした時にオバール様が下さったの」
姉さまの口から告げられたのは、予想通りの返答だった。嫉妬とも悲しみともつかない感情に支配されかけるが、囚われている場合ではないので首をぶんぶんと横に振って脳内から追い出す。
「もしかして、前につけてたヘアピンも彼から?」
「ううん。あれは、彼の弟のトルマン様から」
「じゃあ、姉さまが手当てしたのはトルマン様の方?」
「そう。兄弟でオープンキャンパスに来ていたみたい」
「ふーん……ん? ブロッサム家のトルマン様って、もしかして……前に話題になったあのブロッサム家のトルマン様?」
「ええ。あの、スキッパー制度のジーニアスクラス利用者のトルマン様よ。学年は私達と同じだけど、実年齢はまだ十二歳ね」
「……ものすごい天才じゃない」
教育に力を入れているこの国には、王立の学校に限られるが飛び級の制度がある。大別すると二種類あり、特定の科目のみ対象のスキップ制度、学年を対象としたスキッパー制度の二つだ。
そして、スキップ制度の方には学費免除無しのノーマルクラスと一部免除のスペシャルクラス、スキッパー制度の方には前述クラスに加えて全額免除のジーニアスクラスという区分がある。どちらの制度・どのクラスにも審査があり、合格すると欠格者とならない限り大学院まで制度を利用可能であるが……ジーニアスクラスは一番審査が厳しいので、実際の利用者は十年に一人いるかいないかだ。
「そうね。トルマン様とは何度かお話した事あるけど、あの方は間違いなく天才だと思うわ。専門分野は機械工学と言っていたから、あの日は工学部を見学したみたい」
「ふーん……」
相槌を打ちつつ、用意してもらっていた紅茶を一気に飲み干した。テーブルの上のクッキーは、半分くらいが無くなっている。
「……姉さま」
「何?」
「あのね、どうして……」
「どうして?」
「どうして……オバール様と結婚しようと思ったの?」
私に何も言わずに婚約者を選んだの、とは流石に聞けなかったので。聞いても変には思われないだろう問いの方を姉さまに投げ掛けた。こちらに向けられた二つのミントグリーンが、一瞬だけ見開かれた後でゆっくりと閉じていく。
「そうね……色々あるけど、一番は私に似ていると思ったから」
「姉さまと似ている? オバール様が?」
「ええ」
そこで言葉を切った姉さまは、カップを手に取り紅茶を飲み始めた。何となく落ち着かなくて、私の方はクッキーを口の中に放り込む。
「トルマン様は、兄であるオバール様の事を本当に慕っているの。天才故に周りの大人や同じ年頃の子供達から遠巻きにされがちだった自分を、弟として可愛がってくれて優しくしてくれたからって」
「ふうん……でも、自分を可愛がってくれる兄や姉を慕う気持ちは、弟妹ならば持ち得るものよね」
「それはそうね。でも、こうも繰り返してる。兄さんや父さん達は大学を卒業したら大学院や研究所に行けって言うけれど、僕はどちらも行くつもりなんてない。ブロッサム領に戻って兄さんを傍で支えられるように頑張るんだって」
「……それは、ちょっと勿体ない気がするわね」
「ね。だからオバール様、気持ちは嬉しいけれど、あれだけの才能を自領だけに留めておくのは勿体ない、しかしトルマンには引っ込み思案な所があるから新しいコミュニティに飛び込むよう無理強いするのもどうなのだろう……って悩んでいるんですって」
「なるほど」
確かに、それは悩むだろう。スキッパー制度をジーニアスクラスで利用出来る位の天才なのだ。大学を卒業した時点でもまだまだ十代後半、若いのだから、もっと専門的な場所で思う存分研究に打ち込んでほしいと思うのは当たり前だ。それでいて、本人の希望を無視するのもどうなのかと思う気持ちも、弟の事を思うならば当たり前の感情である。
「勿論、ブロッサム領に居たって研究したり最新の技術を学んだり、研究を活用していく事は出来るだろうけどやり易さは格段に違うじゃない。正解のない問題でもあるから、余計に悩ましいわよね。それで、話をしている内に……そんな風に思い悩んでいるオバール様は、何だか私に似ているなって思ったの」
その言葉を聞いた瞬間、どくんと心臓が跳ねた。ついさっき紅茶で喉を潤したばかりなのに、もう喉が干上がっている。頑なに大学院や研究室にはいかないと言っている弟を案じている兄が、姉さまは似ていると思った……つまり、それは。
「……それ、姉さまにとっては、妹、よね?」
