第二章 彼と私、縮まる距離

『本当はね、もう、すぐにでも付き合いたいくらいだけど……春妃にとってはいきなり過ぎるもんね。だから、まずは互いの事を知っていくのが先かな』

 話の展開についていけずぽかんとしている私に視線を向けた後で、彼……雪人さんはにこやかにそう告げた。そして、自分の服のポケットからスマホを取り出して馴れた手つきで画面を操作すると、さらさらとメモを取り始めた。

「春妃は、スマホか携帯持ってる?」

「ええ、スマホ一応持ってます。ネット接続とかは少し制限されてるけど……」

「通話とメールが出来るなら大丈夫。後々はSNSとかのアカウントも教えてほしいな」

「SNSはやってないです。友達や父さんとの連絡は電話かメールで十分だし」

「そっか。まぁ無理にする必要もないし、そのままでいいと思うよ」

 そう言って笑った雪人さんからメモを手渡される。そのメモに書かれた雪人さんの電話番号とメールアドレスを眺めていると、空メールでいいから自分宛てにすぐにメールを送ってほしいと言われた。

「渡しただけで後から送るってなると、メール送りづらかったりするでしょ。そのまま何日も来ない……なんてなるとあれだから、今の内に送っておいて」

「……はい」

 なるほど確かにそうだ。連絡先だけ渡されると、用がない限りなかなか送れない。そこまでするなんて、暗に逃がさないと言われたような気がして一抹の不安を感じたが、ここは気を遣ってくれたのだろうと思っておく事にした。

 ごそごそとポケットの中を探ってスマホを取り出し、新規メールを作成する。数分後、よろしくお願いしますとだけ打ったメールを彼に送信した。

「ん、きちんと来たから大丈夫だね。手間かけてごめんね」

「いいえ」

 返事をしながら、さりげなく彼の表情をうかがった。画面を凝視している雪人さんは、ごめんねと言いつつも嬉しそうだ。

「春妃、時間は大丈夫?」

「え?」

「俺はもう少し一緒にいたいけど、引き留めて遅刻させたら大変だ」

「あ……そう、ですね。もうそろそろ行かないと」

「そっか。じゃあ、残念だけど……一旦お別れだね」

「はい。お気遣いありがとうございます」

「いやいや、良いんだよ。学期の終わり頃になって遅刻するのは嫌でしょ?」

「そうですね」

 そう言い終わると、雪人さんがおもむろに手を伸ばした。そして、小さい子にするかのようにぽんぽんと頭を撫でられる。

「近いうちに連絡するね。それじゃ」

 最後にもう一度微笑んだ後で、彼はそう言って大通りの方へ歩いていった。

 なぜだろう。頭を撫でられた時に、不思議な懐かしさを感じた。

  ***

 近いうちに、と言っていたから二日三日位の間に連絡が来るのかと思いきや、その日の夜には雪人さんからメールが届いた。

「人それぞれ感覚は違うって言うけれど……」

 メールの文面を読みながら、そんな事を呟く。内容自体は、あの後遅刻する事はなかっただろうかと気遣う内容や、明日も同じ道を通るのかという質問だった。

『学校の方は遅刻せずに済みました。明日以降は……』

 そこで、ふと画面を叩く指が止まってしまった。通る道は同じだけど、今日みたいには歩けないだろう。しかし、それをそのまま伝えるとなると、色々追加で説明する事になる。

「それとも、私が所長の娘って知っていた訳だし、今日会った時は制服着てたし……父に送ってもらうっていうだけでも通じるかしら」

 そう考えて、普段は父に送り迎えしてもらっているので同じ道を車で通る事になる、と付け加えて送信した。

「……ふぅ」

 メールなんて、普段からよく送っているのに。送信ボタンなんて、何十回何百回と押してきたのに。相手が彼だと言うだけで、ボタン一つ押すのにもいちいち緊張してしまう。

 研究所の人達と話したり遊びに連れていってもらったりする事があるので、今まで全く男性と接点がなかったわけではない。けれど、あんなにはっきりと可愛い、好きだと言われた事はなかったから……やっぱり、色々意識してしまう。夢の中の彼によく似ている、というのもその一因だろう。

