第一章 出会いと再会

 ゆらり、ふわり。温かいお湯の中に浮かんでいるかのような心地よい浮遊感の中に、私はいた。

 くるりと周りを見渡せば、そこは一面の白だった。真っ白なソメイヨシノの花びらが、どこからともなく吹いてきた風に飛ばされて舞っている。足元に積もっている花びらまで舞い上げているので、風の威力はかなりのものだ。

 花びらから守るため腕で顔を覆ってじっとしていると、勢いのよかった桜吹雪がふわっと止んだ。そして、はらはらと美しく落ちてゆく花びらの中に、それまでは見えなかったとある影が浮かび上がる。

 影は、青年のようだった。少し外に跳ねた茶色がかった黒髪を持ち、夜空のような深い色の瞳でこちらを見つめている、私よりも年上に見える青年。

 その青年と目があった。その瞬間、彼から柔らかな微笑みを向けられる。その眼差しに鼓動が跳ね、きゅんと胸がときめいた。そして、青年から一切眼が離せなくなってしまう。

 もっと貴方の事が知りたい。貴方の声を聞いてみたい。貴方と色々話して、仲良くなって、私の事も知ってほしい。

 今までにないくらいの胸の高まりが、私を後押しした。勇気を出して、彼に話しかけようと試みる。

 でも、それと同時に再びソメイヨシノが舞いだした。一瞬で視界が真っ白になって、彼の姿が見えなくなっていく。

「……待って!」

 私の叫びも空しく、彼の姿は白にかき消された。

  ***

 はっと目が覚めると、そこにはいつもの天井があった。右の手の甲も一緒に映っているのは、夢の中でも腕を伸ばしていたからだろうか。

「……また、この夢」

 ぽつりとそう一人ごちた。夢の余韻か、まだ胸の動きが早い。

「いつからだったっけな。確か……中学の時?」

 まだぼんやりしている頭を起こそうと思って、口に出して確認しながら記憶を辿っていく。

 最初にこの夢を見たのは、中学に上がってしばらく経ってからの事だった。そして、その半年後、三ヶ月後、一カ月後、二週間後……といった感じで、再び同じ夢を繰り返し見ている。最近では、多ければ一週間の内に二度は見ているのではなかろうか。

「何かを暗示している、とか? まさかね……」

 偶然にしては、やたらと頻度が多い気はするけれども。毎回同じ桜吹雪が舞っていて、毎回その中にあの青年がいるけども。でも、予知夢とか、そういう非現実的な事が私に起こるとはとても思えないし。

 枕元の目覚まし時計を見ると、既に七時前だった。今日からは課外がないから早く起きる必要はないのだけれど、もう目が覚めたのだからと思ってベッドから抜け出す。顔を洗ったり着替えたりした後、長い髪を結ぶために鏡の前に立った。

「……あの人は、髪の長い女子好きかな」

 三年以上夢に現れていて、毎回優しく微笑まれて、それでもその人が気にならない……なんて人はいないだろう。だから、どんな人なのだろうかと思って想いを馳せたり、彼の姿を思い出してため息をついたり、なんて事は……きっと、とても自然な事。

 一之宮春妃、高校一年生、十五歳。初恋相手は、夢の中の人でした。

 ***

「おはよう、父さん」

「あぁ、おはよう」

 そう返事をしながら、父さんがこちらを振り向いた。珍しい事に、既に着替えて身なりもきちんと整えている。普段は、車を運転するのに身なりを整える必要なんぞ無いって言って不精しているのに。

「今日はもう出るの?」

「……ああ。昨日の試験の結果が気になってな。上手くいっていると良いんだが」

「それ、この前言ってたどっかの会社と共同開発するってやつ?」

「そうだ。開発チームのメンバーではないんだが、まぁ、所長だからな」

「そうね。トップが気を配るのは、とても大事な事よね」

 医薬品開発やそれに関わる研究を生業としている、一之宮研究所。私の父さんはそこの所長を務めている。全国で名を知られている……というような有名な企業ではないが、そっち方面では実績も確かで評判も良いらしい。その道では、ってやつだ。

「一旦様子を確認したらまた戻ってくるから、それまでに朝食を済ませて玄関で待っておけ」

 淡々と当たり前のようにそう告げる父さんを……私は、重苦しい気持ちを抱えながら眺めていた。

「そしたらすぐに出られる。今日からはもう課外ないんだろ? 明日以降は早朝に研究所に顔を出す必要はないから、今日だけは……」

「……ううん。私ももう出るわ」

「は?」

「もう一回帰って来るなんて手間よ。父さんはそのまま研究所の方で仕事して。私、今日はバスで行くから」

 そう告げると、父さんの眉間にくっきりと皺が入った。でも、通学路を自分の足で歩けるという機会を逃すわけにはいかない。

「時間があるから、のんびりと歩いてみるつもりなの。道順はきちんと覚えてるし、普段は町を歩いてる人の近くまでいけないから、人のいる中を歩くっていうのやってみたいし」

