第四章 それでも私は(5)

 

「桐鈴!」
「姉さま!」
 天界に帰って来るや否や、文字通り姉さまが飛びついてきた。心配を掛けて申し訳なかったという気持ちと、すぐに出迎えてくれた事への喜びがそれぞれ湧き上がる。ぎゅうぎゅうと強い抱擁を受け止めながら、ぐるりと周りに視線を巡らした。
「義兄さまは?」
「今日は来客があるから家に帰らないとって言ってついさっき帰ったところよ。君も一緒にって言われたけど、桐鈴を待ちたかったから断ったの。試験だってあるんだし」
「……ありがとう」
 嬉しさ半分、恐ろしさ半分といったところか。それでも、あの義兄より自分を選んでくれたという事実が大層に喜ばしい。今度会った時にねちねちと嫌味を言われるかもしれないが、頑張って聞き流そう。
「怪我はしていないわね?」
「してないわ。ちょっと疲れただけ」
「ああ、でも、体が冷えてる」
「向こうは冬の手前だったからね」
「お風呂入る? 沸かしてあるけど」
「そうね、軽く浸かって体を清めてくる。その後は一刻くらい仮眠をとるつもり」
「仮眠から明けたら、最終調整で良い?」
「大丈夫よ」
 こちらに向けられた青い瞳から目を逸らさずに、はっきりと答える。頷いた姉さまに上着を返して、脱衣所にやってきた。
(……流石に、細かい傷はたくさんあるわね)
 琴を弾けなくなるくらいの大怪我とか、歩けないくらいの怪我とか、そういうのはしなかったけれども。でも、道中の草木で薄く切ったり靴擦れが出来たりはしていた。そんな場所にお湯が染みて地味に痛いが、入っている間だけだからと言い聞かせて気合いで耐える。髪を洗って体を洗って、薬草の煎じ液を入れた湯船に肩まで浸かった。
 程よく体が解れたところで、髪に香油を塗って仙術で乾かしていく。好きな香りに包まれて、ようやくほっと一息ついた。
「……例の男はどうだったの?」
「弦次さま? まだ意識は戻らないけど、目立つ外傷もないし呼吸も心音も安定しているから、とりあえずは大丈夫だと思う。来て頂いたお医者さまもそう言っていたし」
「意識が戻らないという事は、戻るまで行くの?」
「そのつもりよ。今日の試験が終わったら準備して、明日には行くわ」
「通いで行くのよね?」
「そのつもりだったけど……結果発表の日までは向こうにいても良いかなって気もするのよね。容体が急変するなんて事はなさそうだけど、やっぱり心配だし」
 ぺたぺたと頬や手に保湿剤を塗りながら答えると、姉さまは何やら難しい顔になってしまった。固い声でそう、とだけ答えて厨の方へと行ってしまう。
「姉さま?」
「お湯沸かしてるところだったから……そうだわ、仮眠するんじゃなかったの?」
「え? ええ、そうね」
「一刻経ったら起こしてあげるわ。とにかく今は、実技の事だけを考えて」
「うん、分かった。ありがとう姉さま」
 いつも通りにお礼を告げる。それで漸く、姉さまは普段通りに笑ってくれた。

  ***

「きついところはない?」
「大丈夫!」
 袖や裾の様子を確認しながら、腕を上げ下げして調子を見る。姉さまのお古の正装なのだけども、まるで私に合わせて誂えたかのようにぴったりだった。
「忘れ物は無いわね?」
「うん。受験票に筆記具に、琴を弾くための爪とか諸々。全部入っているわ」
「それじゃあ、いってらっしゃい。頑張るのよ!」
「はい! 行ってきます!」
 両肩を叩かれつつ激励されたので、元気よく返事をした。満足げに頷いてくれた姉さまの視線を背中に浴びながら、会場に向かって歩き出す。
 早めに家を出たけれど、会場には既に沢山の人がいた。試験前の緊張で沸き立つ人々の間をすり抜けながら、建物の中へと入る。
 自分の受験番号が貼ってある席に座って待機するように指示されたので、荷物を置いて椅子に座った。実技試験では実際に軽症の患者を治療する必要があるから皆着飾っているので、会場内は中々華やかだ。
「次で最後だな。受験番号五〇九、部屋に入りなさい」
「はい」
 説明会に出ず後から説明を受けた関係で、私の受験番号は最後だった。次々に部屋を出ていく受験者を見送っていたけれど、とうとう私の番だ。
「それでは試験を開始する。目の前の患者を治療するように」
「承知致しました」
 試験官へ返事をして、目の前にいる患者に挨拶する。試験の評価に関わるので症状や程度に細かい規定はあるらしいが、彼ら彼女らは有志の一般人なのだそうだ。うまくいけばただで怪我を治してもらえるからと言って、それなりに参加希望者はいるらしい。
(……つまり、目の前のこの女性は、現時点で間違いなく不調を抱えている本物の患者という事ね)
 それならば、更に慎重に診断せねばなるまい。そう気合いを入れ直した後で、断りを入れて具合を確認しどの歌で治療するのが適切かを検討した。
「貴女の症状は指の怪我ですね。足も少し痛めてらっしゃるようなので、伴奏と歌詞を少し変えて歌わせて戴きます」
 淡々と告げると、会場内が少しだけどよめいた。別に、そう言った変更は禁止されていなかったと思うのだが。
「いけませんか? 歌癒士は患者を健康に導くのが務めですから、症状に合わせて臨機応変にすべきかと思ったのですが」
「規定上禁止はしておりませんので問題ありません。ただし、評価の対象は決まっていますので、他の受験者と公平を期すため評価は対象の部分のみで行います。それでも構わないのであれば、どうぞおやりなさい」
「許可を頂きありがとうございます」
 お礼の言葉を告げて、準備を始める。なるほど、本来は指か足のどちらかを治せれば良かったのだろう。別に、どっちも治しきれば済む話だ。
『あなたを苦しめる災いよ この音に乗って余すとこなく飛んでいけ』
 前に歌った軽症治癒の歌は、患部が一か所だけの時の歌だ。今回は二か所だから、複数個所用の歌にする必要がある。だから伴奏と歌詞を変えると言ったのだ。
「終わりました。お加減は如何ですか?」
「ありがとうございます。指だけでも治ればと思って参加したのですけど、こっちまで治してもらえるなんて」
「違和感とか、そういうのは」
「ございません!」
「それなら、良かったです」
 嬉しそうな彼女の笑顔を見て、心がじんわりと温かくなった。毎回こうはいかないだろうが、それでも、こんな笑顔を見られるならば頑張りたいと切に思う。
「試験を終了します。受験者はこちらに」
「ありがとうございました」
 終了の合図が告げられたので、挨拶をして部屋を辞した。後は、結果を待つだけだ。
(今日の笑顔を忘れないようにしよう)
 生まれて初めて、私にとって近しい人以外の他者を正式に治療した。今回の結果がどんなものであれ、あの時の私は確かに、現時点で必要な治療を行って感謝してもらえたのだ。その手応えと喜びは、やっぱり格別だと思う。
(弦次さまも、早く目を覚ますと良いな)
 聞きたい事や伝えたい事、話し合わないといけない事は沢山あるのだけれど。それでも、今はただ……あの人がもう一度目を覚ましてくれる事だけを願っていた。