画面の中で朗々と歌う君。画面の中で踊る君。キラキラで眩しくて、カッコよくて。自慢の幼馴染である事に違いはない。
(……随分遠くなったなぁ)
持っていた譜面を握りしめながら、ぼんやりと考えた。もし、もしも……あの時私が事故に遭わなかったなら。事故に遭って、足に後遺症を負わなければ。ピアニストの夢を叶えて彼と一緒に舞台に立つ……なんて未来も残っていたのだろうか。
「ただいまー」
出掛けていた母さんが帰ってきたようだ。お帰りと返事をしながら振り向くと、母さんの視線が私の手元に向けられる。
「もう試験は全部終わったんじゃなかった?」
「終わったよ。これは、別の分の練習」
「そう。相変わらずピアノが好きねぇ」
呟く母さんの声を聞きながら、ソファに座って改めてテレビを眺めた。画面の中では、相変わらず幼馴染が堂々と歌唱を繰り広げてきびきびと踊っている。その度に歓声が上がって、暗いものがじわりじわりと心の中を這っていった。醜い感情に支配される前に、頭を振って追い払う。
「そう言えば知ってる? 春斗君、三月の始めの方に一週間くらい帰ってくるみたいよ」
「知ってる。メール来てた」
「あらそうなの。相変わらず仲良いわね」
感心している母さんへ曖昧に返事をし、画面から目を逸らすように自室へ戻った。抱きしめていた楽譜を開いて、ぱらぱらと中身を眺めていく。
「……もう、約束なんて忘れてるかもしれないのに」
メールが来たのだって三年ぶりだ。この三年、画面を通してしか会っていないのだから、今も仲が良いのかと言われると甚だ疑問である。
「……春くん」
何とはなしに呟いたが、虚しく響いただけだった。物心つく頃からずっと一緒で、どこに行くにも一緒で、私の世界にはいつだって等身大の彼がいた。
「……今も好きなのは、きっとこっちだけ」
せめてせめて、幼馴染の肩書だけは捨てたくなくて。ささやかな約束に縋って。格好悪いったらありゃしない。
けれど、細い糸一本だけでも繋がっていたいと、そう願うくらいには。私はまだ彼を好きで忘れられないでいるのだ。
***
あれは中学生の時。冷たい雨が地面を叩きつけるように降っていた日だった。
『じゃあまた明日ね』
その日の放課後はたまたま彼に用事があったから、私は一人で帰宅していた。いつも通りに角を曲がって、道を通って……違ったのは、信号を待っていたらスリップした車が私に向かって突っ込んできた事。跳ね飛ばされた私の体は宙を舞い、したたかに腰と足を打ち付け、そこで意識が途切れた。
『冬子ちゃん!』
目が覚めたのは、それから三日後だったらしい。ぼんやりと見慣れぬ天井が見えた後で、よくよく知った声が私の名前を呼び、よくよく見知った顔が目の前に現れた。
『春くん? どうしたの?』
『どうしたの、じゃないよ! 心配したんだよ……!!』
彼が泣くのを見るのは、随分と久々の事だった。小さい頃は木目が顔に見えて怖いだの雷が怖いだのと言って、しょっちゅう泣いていたけれど。
『……ごめんね春くん。約束は守れそうにないや』
派手な事故に見舞われた割に、私の脳や臓器のほとんどには異常がなかった。目も見えるし耳も聞こえるし言葉も話せる。腕も手も動いた。
けれど、地面に叩きつけられた時の衝撃で私の下半身の神経には ダメージが残ってしまい、リハビリを頑張っても元通りにはならないとの事だった。歩けるようにはなるだろうが、走る事は出来ないだろうし、足に負荷が掛かるような事は難しいと。
だから、私は夢を諦めた。指に、手に、腕に、思いを込めて全力でピアノを弾く事が、思うままにペダルを踏んで全身でピアノを弾く事が、これからの私に出来ないならば……それは私の理想のピアニストじゃないから。
『それなら、新しい約束をしよう』
『新しい約束?』
『俺が、冬子ちゃんの分まで頑張って活躍する! 全国どころか世界中で人気になるくらいに頑張る!』
『……うん』
『でね……この町に、凱旋した時にね』
『うん……』
『冬子ちゃんが伴奏して、俺が歌って、二人で一緒にこの曲を演奏しよう』
そう言って見せられたのは、私達が初めて生演奏を聴いた曲。私達の始まりで、原点。
『うん……約束』
『約束!』
そう言われたから、いつも通りに右手の小指を差し出したのだけれども。不意打ちでファーストキスを奪われて、動揺した私は一週間彼と話さなかった。
そして、再び会話を始める事には。幼馴染という肩書の他に恋人という肩書も追加された。
***
「もうそろそろですかね」
「そうねぇ」
落ち着かない心地で彼の事を待っていた。余りにも落ち着かなさすぎるので、彼のお母さんに断りを入れキーボードを弾かせてもらう。何曲か弾いた頃合いで、ピンポーンと呼び鈴が鳴った。
彼のお母さんが玄関へ迎えに行く。私の心臓はばくばくと音を立てていく。ああ、思い出よりも少し重い足音が、どんどん近づいてきた。
「冬子ちゃん!」
直接視界に捉えた彼は、やはり眩しかった。記憶の中よりも少しだけ大人びた、けれど見る者を明るくするような陽だまりみたいな笑顔。座ったままなのも失礼かと思い、よいしょっと気合を入れて立ち上がった……その瞬間。
「会いたかった! 本物だ!」
「そりゃあ本物だけ……!?」