「……あ、返事来た」

 私はメール一つ送るのに小一時間かかったのだけれど、彼は、ものの数分で返事を送ってきてくれた。

『教えてくれてありがとう。親御さんに送り迎えしてもらっているなら、安心だ』

 そんな文面を見た瞬間、私は……そんなに危うく見えるのだろうかと思って、何だか悲しくなってしまった。確かに、それなりの規模の研究所の所長の娘だから誘拐の可能性が無いわけじゃない。それに、街を歩く事があまりないから、世間に疎い所がある事も自覚しているけれど……。

『メールは何時でも送れるから、かえって返信に時間がかかる事も多いだろう? 今までも、夜に送れば返事は翌朝になる事が多かったから、今日の内に返信してもらえて嬉しかったよ』

 そんな、どきっとさせられる一言の後に、おやすみという挨拶で締め括られて、メールは終わっていた。

「……よし、これでいいか」

少しだけ悩んだ後で、迷惑でなかったのなら良かったです、お休みなさいという言葉を彼へと送信した。

  ***

「ふーようやくお昼だー!」

 授業終了と共にそう叫び出した親友に苦笑しつつ、弁当箱を取り出す。向かいに座った親友の夏葉が広げている、三段重ねの重箱の中身を眺めながら、相変わらず豪華だと感心した。

「今日は唐揚げが中心なの?」

「うん! 一段目が大分中津の唐揚げで、二段目が山賊焼と名古屋の手羽先唐揚げなのー」

「おお……まさに盛り合わせだ」

「うん! このために全国から取り寄せたんだ! 揚げるのは自分でしたけど」

「衣まで付いてるのを頼んだの?」

「そうそう!」

「最近の世の中は便利ねー」

「なに言ってんの。まだ若いのに」

「年は関係ないでしょ……」

 呆れたような声を上げた夏葉をちらっと一瞥し、黙々と自分の弁当を食べ始めた。普通の弁当を毎日作るだけでも大変なのに、この親友は毎日三段重ねの重箱に溢れんばかりのご飯を詰めてくるのだ。つくづく、食への情熱がすさまじいと思う。

「そういえばさー」

 視線は唐揚げに向けつつ、夏葉が口を開いた。

「春妃、最近楽しそうだね」

「え、そう?」

「そうだよ! ここ一週間、いつも以上ににこにこしてるもん!」

「いつも以上に……?」

「うん。何か良い事あった?」

「良い事、ねぇ……」

 最近になって変わった事と言えば、雪人さんとのメールのやり取りを始めた事位だ。それでも、朝晩の二回挨拶を中心としたメールが来るだけなので、そこまで大変とは思わない。何十件も来たらさすがに大変だけど、挨拶に加えて今日あった事等について少しやり取りするだけなので、一日の楽しみの一つになっている。

「ほほう、思い当る事があるって顔してるぞ」

「え!」

「春妃は正直だからなぁー」

「え、ええと、その……」

 図星を刺されて、ついしどろもどろになってしまった。別に、隠す事でもないのだけれど、何となく話すのが気恥ずかしい。今まで、恋なんて柄じゃないとか面倒とか、そういう事ばっかり言ってきたから。

「なになに? 顔が赤いけど……さては、彼氏でも出来た?」

「違うよ!」

 間髪いれずに否定する。私の彼氏に間違われるとか、雪人さんに申し訳ない。たとえ、それが本人の預かり知らぬ場所であってもだ。いや、だからこそなのだろうか。

「そんな力いっぱい否定しなくても」

「だって事実だもん! 雪人さんは彼氏じゃない!」

 失言をしてしまった、と言うのに気付いたのは、夏葉の顔に浮かぶからかい交じりの笑みが深まった事で分かった。

「ふーん、お相手は雪人と言う人なのね」

「う……」

「へー、彼氏とか面倒なだけだし興味ない、なんて言ってた子がねぇー」

「……彼氏じゃないもん」

「彼氏ではないにしても、好感は持ってるんでしょ?」

「…………うん」

 最初こそ度肝を抜かれる様な事されたけど、悪い人ではないと思う。メールで会話してても、彼の知識とか話に尊敬できる点は多いし。ついでに言えば見た目も好みだ。

 それに、やっぱり不思議な繋がりを感じるのだ。出逢うべくして出逢った、もともと縁があった……そんな、とても論理的には説明できないような、もどかしい感覚。

 これが、俗に言う『運命』と言うやつなのだろうか?

