(1)

 

 ようやく寝付いた娘を抱き直して、居間に敷いている布団の上へそっと降ろす。ふくふくとした頬を撫でていると、人差し指を握られた。
「眠ったか」
「はい。ぐっすりと」
「珍しくぐずっていたもんなぁ」
「幼心にも、寂しかったのでしょう」
 そう告げると、弦次さまの眉間に分かりやすく皺が寄った。不機嫌そうなのを隠さず隣に座ってきたので、空いている方の手を差し出してみる。指を絡めるように握られて、幸福を実感した。両手に愛する旦那さまと可愛い娘……なるほどここが極楽か。
「こんな小さいうちから早すぎる……成人するなり結婚なんて事になってしまったら」
「その心配も早すぎるのでは?」
 率直な意見を言うと、弦次さまの眉が吊り上がった。握る手に力が込められたのは一種の仕返しかもしれないが、嬉しいばかりなので本末転倒である。
「義姉上夫婦も夫婦だろう。どういう教育をしているんだ」
「あの二人は基本お互いしか見ていないので」
「それにしたって……」
「昔からあんな感じですもの、子供が何人増えようが変わらないでしょう」
 実妹である自分にも止められないのだ。だから、早々に諦めてあの甘さに耐性をつける方が負担は少ないだろう……そう悟ったのは、数年前の事。
『ようやく子供を授かったの』
 姉さまからそんな報告を受けたのは、歌癒士の初期研修が終わって中級組の研修を受ける手続きをしようかと思っていた頃合いだった。義兄にああまで溺愛されている割には遅めだったが、子宝に恵まれる時期なんて特に思い通りに出来ないものだろう。
 そうして生まれた私の初の甥っ子は、年端も行かぬうちから一人で勝手に天の衣を使って地上に行ってしまうようなやんちゃ坊主に育った。義兄は誰に似たんだと言って戸惑っていたようだが、あれでお転婆な気質があった姉さまの子なので、私はむしろ親子だと納得してしまったくらいだ。
 そして、それから更に数年後。ようやく上級歌癒士となり、完全に独り立ちが出来るようになった頃に、私の方も初子を身籠った。今からならば時間に余裕が出来るから、産み育てる事が可能だ……そう告げてから三か月くらいでの発覚だったので、弦次さまに懐妊を伝えた時は何とも言えない空気になってしまったが。だって、そんなに早いなんて思わないじゃないか。勿論、とてもとても嬉しかったけれども。
 そんなこんなで、生まれてきてくれた弦次さまと私の子供は娘だった。黒髪に翡翠色の目という、どちらの特徴も受け継いだ容姿である。性格はこれから分かっていくだろうが、ビワの吠える声を聴いてもてんで起きなかったので、将来は大物になるかもしれない。
『天鈴って言うのよ。宜しくね』
 両親と喧嘩をする度に地上の我が家に家出と称してやってくる甥っ子へ、生まれたばかりの娘・天鈴を紹介したのが一年前。甥っ子には弟が二人出来ていたが妹はいなかったので、自分よりも小さい女の子は初めてだったらしい。なので、最初こそ遠巻きに天鈴を見ていたが、首が座ったからと言って抱っこさせてみたところ……物怖じせずににぱっと笑顔になった天鈴を見て、一目惚れしてしまったらしい。
 それ以降は、喧嘩をしなくても来るようになって、すっかりうちに入り浸るようになってしまった。こちらとしては天鈴の面倒を見てくれているので有り難いが、義兄さまや姉さまにとっては気が気でなかっただろう。自分の預かり知らぬ所で、遠く離れた地上に一人で行ってしまう。そこで何かあったらと思うと心配だった筈だ。
 なので、立派な大人になって天鈴と一緒に生きていくためには勉強も必要だ……と彼に言ってみたら、来る頻度が半分くらいになった。どうやら塾に通い始めたらしくて、そこでは一、二、を争うくらいの成績を誇っているそうだ。認めたくはないが、やはりあの義兄の子供でもあるのだろう。
 そんな彼が、昨日は久々に家族揃ってやってきた。相変わらず天鈴を猫可愛がりしていて、ずっと抱っこしたまま離さなかった。天鈴も従兄に抱っこされて幸せそうに眠ったままだったので、このまま様子を見るか……なんて。そんな風に考えて、とても平和だった昼下がりに、とある出来事が起こった。
『おい、今天鈴に何をした?』
『何だって良いだろ』
『開き直るな。まだ物心つかない天鈴にして良い事ではなかっただろう!』
 めったに聞かない弦次さまの怒号が聞こえてきたので、これは一大事だと思って駆けつけてみたところ。眉を吊り上げて怒っている弦次さまと弦次さまをにらみつけている甥っ子、二人が言い合いをしているにも関わらずすやすやと眠っている天鈴がいた。一触即発の状況だったので、とりあえず天鈴を受け取り事実の確認を開始したのだが。
