最終話 私を待っていて下さって

 

 姉さまと無事に話が出来たので、お礼を言いたいという名目で彼をお茶に誘った。快く応じて下さったラリマール様を中庭へと通し、準備していたテーブルへと誘導する。
「そうですか。無事に仲直り出来たのならば何よりです」
 にこにことおっしゃるラリマール様へ、改めてお礼を告げた。彼の一押しがなかったならば、きっと私は決断出来ないままだったし……仮に、姉さまの方から話をしたいと言われても断ってしまっていただろう。
「仲直り……そうですね。喧嘩をしていた訳ではありませんけれど、私が勝手に色々気にして姉さまと距離を取っていたのは確かですし。如何に自分の視野が狭かったか思い知りました。反省しないといけません」
「一生懸命になればなるほど、人間の目に映る範囲や意識出来る範囲は狭くなるものですからね。研究をしていると、それをより痛感します。俺も反省の連続です」
「それではいけないのですか? 研究をするならば、一つの事を深く掘り下げるためにもその一点に集中する必要があるように感じられますが」
「間違いではないですが、それだと必ず行き詰ります。そうなった時に、もう少し大きな目線で対象を見られるようにならないと、解決の糸口が見つけられずに月単位、年単位で研究が止まる事すらあるんですよ」
「そうなのですね……浅慮で申し訳ありません。そうですね、統治の際も目先の利益ばかりではなく数年後数十年後を考えて決断しないといけない事が多々ありますから、それに似ていますかね」
「スケールがだいぶ違う気はしますが……根幹は似てなくもないかと」
 そんな会話をしながら、目の前の彼の様子を確認する。お礼代わりに作ってきたシフォンケーキは、既に半分以上無くなっていた。
「ケーキはお口に合いましたか?」
「はい。ふわふわでしっとりしていて美味しいです」
「良かったです。久々に作ったので、少しだけ心配していて」
「……え? 作った? 貴女が?」
「はい。お菓子作りは実験に似ていて好きなので、時折キッチンを借りて気分転換がてらやっているんです」
「……くそっ……知ってたらもっとゆっくり味わって……なんて勿体ない事を……」
「ラリマール様?」
「大変おいしゅうございますから大丈夫ですよ」
「そ、そうですか……」
 口調に違和感を覚えたが、再び頬張って下さったので嘘ではないのだろう。心なしか、咀嚼の速度が遅くなった気はするが。
「お菓子が作れる方って良いですよね。良い親になれると思います」
「そうですか?」
「はい。俺の母親もメイドと一緒に色々作ってくれていました。そんな母親を見て育ったからか、上兄さんも色々と焼き菓子を作っていましたし、下兄さんは軍の食堂でデザート作りの手伝いをする事があるらしいです。俺と弟達は食べる専門だから、取り合いしかしていませんが」
 なるほど、エスペランサ伯爵夫人はお菓子作りが好きなのか。思わぬ共通点を見つけられて、緊張がほんの少しだけ和らぐ。
「別に、それがお菓子である必要はないでしょうけれどね。うちの父親はその辺からっきしですけど、俺達に好きなだけ本を与えてくれましたし望むまま進学させてくれましたから、そのお陰で研究という道を見つける事が出来ました」
「……ラリマール様は、大学院を卒業されたらどうするおつもりですか?」
 勇気を出して切り込んだ。ばくばくと煩い心臓を宥めるべく、胸元に手を添える。
「俺ですか? そうですね、教授とか教員には興味ないので、どこかの研究機関に就職出来ればなぁと思っております。上兄さんに要請されれば、エスペランサ領の医療向上に貢献するのもやぶさかではないですが」
「では、王都に留まると決めた訳ではない、という事ですか?」
「状況次第です。就職した研究機関が郊外なら郊外に行きますし、王都ならば王都にいるつもりですし。ああ、でも……王都から出たら、そう簡単には貴女に会えなくなってしまうのか」
 いきなり話がこちらに飛んで、びくりと肩を震わせた。いや、しかし、まさに今は絶大なチャンスの筈。今こそ、ずっと、お待たせしていた返事が出来る。そのつもりでも呼んだのだし。
「……貴方が望んで下さるならば、王都でも郊外でも外国でも、私は会いに行きますよ」
 告げた瞬間、がちゃんと盛大な物音がした。シフォンケーキを口に運ぼうとしていたラリマール様が、フォークを皿の上に落としてしまったらしい。
「私にもやりたい事があります。医学科に進学して医師になり、現場を経験した上で、王族の一人として議会に働きかけ国内の医療の更なる発展を進めていく……そんな夢」
 目の前の彼の顔が、今までに見た事ないくらい赤くなっていた。きっと、今の私の顔も同じくらい赤いのだろう。
「だから、もしかしたら、すれ違いの生活になったり、何年も一緒に暮らせなくなったりする可能性もゼロではありません」
 震えそうになる体に力を籠め、必死に言葉を絞り出す。彼は願ってくれた、伝えてくれた、待っていてくれた。だから、ずっと先延ばしにしていたこの決意を貴方に。
「それでも、もしも、貴方が許して下さると言うのならば。貴方の気持ちが変わっていないのならば」
 これだけは、彼の瞳を見て伝えなければならない。逃げ出したくなるような恐怖に負けないよう、ぐっと拳を握り締めた。
「私は、貴方からの申し出を。婚約の申し出を、お受けしたいと思っています」