  ***

『次の日曜日、空いてる?』

 そんな文面に、頭が真っ白になった。急いで手帳を引っ張り出して、予定を確認する。

『大丈夫です、一日空いてます!』

 送信してからも、心臓がばくばくと音を立てていた。予定を聞かれるなんて、何かのお誘いかな、それなら嬉しいな……なんて、やっぱり期待してしまう。

 数分後、届いた返事を見て叫んでしまい、父さんにいらない心配をかけてしまった。

  ***

「す、すみません! 遅れてしまいました!」

 そう言って半泣きで駅の改札口に現れた私に、振り返った雪人さんが笑いながら大丈夫だと言ってくれた。

「俺も十分ほど前についたから、そんなに待ってないよ。そもそも、遅れたといっても五分だけだ」

「で、でも、待ち合わせなのに遅れるなんて」

「はは……。春妃はいい子だね」

 優しげな眼差しをこちらに向けて、雪人さんがそう言ってくれる。その微笑みが、私に喜びと少しの不満をもたらした。

(そりゃあ、大学生から見たら高校生なんて子供かもしれないけど……)

 そんな考えが脳裏に浮かんで、自分で自分に少し驚いた。これ以上の子供扱いを父さんに嫌という程されているから、それ以外の人からの分でも、不満に思う事よりも呆れる事の方が多かったのに。

「待ち合わせは人との約束だから。人との約束は守らないといけないって、昔母が言っていたんです。だから」

「へぇ。しっかりした親御さんだね。あぁ、だから春妃も見た目の割にしっかりしてるのかな」

「見た目の割に……?」

 どういう事かといぶかしんで眉根を寄せると、彼は私の耳元に顔を寄せて再び口を開いた。

「可愛らしい見た目とは裏腹に、って事だよ」

 そんな歯の浮くような科白をさらりと告げると、雪人さんはちらりと駅の時計を確認した。

「もうそろそろ出そうだね。一旦構内に入ろうか」

「はい!」

  ***

「うーん、どっちがいいのかなあ……」

 二冊の本を手に取りながら、そんな事を呟いた。

「春妃、ここにいたんだね」

「あ、はい。雪人さんの方は……」

「俺はもう決めたよ」

 そう言った彼は、一冊の本を私に見せてくれた。

「これ、薬の本……?」

「さすがだね。その通りだよ」

「一応、研究所の娘なので……」

 雪人さんが持っていたのは、新薬開発に関わる話の本だった。見た事のない表紙なので、新しく出た本だろうか。

「春妃は薬に興味あるの?」

「ええ、まぁ。化学とか生物とか好きですし」

「へえ。やっぱり御両親の影響かな?」

「かもしれません。小さい頃から研究所に出入りしていたから、色々見せてもらってましたし」

「ふーん……」

 そう言いながら、少しだけ雪人さんの眉間にしわが寄った。でも、それも一瞬の事で、直ぐにいつもの笑顔に戻る。

「春妃はまだ選んでる最中かな? 参考書が欲しいって言ってたよね」

「はい。一応、候補は絞ったんですが……どちらにしようかで迷っていて」

「ちょっと見せてくれる?」

「あ、はい」

 返事をして、手に持っていた二冊の参考書を雪人さんに手渡した。ぱらぱらと中身を見ながら、彼がぼそぼそと呟く声が聞こえる。そんな真剣な横顔を、心臓が逸るのを感じながら眺めていた。

  ***

 彼が選んでくれた参考書は私に合っていたらしく、随分勉強の効率が上がった。前は三十分以上考えても良く分からなかった問題が、その半分くらいの時間で理解できるのだ。

「そのおかげでこの前の小テストも満点取れたし……何かお礼するべきだよね」

 小テストが満点だった事を父さんに告げると、顔には出さなかったものの父さんは喜んでいたようだ。さすが俺達の娘だ、という呟きが居間を通りかかった時に聞こえてきたので間違いない。その次の日には、必要な勉強を真面目にやっているようだから、友人と一緒であれば次の日曜日に少し遠出をしても良いという許可までくれた。

