(2)

 

 たくさんたくさん愛されて、幸福の真っただ中で揺蕩っていたのだが。ふと喉の渇きを覚えたので、厨へと向かった。作りおいていたお茶を一杯ごくりと飲んで、寝室へと歩を進める。何気なく見上げた月がとても美しかったから、少しだけ楽しんでから戻ろうと思って縁側に腰を下ろした。
(……こうして見ると、天界は遠いわね)
 天の衣を使わなければ、限られた山の頂からだけ行く事が出来る仙女や仙人・八百万の神々がおわす天上の国。私が生まれて育った土地ではあるけれども、今はこんなにも手が届かない位置にある。それでもちっとも寂しくないのは、私を一心に愛して慈しんでくれる存在と、心から守りたいと願う存在があるからだろう。
「ここにいたのか」
 その言葉とともに、私の肩へふわりと何かが掛けられた。手触りのいいそれは、私が枕元に置いていた羽織らしい。少し肌寒くなってきた所だったから、丁度良かった。
「起こしてしまいましたか?」
「寒くて目が覚めた……桐鈴が風邪を引いてもいけないし、俺も凍えそうだからもうそろそろ温かい布団の中にに戻らないか?」
「貴方が抱えていって下さるなら」
 そんな風に甘えてみると、弦次さまは難なく私を抱き上げた。そしてそのまま部屋の中へと連れていかれ、先ほどまで睦み合っていた布団の上へと降ろされる。掛け布団を肩まで掛けられて、彼の腕の中にもすっぽりと仕舞われた。
「空を見ていたのか?」
「ええ、月を。満月で綺麗でしたので」
「天界があるのは、月や太陽がある空の上だったか」
「そうですね。生まれ育った場所が手の届かない場所にあるなんて、何だか不思議な気分です」
 つらつらと語っていくと、彼の腕が更に力を増した。逃がさない、とでも言うかのような必死さなので、応えるべくこちらからも腕を回す。
「……桐鈴は、な」
「何でしょうか?」
「今も、天界に帰りたいとか思うか?」
「愚問ですね。私が、貴方とあの子を置いて帰るような薄情者だとでも?」
「……空を見上げる桐鈴が、あんまりにも美しくて儚く見えて、怖くなったんだ」
 いつになく弱い声で、そんな話が告げられる。この場の空気がしんみりとしてしまったので、話題を変えて場の雰囲気の一新を試みた。
「弦次さまは、私がビワに襲われそうになっていたあの時以前から、私を知っていらっしゃったのですよね?」
「え? あ、ああ、そうだよ」
「そして、その時に一目惚れして下さったとお聞きしています」
「そうだが……」
「一体、私のどこをそんなにもお気に召して下さったんですか?」
 それは、彼から向けられる愛情が確固たるものだと分かってからも、ずっと不思議に思っていた事だった。だってお世辞にも、私は異性にもてるような見目の良い仙女ではない。弦次さまは可愛いとか綺麗とか言って下さるが、そんな事それまで家族以外からは言われた事が無かったのだ。
「俺が桐鈴を初めて見掛けたのは、桐鈴が義姉上と二人で一緒に沐浴に来ていた時だったんだ。俺は琴にするための木材を探していたところで、それがひと段落ついたから一休みするためにその湖に立ち寄ったんだが……珍しく先客がいるという事で、どんな人間か確認してみようと思ってな。そうしたら、楽しそうにはしゃいでいる桐鈴を見かけた」
「それでは、その時に?」
「ああ。楽しそうな笑顔が光り輝くようで、義姉上を呼ぶ声が鈴の音のようで……強烈に、脳裏に刻まれ忘れられなくなった」
 私の背を撫でていた手の平が、頬の方をくすぐっていく。思わず声を漏らしたら、吐息すらも逃さないと言わんばかりに熱っぽく塞がれた。彼の侵入を許すと、勝手知ったるとばかりに口中を暴かれる。体の芯の方が、じんわりと熱を持った気がした。
「……私、それでは随分と間抜けな姿を晒していたのではないですか?」
「もう一度鏡を見返して来てくれないか。朗らかで陽だまりのようで、愛らしさと美しさが奇跡の共存を果たしていたぞ。それに……」
「それに?」
 弦次さまこそお医者さまに目を見てもらってきた方が……なんて思っていると、思いがけず言葉が続いたのでつい聞き返してしまった。今は色がはっきりしない彼の瞳を見つめていると、彼の手が私の髪を一房だけ手に取って絡めていく。