「……まぁ……そういう時間も、大事だとは思うんだがな。でも……」 

「そうよ。そもそも学校へ通うのに送り迎えなんて。私はもう高校生なのよ」

「春妃の学校じゃ珍しくもないだろう」

「そりゃ、そうだけど……」

 私が通う女子校は、幼稚園から大学までのエスカレーター式だ。有名企業のお嬢様も多いので、そういう光景も珍しくはない。けれども、大半の子は普通に自分の足で通っているのだ。私だって、出来るならそうしたい。

「……なら、あんまり路地の裏とかには入るなよ」

「ええ」

「常に周りの様子を確認して、時々は後ろを振り返るんだ」

「はい」

「そして、鞄は常に車道とは反対の方に持つ」

「私はリュックサックだけど」

「弁当入れにICカードと小銭入れ入れてただろ、それの事だ。そしてバスの中では立つ位置や座る位置には細心の注意を……」

「それくらい、言われなくても分かってるわ。幼稚園児じゃないんだから」

「最近は何があるか分かったもんじゃない」

 そう言って、父さんが立ちあがった。鞄を持って玄関に向かいだしたので、見送るために後を追いかける。

「そういや、もう三月に入ったのか」

「そういえばそうね。公立の高校はもう卒業式があったらしいわよ」

「そんな時期か。なら、春妃の誕生日も近いな」

「ええ、あと三週間くらい」

 靴を履く父さんの背中を見ながら答えていく。履き終わった父さんが、こちらを振り向いた。

「今度の誕生日で、何歳だ?」

「……娘の年くらい覚えておいて。次で十六よ」

「十六、か」

 父さんは、何か思案しているような表情を浮かべ出した。そして、俯きながらもう十年かとか在庫はきちんととか、よく分からない事をぶつぶつ呟きだす。

「どうしたの? よく聞こえなかったんだけど」

「あぁ、いや、独り言だ」

「そうなの?」

「そうだ、だから気にしないでくれ……そうだ、それよりも」

 一度言葉を切った後で、父さんが再び私を見遣る。その、いやに真剣な目に、何か怒られるような事をしただろうかと少しの焦りを覚えた。

「誕生日の日は、きちんと家にいるんだぞ」

「あぁ……それ」

「分かってるな? 一日中だぞ?」

「……何度も聞いてるんだから、分かってるわよ」

 身構えていた分、思いっきり脱力してしまった。父さんの過保護は今に始まった事じゃないし、過保護の理由もきちんと分かっている。だから、誕生日当日に一日中家にいろといういいつけに対しても、きちんと『分かった』って何度も言ってるのに。

「忘れるなよ。じゃ、行ってくる」

 そう言って、父さんは研究所の方に向かった。いってらっしゃいと見送った後で、玄関のドアに鍵をかけて居間の方へと戻る。朝ご飯を食べたテーブルの椅子に座って、ぼんやりと肘をついた。

「……母さんが生きていたら、もう少し融通の聞く人になっていたのかしら?」

 居間に飾ってある微笑む母さんの写真に話しかける。十年前、私が小学校に上がる前に事故で亡くなった母さんは、この写真の中のような温かい笑みを、いつも浮かべている人だった。

 大学時代の一つ下の後輩で、同じ研究室でチームを組んでいて。仕事上でも私生活でも自分にとって大切な存在だった母さんを亡くしてから……父さんは、一人娘である私に対してそれまで以上に過保護になった。もう二度と家族を失いたくないのだと、そう言っていた。

「……さて、私も出るか」

 椅子から立ち上がって身支度して、久々の通学路へと踊るように駆け出した。

  ***

「そういえば、三月に入ったって事は桜の蕾も付いた頃かな?」

 ぴりぴりと痛いくらいの寒さになる時もあるからあまりそんな感じがしないけれど、暦の上ではもう三月だ。枝に蕾が付いて、咲くために膨らみ始めていてもおかしくない。

「まだ時間はあるし……もう人通りも多くなってきたし……」

 きょろきょろと周囲をうかがう。通りには、ランドセルを背負った小学生や指定鞄を肩にかけている中高生も増えてきた。車の往来も相変わらずだ。

「……行っちゃおう、かな」

 父さんの働く研究所は、私の通学路の延長線上から少しだけ外れた所にある。そして、その研究所の裏には一面を草に覆われた小高い丘があって、一本の大きな桜の木が生えていた。