 少しためらって、考えて。スマホを取り出して、震える手で新規メールを作る。宛先を選ぶのにも、件名を考えるのにも、本文を打つのにも随分時間がかかってしまった。

「……えい」

 ぽん、と画面を叩く。たったそれだけの事なのに、その後もしばらく動悸がおさまらなかった。

  ***

「春妃!」

 満面の笑みで私の元に駆け寄ってきてくれたのは、今まで見た中でも一、二を争うくらいの嬉しそうな笑みを浮かべた雪人さんだ。

「今日は誘ってくれてありがとう。メールが来た時は夢かと思ったよ!」

「そんな、大げさな……」

「大げさなもんか。まさか春妃の方からなんて……本当に嬉しかったんだよ!」

 熱っぽい瞳で見下ろしながら、雪人さんが私の手を握る。手から伝わる体温がいつもより高い気がして、こっちの方まで熱くなってきてしまった。

「と、とりあえず、出発しましょう?」

「そうだね。せっかく二人きりで出掛けるんだ。ここで立ち止まっていたら、もったいない」

 さぁ、行こう。年よりも幼いくらいの嬉しそうな表情で、雪人さんがそう言って私の手を引いて歩きだした。

  ***

「んー、やっぱりここは居心地がいいなぁ」

 雪人さんに連れてこられたのは、普段使う駅から二つほど離れた駅の近くにある植物園だった。出かけないかと誘ったものの場所が浮かばなかったので、彼に希望を聞いた結果そこにしようという話になったのだ。

「……ここ、よく来られるんですか?」

「ああ、うん。日本に来た時は必ず来てるんだ」

「そうなんですね。植物がお好きなんですか?」

「それもあるけど、ここは静かで雰囲気がゆったりとしてるだろ? 昔から、弁当持って日がな一日植物を見て、のんびりと過ごす事が多かったんだ」

「……へぇ、優雅ですね」

 何かをずっと見ていられるって、なかなか出来る事ではない。私も、自分には多少せっかちな部分があると自覚しているから、手を動かさずに何かを眺めるというのは出来ない方である。そんな事無いと思うんだけど、何もしないのはもったいないって思ってしまうのだ。

 そう思って素直にそう告げると、それを聞いた雪人さんは一瞬だけ固まって……いきなり笑い出した。お腹を抱えているからつぼに嵌ったようだが、何がそんなにおかしいと言うのか。

「ふはっ、ははは……まさか、そんな返答が来るとは」

「何がおかしいんです」

 むっとした表情を取り繕うのも忘れて、彼に向ってぼそりと呟いた。不機嫌そうな私の顔を見たからなのか、雪人さんは笑いつつもごめんごめんと謝ってくれる。

「だって、誰もそんな事言った事無いもの。大体は、そうなんですねで流すか、もっとアクティブに行動しないと人生勿体ないぞとかそういうお説教だったからね」

「……前者はともかく、後者の言葉を言って来た人って人の趣味にけちをつけられる程高尚な人物なんですかね」

「まぁ、そういう人は、たぶん能動的に何かをして余暇を有効活用する事で、自分を高めるべきだ……と考えている意識の高い人なんだろうよ」

「そういう人が本当にハイスペックだった事ってあんまりない気もしますけど」

「それは言ってあげない方が良いね。口論になる」

 本当に自分を高めたいと思っている人は、インプットも大事にするだろうと思う。そして、正確な知識を頭に入れるだけでなく、それをきちんと理解してから共有したり行動に移したりする事で、その知識を確固たる自分のものにする。そういった一連の行動を丁寧に行う事でより洗練された人間に成れると思うし、そういう人がいわゆるハイスペックな人と言えると思うのだ。

「植物を良く眺めているならば、やっぱり今日は違うとか同じ種類の木でも個性があるとか、気づきも多いですか?」

「学者ではないから直感的なものばかりだけどね。なんか違うなーとかこう伸ばしてきたかー、枝。みたいなのはあるかな」

「へぇ……」

 盆栽いじってるおじいちゃんみたい、という感想が喉から出かかったが寸での所で押し留めた。盆栽やってるおばあちゃんも若い人もいるのだから、そう言ってしまうのもいかがなものか。いや、そもそもそういう問題ではないのかもしれないけど。

