(3)

 

「姉さま!」
「桐鈴? そんなに息を切らせてどうしたの?」
「今から地上に行ってくる! 姉さまの仙具いくつか貸して!」
「な、何を言っているの!? 明日は実技試験があるのよ。地上に行きたいなら、それが終わった後で私も一緒に」
「それじゃ間に合わないの! 今ならまだ間に合う! 弦次さまを助けられる!」
「どういう事? まずは深呼吸して、落ち着いて理由を説明して」
「ええと、あのね、さっき……」
 たった今湖で見た光景を、かいつまんで話す。弦次さまよりも青みが少ない瞳を瞬かせながら、姉さまは口を開いた。
「……そう。その、例の地上の男が土砂の中で生き埋めになってるかもしれないと言う事?」
「そうなの! だから、まずは掘り出して家に連れて行くわ。それで、仙具や術を使って応急処置をした後に戻ってくる」
「でも、見た感じ崩れた範囲は広かったのでしょ? 桐鈴一人で見つけられるの?」
「だからいくつか仙具を貸して欲しいの。義兄さまの発明の中に探索器とか通信機があったでしょ」
「あったはあったけど……私は、貴女が行くのは反対だわ」
「どうして!」
「むしろどうして賛成出来るの? 明日は重要な試験があるし、そこでは琴を弾く必要もある。土の中から掘り返す最中に指を怪我したらどうするの? 砂埃を吸い込んで喉を傷めたらどうするの? 疲労を溜めたまま突破出来るような甘い試験ではないのよ」
「……それは、そうだけど」
「天罰が当たったのよ、その男。桐鈴を私欲で地上に拘束して、大切な仙具である天の衣を奪って隠して。桐鈴が無茶をしてまで助けるべき人間とは思えないわ」
「……でも」
 小さい頃から親しんだ方の青い瞳が、今は氷の様だった。分かっている、姉さまの言い分の方が道理なのは。私の中の天秤が、自分の試験よりも弦次さまの命に傾いているから、納得出来ないだけなのだ。
「どうしても気になるっていうのならば、明日試験が終わってから行きなさい。その前に事切れるような男なら、その程度って事よ」
「そんな風に割り切れる訳ないでしょ! 私は、四か月もの間あの方と一緒に暮らしてきたの! どんな理由があったにせよ、弦次さまは過分なくらいに私を気遣って優しくしてくれた! そんな人を見捨てて歌癒士になっても、私は絶対に後悔する!」
「逆に、助けた事でなれなかったらどうするの! 今までの努力が水の泡なのよ!」
「この程度で泡になるような努力はしてないわ!」
 お互いの主張が平行線を辿っているからか、このままではとても決着しそうにない。こうしている間にも、地上ではどんどん時間が過ぎていっているというのに。もどかしさに苛まれていると、傍らにあった姉さまの通信機がぴかぴかと光った。
「あなた? ごめんなさい、今取り込み中で」
『話は全部聞いてたよ。てっきり、君の事だから行かせるのかと思って色々準備していたけど』
「え? で……でも、桐鈴は、明日大事な試験を控えているのよ」
『あの試験って受験回数や年齢の上限は無いだろう? 別に、今回がだめだったって、なるのが遅くなる程度のものなんじゃないの?』
「次があるから今回はいい、なんて、そんな甘い考え許せる訳ないでしょう。実際、何度も受けてる人ほど合格率は下がるのよ」
『それはその受験者の基本能力や実力が見合ってないだけでしょ? 君の妹は、模試で主席取るくらい優秀だって聞いてるけど』
「桐鈴が優秀なのは分かってるわよ。だけど、これからを決める試験なんだから万全の態勢で臨んでほしいし、夜の地上の山の中なんて危なすぎるわ」
 思いっきり横槍が入った形にはなったが、こっちとしては願ったり叶ったりだ。あの義兄が姉に異を唱えるなんて、目の当たりにしていても信じられないが。
