「起き上がって大丈夫ですか?」
上半身だけ起こしている弦次さまへ、そんな風に声を掛ける。中庭を見ていた彼はこちらを振り向き、ああと頷いた。
「怪我はもう治っているからな」
「そうでしたね。後は目覚めの時を待つばかり……という状況でしたし」
「そう言われると、何だか封印されていたみたいだな」
「似たようなものでは?」
そう呟いて、彼の枕元に腰を下ろす。淹れてきたお茶を彼に手渡すと、ありがとうと言って受け取って下さった。
「……自分を罰するあまり、無意識の内に目覚めてはいけないと思っていたのかもしれんな」
そんな彼の言葉には答えずに、ずずっとお茶を啜る。彼も湯呑に口をつけたが、熱いと言って必死に息を吹きかけていた。一生懸命な様子が可愛らしいな……なんて思って口元が緩んできたので、ぐっと力を入れて唇を引き締める。
「貴方の罪を許せるのも罰せるのも私だけだというのに。随分と勝手ですね」
「そう言われると反論のしようもないな」
ははっと力ない笑い声が聞こえてきたが、知らぬふりで残りのお茶を飲み干した。彼だって、別に返答を求めている訳ではないだろう。
「…………すまなかった」
「弦次さま?」
いきなり謝罪が聞こえてきて、思わず声をあげてしまった。声音から判断するに、恐らく本心からの言葉だろう。それならば耳を傾けてみるかと思って、彼に言葉を続けるよう促す。
「一目惚れしたと言うのならば、時間を掛けて距離を縮めるべきだったんだ。桐鈴は俺を知らないのだから、まずは知り合いになるところから始めて、警戒されないよう細心の注意を払いながら事を進めるべきだったのに。焦燥に駆られる余り先走ってしまった」
「焦燥に?」
「そうだろう。ちんたらしていたら、惚れた女性が別の男の恋人になってしまうかもしれないんだ。焦るに決まってる」
「……そうですか」
じわじわと頬が熱くなってきたので、今度は顔ごと彼から逸らした。毅然とした態度で論理的に話を展開し、彼の罪状を洗い出して然るべき償いを……なんて思っていたのに、そんな真正面から謝られた上に曇りのない好意をぶつけられては恰好つける事も出来ない。
「親切にして下さったのは、罪悪感からですか?」
「それが無い訳ではなかったが、半分以上は下心だよ」
「下心」
「好いた相手には想いを返してほしいし、恋人同士になってゆくゆくは夫婦に……なんて考えるものだろう。もちろん本気でそう思っていたから褒めていたし、これは似合うとか喜んだ顔が見たいとかも思っていたからそうしていたが、桐鈴に俺を好きになってほしかったからというのも過分にある」
「……」
とうとう言葉を発する事が出来なくなって、俯いてしまった。耳が熱いので、きっと真っ赤に染まっているのだろう。正直、自分のどこにそう思わせるだけの魅力があるのかがさっぱり分からないが、彼が嘘を言っているとも思えない。
(腹を括るしかないかな……とは思うんだけど)
彼の思惑通りに、私は彼の事を愛するようになった。出来る事ならば、このまま地上にいて彼と一緒に生きていきたいとも思う。だけど、今の私は試験に合格したばかりの新米歌癒士でもあるのだ。資格を得たからにはその使命を全うしたいと思うけれど、そうなると四六時中一緒にいる訳にはいかない。どうしたものか。
「それはそれとして……桐鈴は、償いに何を望む?」
「え?」
「正直天界の方が良い物が多そうだが、伝手だけはあるんでな。上等な着物とか琴とか楽器とか、何なら書物でも良い。物でないものが良いなら数日中にとはいかないかもしれんが、桐鈴が望むならばそれでも」
「な……何で、急にそんな事を」
戸惑いを隠せないまま、弦次さまに問い返す。すると、弦次さまの方が余計に驚いたような顔になってしまった。
「俺の体調はほぼ回復した。もう数日もすれば、簡単な作業も開始出来るだろう。そうなると、桐鈴がこれ以上ここに留まる理由はない。だから、その前にと思ったのだが」
その言葉に、背筋が凍り付いた。貴方はその口で、私を好いているとはっきり言ったのに。理由がなければ、傍にいる事を許してくれないのか。
「……いけませんか」
「何だ?」
「理由がなければ、ここにいてはいけませんか」
「いや、そういう訳ではないが……桐鈴がこのまま此処にいる理由も利点もないだろう? 桐鈴を地上に留めておきたかったのは俺個人の我が儘だ。実際、桐鈴は天界に帰りたがっていた訳だし」
その言葉に、ふっつりと何かの糸が切れたような気がした。彼は私の想いを知らないのだから仕方ないだろうという理性と、人の想いを勝手に決めるなという怒りが、ぐつぐつと腹の中を渦巻いていく。
「私の事を好きだと言っていたくせに、突き放そうって言うんですか」
「違う、違う。好きなのは俺の方だけなのだから、これ以上無理に付き合わせるのはいけないだろうと」
「自分だけだなんて、勝手に決めつけないで!」
叫んだ後で、こんな風に言う気はなかったのにという後悔の念に襲われた。弦次さまは傲慢になり切れない優しい人なだけで、その中途半端な優しさが痛いと思うくらいに私が彼を好きなだけという話な訳で。でも、それを伝えていないのだから、理不尽と怒るのも身勝手である。
「そんな事を言われたら、俺に都合の良いように解釈してしまうぞ」
「構いませんよ」
目は合わせられなかったけれど、返答は出来た。それを聞いた弦次さまは、腕を伸ばして私の手をぎゅっと掴む。口から心臓が飛び出ていきそうになったが、何とか堪えてじっとしていた。
「……本当に良いんだな? それなら、桐鈴も俺の事を好きだと、自分の意志で地上に残ろうとしていると、そう捉えるが」
「一つだけ相談がありますけど……ええ、そうです。私も、あなた、を」
どんどん声が細くなって、震えていった。けれどもいい加減伝えないといけない事なので、覚悟を決めるため大きく息を吸う。思わずこちらからも彼の手を握ってしまったが、弦次さまは咎める事無くそのまま握らせてくれた。
「……私も、貴方が、好きです」
最後の方は、声が掠れてとても小さくなってしまった。それでも弦次さまの耳にはきちんと届いてくれたらしい。上ずった声音で名前を呼ばれて、握られた手を引かれて抱き締められた。
「すまないが、嫌じゃなければしばらくこうさせてくれ」
「嫌なわけ……ないじゃないですか」
「そうか。それなら、しばらく……」
今までの中で一番近い場所から彼の声がする。彼と触れている場所が熱く溶けていきそうで、でも、離れたくはなくて。ばくばくと心臓が煩く鳴っているまま、そろそろと私の方も弦次さまの背に腕を回して抱き着いた。そうしたら、ますます強い力で抱き締められたので、更に二人密着していく。
そうして、彼の気が済むまでずっと抱き合っていた。