 その後も、つらつらと互いの話をしていった。学校の事、生活の事、好きな事、嫌いな事……話題は、全く尽きる事がなくて。自分の話に豊かな反応を返してもらえるというのが嬉しかったし、聞いてもらえるのが嬉しかった。だから、彼に問われるままにこちらの事を語って、彼の事もたくさん問うた。その度に、彼は嬉しそうに詳細を答えてくれた。

「……立ち入った事で申し訳ないんだけどね」

 話がひと段落して互いに持っていた飲み物を一口ずつ飲んだ後で。それまでの様子が一変して、急に真剣な眼差しになった雪人さんにそう問いかけられた。そんな彼の瞳にどきりとしながら、何でしょうかと返事をする。普段はにこにこ笑っているから忘れがちだけど、雪人さんはかなり綺麗な顔立ちをしているから、そうやって真顔になられると心臓に悪い。

「春妃のお母さんは、どうしてるの?」

 家族の話をしているのにお父さんの話ばかりだから、と言われて、思わず息を飲んで口を噤んだ。別に、今更激情に駆られる事はないし避けたい話題でもないのだけど、一から説明するのは久々だから。ちょっとだけ、動揺してしまったのだ。

「……私の母は、十年前に亡くなりました」

 今度は、雪人さんの方が口を噤んでしまった。ごめんね、聞くべきではなかったと話が打ち切られそうになってしまったので、大丈夫ですよと微笑んでみせる。

「私が小学校に入学する直前でした。当時の事はあんまり覚えていないので聞いた話なんですけど……車との接触事故だったと」

「そうか……」

 そう呟いた後で、雪人さんは何事かをもごもごと呟いた。微かに聞き取れたような気もするけど、はっきりとは分からなくて。だから、どうしたんですかと尋ねてみたけれど上手くはぐらかされてしまった。

「それ以来、ずっとお父さんと二人暮らしなのかな?」

「はい。研究所の人達も皆で面倒見て下さってたので、寂しいとか悲しいとかって感情を抱く事は少なかったですけど」

 多かったのは、もしこうだったのならどうだっただろうかという漠然とした空想だ。友達や先輩、後輩が自分の母親について話してくれる度に、母さんが生きていたらそんな話したのかな、とか一緒に出掛けたりしてたのかなってぼんやり考えていた。

「春妃は、周りに愛されて育ったんだね」

 しみじみと言われて、面映ゆさに俯いた。確かに、両親そろって子供がいる……といった世間一般で言われている家族構成とは少し違う環境ではあったが、周りの人達が大切にしてくれていたのは十分理解しているし、感謝しているのだ。

「……出来る事なら、その頃に一緒にいてあげたかったな」

「その頃?」

「春妃のお母さんが亡くなられた直後くらいに。君の事を、傍で支えられたら良かったのになって思ってさ」

 今更言っても仕方ないのにね、と雪人さんが力なく笑った。彼が辛そうに、苦しんでいるように見えて、こちらまで苦しくなってくるような気がして。何とか元気づけたくて、気が付いた時には、私は彼の手を両手で握りしめてその瞳を見つめていた。

「過去には出来なかったとしても、今一緒にいて下さってます。私の話を聞いて、困ってる事を聞いて、貴方なりの言葉を返して下さってます。だから、そんなに悲しまないで下さい」

 彼の黒い瞳が、ぱちぱちと瞬いた。次いで、かっと耳の方まで朱に染まる。はるひ、あの、と焦ったような声音が聞こえてきて手を振り解かれそうになったので、握る力を強めた。