  ***

 自分を鼓舞しながら、視線を外さず返事を待った。彼の顔はすっかり耳まで真っ赤に染まり、両手が右往左往している。
「ええと、その、それ、王様や王妃様は」
「賛成しております。ラリマール様は伯爵家の出身ですし、王家独自で行った身辺調査の結果も問題ないから、と。一応、研究者というのは研究に没頭すると自分の体を顧みなくなる事があるから、そこだけ気を付けてあげるようにとは言われました」
「ひえ、あ、お気遣い、ありがとう、ございます。他の、方は」
「兄さまも姉さまもラリマール様なら良いと。弟妹達はいまいち分かっていなさそうでしたが、結婚式では大きいケーキが食べたいと言っていました」
「そ、う、ですか……他の貴族……とかは………」
「了承済みです」
 当初は、王家に取り入りたいらしい一部の貴族が反対していたが、両親と兄さま・姉さまが説き伏せて下さった。一応、私の事なのに申し訳ない、私も何か協力したいと申し出たのだけれども、こういう事は周りに任せるものだと全員に言われたので、それ以上は深入りしないでおいた。
「……貴女がお見合いした中には、俺よりも爵位が高い相手とか、社交的な相手とか、頭が良いとか運動神経が良い相手とかがいたんじゃないですか?」
「いましたね。でも、貴方以外の方とは、結婚したいとは思いませんでした」
「あまり……卑屈にはなりたくないですが、それでも……俺は客観的に見て特別見目が良い訳でもないですし、研究室に籠ってばかりだし、伯爵家出身の男はそれなりに数がいます。貴女に選んで頂けた事は、もう、本当に、天にも昇れるくらいの嬉しさなのですけども、それでも……どうして自分なんだろうと、格好悪くもおじけづく自分もおりまして」
 ラリマール様の瞳がテーブルの上へと向かう。互いの人生に関わる大事な決定だ。どうして自分だったのか、という理由が問いたくなるのは当たり前の事だろう。
「……私の姉さまに、派手な火傷の痕があるのはご存じですよね?」
「ええ、それは、はい」
「姉さまがその痕を負った理由は?」
「概要は……確か、幼少の事に避暑地で山火事にあったからだと」
「そうです。家族で避暑に行った別荘で、山火事にあって……燃えていた枝が私目掛けて落ちてきたのを、姉さまが庇って助けて下さった時に出来たものです」
 せわしなく動いていた彼の手が止まり、握られた状態でテーブルの上に置かれた。真剣さを帯びたブルーが、私へと向けられる。
「だから、ずっとこう考えていました。姉さまが火傷をしたのは私のせい、痕が残ったのは私のせい。そして、危険を顧みずに私を助けてくれた、強くて美しくて愛情深い姉さまこそが、誰よりも、何よりも、私よりも……優先的に幸せになるべきなんだ、と。それが結婚に結びついていたのは、きっと仲の良い両親を見て育ったからなのでしょう」
 今思えば、姉さまの気も知らないまま身勝手な考え方をしていたと思う。けれども、自責の念というのはそう簡単に変えられない……自分自身で、気づかなければ。
「それで報いる事が出来ると、本気で思っていたんです。だから自分の事を後回しにしていた。そうすれば、姉さまが私よりも先に幸せを掴んでくれれば……あの時の恩を返せるんだって。私の中では、それはとても当たり前の事で、そうだと信じて疑わなかった」
 彼は、黙って私の独白を聞いてくれていた。余計な口は挟まずに、けれどもタイミングよく頷いてくれるから、私は安心して続きを話そうと口を開いた。
「他の候補者は、その気持ちを崩せなかった。私の凝り固まった思考を、打ち砕くには至らなかった。言うなれば、それほど心が動く事がなかったんです。でも、貴方は、貴方だけは違った」
「……俺だけは」
「初めてだったんです。初めて、結婚するなら絶対に姉さまよりも後って思っていた、自分に誓っていたくらいのその決意が、揺らいでしまったんです。貴方が話している時の笑顔が好ましいと思ったから、一緒にいられるのが嬉しいと思うようになったから」
「そう、ですか」
「そうなんです。そのくらい、私は、貴方を」
「待って下さい! その先は俺が……ってわああああ!」
「ラリマール様!」
 勢いよく立ち上がったラリマール様が、盛大に足を滑らせて芝生の上に転げ落ちた。無事を確認するため、私も立ち上がって彼に駆け寄る。幸い、頭を打ったり怪我したりはしていないようだ。
「締まらないな……済みません、お恥ずかしい」
「気になさらないで下さい。あの、痛むところとかは」
「大丈夫ですよ」
 そう答えたラリマール様は、よいしょと上半身を起こした。肩の辺りについている草を払った後で、私の手首をぐっと掴んでくる。
「……俺は、フローライト様の事が好きです」
「は、い」
「改めて申し入れます。俺と結婚して下さい」
 手首を引かれて、彼との距離が近づいた。手から伝わる熱と鼓動が、まるで共鳴していくよう。
「わ、たし、も、ラリマール様が、好きなので」
「おわ……はい」
「その申し出を、お受けします」
 赤い顔を突き合わせながら、再びの申し出を今度こそ受諾した。ラリマール様の顔が、一瞬で屈託ない笑顔に変わる。
「やった! ありがとうございます!」
 今までに聞いた中で、一番嬉しさが滲む声で。私の事を抱きしめながら、彼はそう叫んでくれた。