「……あんなに紫が似合う女性を、その時に初めて見たんだ。それまでの苦い記憶を一新するくらいに鮮烈で、綺麗で、余計に目が奪われた」
 予想外の理由に、ぱちぱちと目を瞬かせる。くるくると指に巻かれた私の髪に、弦次さまの唇が押し当てられた。
「正式に婚姻の儀をした頃合いに詳しく話したと思うんだが、俺は一応名門と呼ばれる貴族の出身でな。地上を統べる帝という存在に間近で仕える官位や栄誉を与えられたり、政府の中枢に関わったりと、まぁ、そんなお偉いさんを沢山出している一族なんだ」
「天界で言う天帝さまみたいな存在でしょうか」
「そうだな。んで、政府に努める人間たちは、位によって着る事が出来る着物の色が決まっているんだ。特に勤務中は、その位ごとで指定された色の着物を着ていたんだが……紫は、その染料の貴重さや見た目の印象から、最高位に準する色と言われていてな、着られる人間も限られているんだよ」
 この色は、地上ではそんな上等な色だったのか。生まれた時からこの色なので、私にとっては一番身近で慣れ親しんだ色なのだが。
「色の制限は自身だけじゃなくてその家族にも及ぶ。だから、俺の一族は自分たちだけが着られる紫の着物を得意げに着ていた。だけど、まぁ、父方の親戚たちは、その……自分達の利とか益とか、権力に固辞するような輩ばかりでな。奴らが紫の着物を着てる姿を見る度に、相応の気品があるようには思えない、紫の着物は相応しくない、似合わない……そこから派生して、紫という色そのものに良い印象を抱かなくなっていたくらいだったんだ」
 彼の指が、私の頬をくすぐりだす。その指先にちゅっと口づけてみると、お返しに彼の唇そのものが私の唇に触れ合わされた。表面が触れているだけなのに、先ほど熱を持った体の芯がとろりとろりと煮溶かされていく心地がする。
「そんな時に、桐鈴を垣間見た。きらきらと輝く笑顔に見惚れて、なびく紫の髪にも目を奪われて……その時初めて、紫はこんなにも美しい色だったんだと、相応しい人が身に着けていればこんなにも綺麗なんだと、そんな桐鈴自身が美しいと……心から思ったんだ」
 だから、桐鈴は俺に紫の尊さを理解させてくれた恩人でもあるんだよ。そんな話を聞き終えた瞬間、過去の記憶が蘇ってきた。
『どうして私の髪と目は、姉さまと同じじゃないの』
 大好きな姉と違う色の髪が、目が、悲しくて泣いていたあの日。お揃いの色が良かったと、折に触れて泣いていた私に、姉さまがくれた言葉。
『私は桐鈴の紫の髪も翡翠色の瞳も大好きよ。きっと、自分を魅せる時に一番映える色で生まれてきたから、私たちは違う色なの』
 私の髪色が紫じゃなかったのならば、姉さまと同じ銀の髪だったならば。彼に一目惚れされたという事実は、なかったのかもしれない。姉さまの言葉を素直に受け止めないで別の色に染めていたのならば、全然違う未来になっていたのかもしれない。
 私が今弦次さまと夫婦でいられているのは、私がありのままの色彩に納得して、手を加えずにそのままでいたからなのだとしたら。私のこの紫の髪が、弦次さまと引き合わせてくれたと言っても過言じゃないのだ。
 その事実に思い至って、胸がいっぱいになった。小さな事柄が一つ一つ積み重なった先に、今の幸福がある。重ねた事柄が一つ違うだけでも、未来は変わってしまっていただろう。そんなのは嫌だ、彼と結ばれないで別々に歩んでいた未来なんて嫌だ……そう強く、強く思う。そのくらいに、私は彼を愛している。
 感無量で彼にしがみ付いたが、彼の腕は抱き返してくれなかった。どうしたのかと思い確認すると、規則正しい寝息が聞こえてくる。どうやら、私が考え事をしている間に寝入ってしまったようだった。
 無理に起こすものでもないし、明日は琴の授業がある。最近は数人纏めて面倒を見るようになっていたから、みんなをしっかりと指導するためにもきちんと休息をとらねばなるまい。
 すやすやと幸せそうな寝息を零す最愛の人の様子に、頬が緩む。私自身も眠りの世界に誘われるようにと願って、すっかり口慣れた子守唄を口ずさんだ。