後編 望めるならばあなたと①

 

 秋満さまの元に嫁いできて、二か月ほどの月日が経った。あの日気づかないふりをした彼への思慕は、消える事無く着実に育っていってしまっている。
「これで間宮家にありますのは全てです。何か使えそうなものはございますか?」
「ありがとうございます。きちんと手入れが行き届いていて生育状態も良さそうなので、十分使えると思います」
「足りない物がございましたら手配致します。何かございますか?」
「そうですね……必要量とかも確認してから判断したいので、後で書面に纏めてお渡しします」
「かしこまりました」
 そう答えた秋満さまの臣下である阿倍野さんは、恭しく頭を下げて彼の元に戻っていった。秋満さまは当主だから、側近である彼も忙しいのだろう。彼の背を見送った後で、もう少し具合を見ようと思い植えられている薬草の前に座り込む。
 この二か月の間必死に情報を集めていたお陰か、神罰の解呪法そのものは見つかった。しかし、その方法は神気が満ちている神界でも行うのが大変だろうと思う位に負担の大きい方法で、地上で行なえば丸二日掛かるようなものだった。当然、何の準備も無しに行えば失敗に終わる確率が高い。
 そんな訳で、今は下準備を進めているという状況である。
「何をしているんだ?」
 ふっと日差しが遮られたと思ったら、頭上には秋満さまがいた。隻眼に見下ろされているという状況だが、浮かぶのはふわふわと嬉しい気持ちばかり。
「薬湯を煎じるのに使えそうな生薬がないだろうかと思って、庭を案内してもらっていました」
「そうだったのか。良さそうなのはあったか?」
「はい。ですので、薬屋に注文するのは足りない分のみで良さそうです……そう言えば阿倍野さんとはお会いしましたか?」
「会ったぞ。その時に心春が庭にいると聞いたから、様子を見にやってきたんだ」
「……そうでしたか」
 私が庭にいると知ったから様子を見にやってきて、それだけでなく声まで掛けてくれた。様子を見るついでに何をしているか聞くというのは良くある事だと思うのだけれども、それでも頬が熱くなってくるのだから恋慕とは恐ろしい。
「心春が作ろうとしている薬湯には、どんな効能があるんだ?」
「簡単に言うと気力と体力の回復ですね。なので、神力を強めておく必要がある私は勿論、秋満さまにもお飲み頂くつもりです」
「俺も? 何故」
「病中病後の体力の回復を目的に飲む事もあるからです。治療される側の方の元気が多少でも戻っていた方が治療する側の負担も少なくなりますし……」
 言葉を続けながら、よいしょっと立ち上がる。彼の瞳や顔を確認していくと、秋満さまは不思議そうなお顔をなさった。
「お疲れでしょう? ただでさえ仕事が多いのに、神罰による発熱のせいで満足に眠る事が出来ていないのですから」
 眼帯が派手だからそちらに目が行きがちで分かりづらいが、よく見ると目の隈も濃いし顔色も良くない。もうじき満月がくる時分だから、きっと熱の方も夜毎高くなっていっている筈だ。それでは、余計に体力を消耗してしまう。
「……すまない」
「どうして秋満さまが謝罪する必要がありますか?」
「心春は術の方に集中しなければならないだろうに、余計な手間をかけてしまった」
「こんなの手間にはなりません。そもそも、術を使う為にも必要なものですから」
「そうなのか? でも、薬湯を煎じるのには時間がかかると聞くが」
「時間は掛かりますね……でも、それ以外にする事もありませんし」
 何か彼の手伝いが出来れば良かったが、業務の方は門外漢でとても戦力にはなれそうになかった。なので、今は術の準備をしつつ空いた時間は地上の医療事情を勉強させてもらっている。似通っている部分もあれば違う部分もあって、なかなか面白い。
「……確か、解呪の術は新月の日に行なうと言っていたな」
「ええ。月読様の力の影響が一番少ないですから」
「それなら、あと半月くらいか」
「そうなりますね」
 急に現実を突きつけられて、少しだけ気持ちが沈んでしまう。医術の勉強が楽しくなってきているので猶更地上に残りたいとは思うが、このままここにいられるかは彼次第なのだ。離縁はしても居候はさせてくれるというのならば、彼の傍にはいられるけれども……そうでないならば、私はここから出ていかないといけない。
「あと半月で準備をしっかりと行なって、必ず秋満さまの神罰を解いてみせますから」
 たとえ、それでも。私を必要としてくれたこの人と、約束したそれだけは。絶対に果たしてみせる。
「心春」
 秋満さまの瞳がこちらを向いた。私は、あと何日この瞳を間近で見つめていられるのだろう。
「……宜しく頼む」
 彼の口が言葉を紡いで、彼の頭がこちらへと垂れる。秋満さまは当主だから、そうそう頭なんて下げてはいけないだろうに。それでも、こうして律儀に接して下さる様は、私の恋慕を抜きにしたって評価されるべき部分だろう。当初の自分を棚に上げ、彼を誤解しないでほしいという思いと、私だけが知っていたいという思いが、それぞれ胸中を渦巻いている。
「はい」
 複雑な胸中を抑え込みたかったのと、言葉を連ねるよりは一言はっきり返事をした方が伝わるかと思ったのとで、それだけを彼に告げる。
 再び視線が合った赤紫の瞳は、やはりとても美しかった。