『……二人とも、今は家のどこにいる?』
「居間にいるわ」
『わかった。ちょっと待ってて』
 どういう事かと思って首を捻っていると、いきなり目の前が光った。思わず目を閉じてしまったが、とん、と軽い物音がしたので恐る恐る目を開けると……そこにあったのは、離れた自宅に居たはずの義兄の姿。
「あなた!?」
「義兄さま?」
「うんうん、僕の麗鈴はいつ見ても綺麗だね。桐鈴も元気なようで何よりだ」
 そうは言うものの、私には目もくれず一目散に姉さまの方へと向かう義兄を冷めた目で眺めた。この人のこれは今に始まった事ではないし、下手に構われても困るので深追いしないに限る。
「麗鈴は可愛い妹が心配で心配で仕方がないんだろうけど、ここで下手に引き留めて禍根を残すのも嫌じゃない?」
「嫌だけど、そんな悠長な事を言っていられないの。そもそも、明日が試験じゃなかったとしても……こんな夜に地上に行くなんて危なすぎるじゃない」
「まぁね。僕だって……行きたいって言ったのが麗鈴だったなら、どんな手を使ってでも止めるか付いていったけど」
「あなたも一緒にあの子を止めてちょうだい。こんな夜更けに、自分に嘘をついて騙していた男を助けに行きたいなんて許せるものではないわ」
「でも、例の男は人間なんでしょ? 人間は脆いから、一晩なんて置いたらあっという間に死んじゃうんじゃない? それも後味悪い気がするよ?」
「……だけど」
 私の存在を忘れているのか気にしていないのか、べったべたと抱き合いながら姉さまと義兄さまが会話を進めている。ああ、でも、今の会話でどうして義兄さまが私の味方をしてくれたのかは察する事が出来た。
「お願いします。私を地上に行かせて下さい」
 義兄さまが姉さまの頬を撫でたり額を合わせ始めたりしたので、早いうちに決着をつけようと思ってそう切り出した。少しだけ涙を目に溜めている姉さまの青と、邪魔されて不機嫌になったらしい剣呑な義兄さまの金が揃ってこちらに向けられる。
「……あなた」
「うん。発信機と通信機と天界時間の時計、あと諸々は一緒に持ってきたから持っていくといい」
「ありがとうございます。応急処置を終えたら帰ってきて試験を受けて、以降は昼間に通いたいと思っていますので……しばらくの間お借りしていても良いですか?」
「構わないよ。今夜は僕ここに泊まるから、麗鈴の事は心配しなくていい」
「……姉さまを宜しくお願いします」
 いざとなったら通信機を使って姉さまに相談しようと思っていたけど、姉さまの助力は諦めた方が良さそうだ。姉さまが私と一緒に地上に行く、というのを無事に阻止出来たのだから、絶対にこの義兄は今晩姉さまを離さないだろう。
「桐鈴」
「姉さま?」
「絶対に、絶対に無茶しちゃだめよ。何かあったら、すぐに連絡して」
「うん」
「何か食べる物と飲み物も持って行って」
「分かった」
「あと、この上着貸すわ。仙術使う事があるかもしれないから」
「……ありがとう、姉さま」
 姉さまから手渡された羽織に腕を通して、前で紐を結ぶ。横から突き刺さる視線が痛いが、そっちは本人を独占しているのだから上着くらい許してほしい。
「それじゃあ行ってきます!」
 二人にそう告げ、仙具を背負って靴を履いた。天の衣を肩に掛けて、地上に行くための呪文を口にし始める。
(絶対に助け出すから)
 愛する人を諦める気は微塵もないし、試験を諦める気も全くない。二兎追うものは何とやらって言うけれど、私はどっちも掴んでみせる。そのくらい出来なければ、歌癒士として何が成せると言うのか。
「弦次さま。もう少しだけ待っていて」
 祈るように両手を握って、目を閉じる。かつて過ごした地を思い浮かべながら、転移術の最後の文言を唱えた。