彼の大きな手が、頬に触れた。もう一方の腕が、私の体に巻き付いた。そして、あっという間に彼との距離がゼロになって、彼の唇と私のそれがしっかりとくっついた。
「ちょ……! 何してるの!」
「マジで寂しかったんだって! マネはスキャンダルになるからっていって冬子ちゃんに連絡するなって煩いし、写真も持っとくなとか拷問じゃん! この一週間で向こう数年分を補充しなきゃいけないの! 離さないから!」
「駄々っ子みたいな事言うんじゃない! ここ、春くん家のリビング!」
「じゃあ、このまま俺の部屋に行こうよ。お姫様抱っこで連れて行くね」
「謹んでお断りします! ちょっと落ち着こうか!?」
「ダンスとかで結構鍛えてるし遠慮しなくて良いよ……よいしょっと」
「人の話を聞けー!」
彼が上京する前と何ら変わらぬやり取りが始まって、文字通り目を白黒とさせる。助けを求めるために彼のお母さんの方を振り向いたのだけど、両手を合わせて合唱された。何で。
「ふへへ、帰ったらすぐに冬子ちゃんの家に行って連れて帰ろうと思ってたから手間が省けたや」
「母さんから漬物持たされたのよ……春斗君がせっかく帰ってくるんだからって言って……」
「お義母さんの漬物好きだから嬉しい」
「んん?」
「夕飯も一緒に食べて、今日は一晩一緒にいようね」
「いや夕飯食べたら帰る……んんんん分かった分かった! ちゃんと泊まる!」
もう一度がっつりと口を塞がれたものだから、仕方ないと観念して了承した。私を横抱きにしたままそんな事をやってのけるのだから、器用な事だ。
「……寂しかったはこっちのセリフだし」
春くんの部屋に入ると、彼は私を抱えたままベッドの上にどっかりと座った。抱えられたままの私は、彼の膝の上に乗せられる。
抵抗する気力もないので、春くんに全体重をかけながら三年間溜め込んだ感情をぶつけてみた。
「連絡来ないのも、全然帰って来ないのも、仕方ないって思ってたけど。春くんは都会の洗練された綺麗な女優さんとか可愛いアイドルとかと仕事する訳だし、たまに変な記事出てたりしてたし……だからもう忘れられたかもって、ほんのちょっとだけ思ってたりもしたんだよ」
実際は、流石の彼ももう……と思って、ほぼほぼ諦めかけていたのだけれども。あまりにも変わってない彼へのちょっとした意趣返しである。これじゃあ私が馬鹿みたいじゃないか。
「ああいう記事はこじつけて書いたり拡大解釈して書いたりとかするからなぁ……実際は他の人もいたのに写真トリミングされて根も葉もない事書かれて、こっちも迷惑してたんだよね」
「弁明もなかったし」
「事実無根で後ろめたい事はないから心配しないでねってメールをマネの目を盗んで送ろうとしたんだけど、見つかってスマホ没収されてさ。それからもスマホ勝手に管理される事になって」
「今時そんなのあるのね」
「あったの。だから、今回のメールはオフの日にネットカフェ行ってそこのパソコンから送ったんだ。もっと早く知ってたら、もっと早く冬子ちゃんとのメール再開出来たのに……」
「……そっか」
「今回もさ、マネは休暇じゃなくて故郷に帰って云々って密着取材にしてバラエティだかドキュメントだかにしたかったみたいなんだけど、全力で抵抗したんだよね。取材陣居たら冬子ちゃんに会えないじゃん」
「速攻スクープだろうね」
「俺自身がどうのこうの言われるのはさ、別に良いんだけど……冬子ちゃんが晒されて攻撃されたり、嫌な目や怖い目に会ったりするのは嫌だったし」
ちょっと彼の声が落ち込んできたので、よしよしと頭を撫でてあげる。すぐに目を輝かせてもっととねだってきたので、求められるまま撫で続けた。
「春くんの方はね?」
「うん」
「三年も離れてたら、私が心変わりして別の人と付き合い始めたかもとかって、心配したりはしなかった?」
「考えなかった訳じゃないけど……どんな人間が相手だろうが、取り返せる自信あったし。俺国民的アイドルぞ?」
「あっそ……心配して損した」
「冬子ちゃんが心変わりというよりは、俺の過去を知ったパパラッチ的なのが冬子ちゃんを危険な目に合わせてないかなとかそういう方を心配していた」
「……」
全くなかった訳ではない。流石に、面と向かってあけすけに聞いてくるような人はいなかったが、後をつけられてるような事はあった。けれど、それを言ったら春くんは犯人を捜し当てて相手を抹消しかねないので黙っておく事にする。
「ねえ、この三年会えなくて話も出来なかった分さ、沢山話を聞かせてよ。ああ、大学も合格おめでとう」
「ありがとう。私にも、東京での暮らしぶりとかそういうの教えてくれる?」
「もっちろん。んでさ、ある程度区切りがついたら……」
「ついたら?」
「冬子ちゃんのピアノで歌いたいな。約束してた、あの曲」
「!?」
覚えていたのか。いや、この調子なら覚えていそうだなって途中からちょっと思っていたけれども。でも、そうか、そうか。
「良いよ。ちゃんと練習していたんだから」
泣きたくなるのを堪えて、強がりながら笑って答える。
そんな私の心情を知ってか知らずか、春くんは同じように私に向かって笑顔を見せながら私を抱え直し、もう一度吐息が触れるくらいの距離まで近づいてきた。
それを受け止め、彼の熱に浮かされ溺れていく。私の頬に、一筋涙が伝ったのが分かった。