「そうね。今私の横にいる、可愛い無二の妹」
あっさりと肯定されてしまい、私の喉から引き攣ったような音が出た。じわりと視界が滲んでいき、心なしか息も苦しくなってくる。それでも、確かめなくてはならないから。必死に声を絞り出して、体まで震わせながら問い掛けた。
「わたしが、今まで言ってた事は……ねえさまを、ずっとくるしめていたの?」
怖くて、怖くて、目を合わせる事は出来なかった。姉さまが口を開くまでの間、時間が無限のように感じられる。
「……苦しくなかったと言えば嘘になるわ。でも、それ以上に、もどかしかった」
そんな言葉と共に、体の半分がじんわりと温かくなった。姉さまに抱き締められたのだと分かって、ぼろぼろと涙が零れていく。
「とても正直に言うとね、私、結婚する気はそこまで無かったのよ」
私の耳元で、姉さまはぽつりと呟いた。どうしてと問いたい気持ちを何とか堪えて、姉さまに話の続きを促す。
「でも貴女は、私が結婚するなら姉さまの後って口癖の様に言っていた。結婚は幸せと同義ではないけれど、可能性の一つではある。だから、貴女に結婚の意思があるのなら、私の事は気にせず決めてほしい……本心からそう思っているのだけど、貴女、私が結婚しなかったら本当に結婚しなさそうで……たとえ、想う方が現れたとしても」
「……」
当たっているので何も反論出来なかった。私だって……ラリマール様とならばって思ったけれど。ラリマール様も望んで下さったし、もうずっと前から両親も賛成してくれていたけど。姉さまよりも後っていう事に拘って、その結論を彼に伝えるのを先延ばしにしていた。それが、彼に対して失礼な事だと分かっていながら。
「私だって、貴女が私に対して思ってくれているのと同じくらい、貴女に幸せになってほしいと思っているの。だけど、貴女が頑なに自分は後でいいと固辞しているのは、間違いなく……あの時助けた私のせいだって言うのも分かっていたから」
その言葉に、胸が抉られるような思いがした。私を助けてくれた事を外ならぬ姉さま自身に否定させるなんて、一番あってはならない事だ。
でも、させてしまった。そう言わせてしまった。私が……きちんと姉さまと話をしないでいたから。向き合おうとしなかったから。
「でも、あんな状況で貴女を助けないという選択肢がある訳なかった。貴女を見捨てていたら、きっと、もっと後悔していた。だけど、貴女の枷になりたい訳じゃなかったのに、フローの人生を縛るつもりなんてなかったのに、どうしたらって……ずっと……」
姉さまの声も震え出した。頬が濡れた感じがしたので、こちらからも腕を回して姉さまの肩を抱き締める。
「だから、オバール様の気持ちが分かると思ったの。オバール様も私の気持ちを分かって下さったの。同じような悩みを抱いて、同じように弟妹を大事に思っている彼となら、一緒に生きていけるのかもしれない、一緒に生きていきたいって思ったのよ」
彼は姉さまの理解者だった。私は、全く姉さまを理解していなかった……しようとしていなかった。そんな私に相談なんて出来る筈がない。頼られる訳なかったのだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ねえさま」
「フロー」
「私がちゃんと向き合わなかったから、話をしなかったから。疑いもせずに、そうする事で姉さまに報いる事が出来ると信じ切っていたから。だから、ここまで思いつめさせてしまった、大好きな姉さまを、ここまで苦しめてしまった」
「ううん。わたし、私だって、これ以上しつこくしたら喧嘩になるかもって、嫌われたらどうしようって思ったから。私だって逃げていたの。きっと、お互いさまだわ」
お互いにお互いへ縋りながら、泣きながら思いの丈を伝え合う。血を分け合った姉妹なんだから、ずっと仲良しでいたいと思うんだから、もっと早く姉さまの表情の意味を深く考えるべきだった。
「ごめんね、フロー」
「ううん。私の方こそ、ごめんなさい」
「ありがとうね、フロー」
「こっちだって! ありがとう、ありがとう、姉さま……!」
二人きりの部屋に、二人分の謝罪と感謝が響く。紅茶はすっかりと冷めていて、テーブルのクッキーはまだ半分残ったままだ。
そんな状況の中で、泣いて、泣いて、泣いた後で。泣き腫らした目のままで二人顔を見合わせて。二人で、ぐしゃぐしゃの顔のまま笑った。