「こうやって今一緒にいてくれてる事が、私の話を聞いてくれて、私に色々話してくれるのが、嬉しいの。だから、貴方はそれでいいんです」

 言いたいと思った事を言い切れたので、ほっとして手を放す。赤い顔のまま呆然としている雪人さんが、はくはくと口を開いて声にならない言葉を紡いだ。

「雪人さん?」

 聞き取れなかったので、聞き直すべく問い掛ける。よく聞こえるようにと思って少し距離を詰めると、彼は明後日の方向に手をぶんぶん振りながら後ずさった。

「あ、あり、が……とう……」

 さっきよりも、距離は離れてしまったけれど。私に聞こえる声で、そう言ってもらえたから。そう言ってもらえたのが、嬉しかったから。

「こちらこそ、ありがとうございます!」

 お礼にお礼を返して、笑ってみせた。

  ***

「わざわざすみません、家まで送ってもらうなんて」

 植物園が閉園の時間を迎えた事でお開きになり、今日はこの辺でという事になったのだけど。通学時に送り迎えしてもらっているなら今回もその方がいいだろう、と言って雪人さんが家まで送ってくれる事になった。

 私を自宅まで送り届けてくれるとなると、彼にとっては結構な遠回りになってしまう。そんな申し訳なさと、ほんの、ほんの少し……自宅の場所が知られるのはまずいのでは、という警戒心があったのだけど。小さい頃に何度かお邪魔させてもらった事があるから場所は覚えているし、春妃に何かある方が大変だと言われたので、厚意に甘えさせてもらう事にしたのだ。

「良いんだよ。これくらいは、させてくれ」

「これくらいって……結構な遠回りじゃないですか」

「歩く距離が長くなるだけで春妃の安全が保障されるなら、安いものだ」

 そんな言葉に、そんな大げさなと笑って見せようと思ったのだけど。彼は、至極真面目な表情でその台詞を言っていた。

(どうしてそこまで……)

 そう思わなくもないが、彼の真意が分からない以上考えても仕方がない。なので、取り敢えずありがとうございます、とお礼を伝えるだけに留めた。

 しばらく並んで歩いていると、見慣れた我が家が見えてきた。ああ、あの家だったよねと確認されたので、首を縦に振って肯定する。門の前に来て、門を開けてくぐろうとしたところで、雪人さんに呼び止められた。

「今日は、誘ってくれて本当にありがとう。春妃からのお誘いというだけでも嬉しかったのに、こうやって一日一緒に居られて最高の気分だったよ」

「そう、ですか」

「……春妃はつまらなかったかな。植物園で植物眺めながらお弁当食べただけだったもんね」

「いえ! そんな事は! ないですけど!」

 つまらなかった訳ではない。私にとっても、今日はとても楽しいものだった。メールとか電話でのやりとりもしてたけど、やっぱり、こうやって顔を合わせた方が何倍も楽しかったし……嬉しかった。彼が思っているよりもずっと、私は、彼と一緒にいたいと思っているし一緒にいるのが楽しいと思っているのだ。

 だけど、時折感じる息苦しさがどうしても拭えない。どうして、そこまで、と。どうして、そこまで……という違和感が拭えないのだ。

「……門の前で、何をやっているんだ」

 何となく詰まっていた空気を切り裂くような、鋭い声が聞こえてきた。はっとして振り仰ぐと、不機嫌そうに顔を歪めている父さんが仁王立ちになっている。

「お騒がせしてすみません。日が沈み始めた時分にお嬢さんを一人で帰すのも危ないと思って、こちらまでお送りしたところだったのです」

「……それは感謝申し上げるが、ここまで送り届けたのならばもう用は済んだだろう。この時期はまだ冷える。娘が風邪を引いたらどうするんだ」

「……申し訳ありません。そこまで気が回りませんでした」

 妙に緊迫した雰囲気の中で、父さんと雪人さんが会話している。下手に口を挟んだりするのも、身じろぎしたりするのさえも憚られて、ずっと息を殺して動かないでいた。

「それじゃあね、春妃」

 ふいに名前を呼ばれて、驚きで体をびくりと震わせた後で何かと問うた。彼がこちらに向けている顔は、もういつもの柔和なものに戻っている。

「今日はありがとう。またメールするね」

「は、はい……こちらこそ、ありがとうございました」

 何とか言葉を絞り出し、彼へ何度目かのお礼を告げる。それを聞いた雪人さんは、ふわりと笑いながらこちらに手を振り、来た道を戻っていった。

「……もう入るぞ。これ以上いたら風邪を引いてしまう」

 私たちのやり取りをじっと眺めていた父さんに促されるままに、門をくぐって玄関へと向かった。

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