 人通りは少ないけれど車の往来は多いので、小さい頃は一人で行ってはいけないと言われていた場所だ。でも、今はもう高校生だし、既に陽も上っていて視界は良好。そんな危険な事は無いだろうし、少し寄る位なら遅刻する事もないだろう。

 小さい頃から、私はその桜の丘が大好きだった。まだ母さんが生きていた頃、花が咲く時期になると家族三人で花見をしていた、思い出の場所。最も、二人とも忙しかったから窓から眺めるだけで間近で見た事はないのだけれど。でも、あの場所自体には、葉が茂る頃に母さんに連れられて行った事があるし問題ない。

 てくてくとその丘へ向かって歩き出した。せめてもと思って、少しだけ遠回りをしてなるべく人が多い道を進んでいく。

 しばらく歩いて、ようやくお目当ての場所が見えてきた。でも、木まではまだ遠いので、茶色い幹や枝が見えるだけで蕾が付いているかまでは分からない。なので、そのまま歩を進めていった。

「……あれ、誰?」

 木に近付いていくと、その傍らに誰かが立っているのが見えた。並んでいる木と比較してみると、私より背の高い人らしい。

「んー、私が行ったら邪魔かなぁ」

 その人は、静かにたたずんでいた。シルエットから察するに、手を幹にあてて顔を上げているようだ。上の枝の様子を見ているのかもしれない。

 引き返そうか、どうしようか。立ち止まって思案していると視線を感じた。顔を上げて前を見ると、先ほどまで見えていた茶色っぽい頭部ではなく、白っぽい顔の辺りが見える。

 視線を向けられている、見られている。そう気付いた時、なぜか……このまま立ち去ってはいけない、彼の元に行かなければならない、そう思った。

 ほぼほぼ直感のようなもので、理由なんて分からない。でも、そう思ったら止まれなかった。知らない人には二度と付いていくな、近づかれる前に逃げろ。そんな父さんの言いつけは、一切合切頭の中から抜け落ちていた。

 導かれるように、がさがさと先へ進んでいく。木の傍の人の服装がはっきりと分かる位置まで近づいた。まだ寒いからなのか、かっちりとしたコートを着てマフラーを巻いている。コートもマフラーも同系色の色で統一されていて、すっきりとした印象の……青年のようだ。

 彼との距離が縮まれば縮まるほど、反比例するかのように鼓動の速度は大きくなっていった。このまま近づいていったら、私の心臓は音を立てて壊れてしまうのではないだろうか。そんな事を考えてしまうくらいに、私の胸は高鳴っていた。

 胸が高鳴る理由は分からないけど、臆する事なく進んでいく。目的の彼は、その場から一歩も動かなかった。私が来るのを待っているかのように、目を逸らさず、こちらを向いてじっとしている。

 とうとう彼の正面に来た。私より頭一つ分くらい大きい彼の顔を、大きく深呼吸した後で仰ぎ見る。

 彼とまともに視線がぶつかった。改めて彼の瞳を覗き込んだその瞬間、闇夜のような濃い瞳が大きく見開かれる。

「はる……ひ?」

 心地よい低音が耳に響いた。初対面のはずの彼は、はっきりと私の名前を口にした。

(……違う、初対面じゃない)

 茶色がかった、外に跳ねた短髪。夜空のように濃い色の瞳。すっきりとした目元に、きりっとした口元。何度も出逢って、何度も舞い散る白にかき消された、焦がれた人。

 夢の世界でしか会えなかったその人と、現実世界で出逢えた瞬間だった。

 ***

「ええと……君は、一之宮春妃さん?」

 私を凝視したまま、彼が問うた。目つきそのものは、信じられないものでも見るかのようだけれど……体が小刻みに震えだして、瞳も潤み出している。

「……はい」

 なぜ彼がそんな表情をしているのかはわからないけれど、彼は私のフルネームを知っていた。私よりも年上のようだし、新しく研究所に入った新人さんとかだろうか。

 目の前の彼が一歩踏み出した。彼の、その……ただならぬ雰囲気に押されて、私は反射的に半歩ほど後ずさってしまう。

「……やっと……」

 感極まったような声と表情でそう呟いた彼は、私の方へ手を伸ばした。そして、彼が手を伸ばしたという動作を私が認識して行動するより早く、彼の腕に囲い込まれる。

「春妃……」

 ぎゅうと腕に力を込めるのと同時に、吐息交じりの自分の名が耳に吹き込まれていく。予想だにしない展開に、頭の中が一瞬で真っ白になった。持っていた弁当入れが落ちていく音が、ずっと遠くから響いてくる。