『……天鈴が大好きでたまらなくて』
『まだ一歳の天鈴の口に』
『問答無用で、口づけた』
 想定していたような危機的な状況ではなかったが、弦次さまは随分と怒っていた。赤ん坊は可愛いものだから、そうしたくなる気持ちはよく分かるが。弦次さまの逆鱗には触れてしまっていたようだった。
 しかし、それでしおれるような甥っ子ではない。私ですら少し怖いと思った怒っている弦次さまに向かって、自分は天鈴を好きだからそうしただけだ、いずれは天界に連れていって自分の花嫁にするのだと言い放ち、彼の両親すら唖然とさせていたのだ。あの二人の呆けた顔なんて見た事がなかったので、とても珍しいものを見させてもらった。
 それで勝手な事を言うなと弦次さまが更に怒り、その怒りにびっくりしてしまったのか眠っていた天鈴が起きて泣き出してしまい、収拾がつかなくなった。こうなっては仕方がないと言って姉さま家族は早々に天界へと帰り、後に残されたのは怒っている弦次さまと泣いている天鈴、大量に作った夕飯をどうしたものかと途方に暮れる私ばかりとなった。
「それにしても、弦次さまがあんなに怒るとは驚きでした」
 何とか天鈴を寝かしつけ、ようやく夕飯にありつけた。今ではすっかり使いこなせるようになった醤油を使った煮物を口に運びながら、率直な意見を弦次さまに告げる。すると、相変わらず眉間に皺を寄せたままだったが、彼が口を開いてくれた。
「むしろどうして桐鈴はそんなに冷静でいられるんだ。娘の貞操の危機だったんだぞ」
「そんな大げさな。あのくらいの赤子の可愛らしさは最強ですから、それでついやってしまっただけのものでございましょう? 子供の戯れですよ」
「桐鈴はあの場にいなかったから分からなかったかもしれないが、あれは戯れで済ませていいような雰囲気ではなかった。天鈴の目をじっと熱っぽく見つめていたし、うっとりとしたような感じだったんだぞ」
「はいはい。でも、天鈴が泣き出したのは明らかに貴方が怒ったからだと思いますけれどね」
「そういう問題ではないだろう……まだ年端もいかぬうちから、あんな事するなんて到底許せるものではないだろうが……」
 ぶつぶつと呟きながら、弦次さまがお酒を煽り出した。姉さま家族が手土産代わりに持ってきてくれた、天界では有名なお酒の一種である。弦次さまはそれなりに酒に強いらしく、時折地酒を飲んでいるとの事であった。
「とりあえず、これ以降は大人げない真似をしないで下さいませ」
「何を言う。二度が無いようきちんと見張っていないと」
「された時点では起きなくて、泣いてもいなかったのでしょう。親ならば、静観するのも大事ですよ」
「だが……万が一の事があれば……」
「向こうだってまだまだ子供です。そんな恐れた事は出来ないでしょうし、姉さまと義兄さまが許すはずありません」
「で、でも、考えたくはないが、もしあの子供以外にも不埒な輩が現れれば……娘を守るのは父親の務めであって」
「危険な目に合わないように細心の注意を払うのは必要ですが、過保護過ぎるのも考え物ですよ。いつ来るか分からぬ事を憂うくらいならば、今目の前にいる私の方へ注意を向けてほしいくらいですわ」
 正直に言ってしまった後で、言い分が子供過ぎただろうかと思ってそっと弦次さまの様子を伺った。当の彼は、驚いたようにぱちぱちと目を瞬かせている。
「……桐鈴」
「何ですか?」
「もしかして、桐鈴は俺に対して怒っているのか?」
「怒っているというか……面白くないとは思っていますけれど」
「面白くない」
「……貴方があんまりにも、天鈴が天鈴がっておっしゃるから」
 貴方の妻は私なのに。そう思って拗ねる気持ちが沸き上がってきて、有り体に言えば娘に少しだけ嫉妬してしまった。そんな情けない事実を曝け出すと、弦次さまの口元がもごもごと動いた。
「言いたい事があるならばお聞きしましょうか」
「いや、違うんだ。ただただ、桐鈴は可愛いなと思っただけで」
「私にも可愛らしさを見出して下さったのならば、相応の行動が欲しいですわね」
「……それならば」
 そこで言葉を切った弦次さまが、立ち上がって移動し私の隣へと座った。彼の分として取り分けた料理は、綺麗に食べ切ってある。私も自分の分は食べ切っていたので、弦次さまをじっと見上げて体勢を整える。残った料理は、明日以降の食事に回せばいいだろう。
「べたな所だが、これで」
 そんな言葉を告げられて、正面から抱き締められた。まぶたを閉じてその先もねだると、望んだ通りに口づけられて口腔を探られる。
 着物の袷から弦次さまの手が滑り込んできたのが分かったが、されるがまま受け入れた。