「やっと、会えた」

 腕の力が少しだけ緩んだ。そっと顔を上げてみると、目尻に涙を溜めたまま笑っている彼の顔が映る。その顔が、夢の中での微笑みによく似ていて、心拍数が一気に跳ね上がった。そして、それと呼応するように顔が熱くなっていく。

「……あの、あなたは?」

 更に言葉を続けようとしていた彼には申し訳なかったけれど、私の心臓は限界だ。家族親族以外の男性に抱きしめられた事なんてないし、熱っぽい目で見られた事も名前を呼ばれた事もない。そもそも、現実世界では……初対面のはず、なのだけれど。

「どちらさま、ですか? 新しく研究所に来た人?」

 そう尋ねると、それまでは桜よりも濃い色に染まっていた彼の顔から、一気に色が失われた。そして、はっと息を飲み込んで目を伏せた彼は、一旦私を解放してくれる。

「あぁ……そうか。そうだったね」

 自嘲するような笑みを浮かべながら、彼がぼそりと呟いた。何がそうなのか、思い当る事が全くないので尋ねようとしたのだけれど。その前に、彼の自己紹介が始まった。

「初めまして、になるんだね。俺は相沢雪人。大学生だよ」

「大学生?」

「うん」

 そう返事をしながら、彼がしゃがみ込んだ。はい、と弁当入れを手渡される。ありがとうございますと言って受け取る間、ずっと彼は私から視線を外さなかった。

「あの、聞いても良いですか?」

「何をかな?」

「なぜ、ここにいらっしゃるんですか? 来年から研究員として働くから下見……とか、そういうのですか?」

 弁当入れを持ったまま、両手を体の前で合わせながら尋ねる。彼の目からは視線を外さないようにして、彼の返事を待った。

「いや、俺は今度大学の四年生になるから、そういうのではないんだ」

「では、なぜ?」 

 探るように彼を見つめる。すると、自分が警戒されている事が分かったのか、彼の表情が申し訳なさそうなものになった。

「両親が以前ここで働いていたと言う話を聞いてね。それで、近くまで来る予定があったから、遠くからでも見てみようと思って」

「……それで、ここまでたどり着けたんですか?」

「ここに桜の木がある事も聞いていたんだよ。所長一家と一緒に、部屋で花見をしていた事もね」

「……そう、ですか。それなら、不躾な質問でした。申し訳ありません」

 どうもそれだけではないような気がする。それだけならば、初対面のはずの私を抱き締めたりはしないと思う。けれど、私にはそれを問い正すだけの話術と勇気はなかった。

「いや、初対面の人間にはこれくらいでいいんだよ。春妃は可愛いから、話す前から相手を信用するような危ない真似はしない方が良い」

「はい……えっ!?」

 今、彼は何と言ったか。さらっと当たり前のように言っていたからそのまま受け止めそうになったが、可愛いとか言っていなかったか?

「い……今、私が可愛いって……嘘でしょう?」

「嘘なもんか。何で驚くの。俺は事実を言ったまでだよ」

「……はいっ!?」

 かっと体が熱くなって、血が一気に沸騰したかのようになった。落ち着きつつあった鼓動が、再び勢いを増してくる。

「春妃はちゃんと自覚した方がいいね」

「な、何をですか?」

「自分の可愛らしさを」

「ひえっ……!!」

 私はまだ夢の中にいたのだろうか。起きたら、また自室の天井が見えるのだろうか。そう思って何度も目を閉じたり開いたりするのだけれども……目に入るのは毎回、彼の顔と彼が背にしている桜の木だ。

「どうしたの、そんなに目をぱちぱちとさせて」

「……誰のせいだと思っているんですか!!」

 とても現実とは思えない科白を、夢の中の住人だった貴方が、焦がれて止まなかった貴方が言ったから、こんなに戸惑っているのに!

 そう思って、彼を半泣きで怒鳴りつけた。すると、彼は心外だとでも言うように眉根を寄せる。

「遠目から見たんでも分かるくらい、春妃は可愛い女の子だよ。さっきもね、春妃があんまりにも可愛いから思わず見惚れてしまったんだ。それで、目が離せなかったんだよ」

 彼は憎らしいくらいの笑顔で、恥ずかしさで卒倒しそうな言葉を告げる。

「やっぱり、そうだ」

 そう言って、彼が私の両手を握った。私の顔は、耳まで真っ赤になっている事だろう。

「こんなに可愛い女の子……初めて会った」

 私の手を包みこんでいる彼の手に、ぎゅっと力が籠もる。そして、彼の顔が私の方に近寄ってきて、耳元で囁かれた。

「春妃、俺は春妃に一目惚れしちゃったみたいだ。だから、そうだな……まずは、俺と友達になってくれないかい?」

 夢の中の焦がれ人は、予想以上に刺激的な人だった。

  (続)

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