  ***

「秋満様の方の準備が完了しました」
 部屋の扉越しにそう声を掛けられたので、深呼吸した後で立ち上がる。迎えに来てくれていた阿倍野さんと共に、秋満さまの寝室へと向かった。
「秋満さま、参りました」
「心春か?」
「はい。入っても宜しいでしょうか」
「大丈夫だ」
 了承を得た後で、扉の前で一礼して中へ入る。部屋の中の秋満さまは、寝台の上ではなく床の上に正座していた。
「改めて……宜しく頼む」
 そして、彼はそんな言葉を告げた後で両の拳を左右につき、私へ向かって深々と頭を垂れる。そこまでしなくても良かったのにと思う反面、それほどまでの生真面目さと誠実さを持ったこの人を、改めて心から助けたいと思った。
「承りました」
 彼の思いを受け取って、こちらも相応の覚悟を持って返事をする。それを聞いた秋満さまは、頭を上げて立ち上がり、寝台に腰掛けた。そして、眼帯を固定している紐を解く。
 初めて見た彼の左目は、右目と違って真っ白だった。何にも染まらぬ純白は、美しくはあるけれど……やはり、どこか寂しい印象を受ける。
「心春? どうした?」
 黙ったままずっと見つめていたからだろうか。秋満さまは、不思議そうな表情でこちらに問い掛けてきた。
「すみません。聞いてはおりましたけれど、実際に見るのは初めてだったので」
「見るのは……ああ、俺の左目か」
「はい。視力と色の両方を失ったと聞いていますが」
「その通りだ。神罰の影響だろうから、解呪出来れば戻るとは思う」
「……では、もう一度あなたが元の視力と色を取り戻せるように、熱に苛まれる事がなくなるように」
 告げながら、部屋の端に準備してあった祓串を一本手に取った。紙垂を秋満さまの方に向け、まずは右、次いで左に振ってもう一度右に振る。そして、もう一度白木の部分を握り直し、一呼吸して治癒の神力を練り上げた。
「吐菩加身依身多女」
 先に二礼し一つ目の言葉を唱える。私よりももっとずっと、遠い先祖の神々よ。どうか心穏やかに微笑んで下さい。
「寒言神尊利根陀見」
 そうする事で、神羅万象四方八方を。その中の一つである彼が抱えるものを。
「波羅伊玉伊喜余目出給」
 祓って下さい。清めて下さい。そうして、彼をこの苦しみから解放して下さい。
 祈りを込め、力を込める。その度に疲労が増して冷汗が流れてくるけれど。しっかりと意識を保って詞を唱えた後で、二回手を打ち一礼した。そして、罰を移した祓串を術で燃やす。燃え尽きたのを確認して炎を消し、彼の方へと問い掛けた。
「お加減は如何ですか?」
「……いつもよりは、左目の重さがなくなったように感じる」
 けど完全ではないという言葉に、それでも手応えを感じて少しだけ安堵した。一回だけでも実感があるのならば、あとは回数を重ねれば良いだけだ。
「それではもう一度。この部屋と、隣の部屋に準備している祓串を全て使い切る頃には、きっと完全に解呪出来ましょう」
「……優に千は超えるだろう?」
「それは承知の上です。だって、あの月読様の神罰ですよ?」
 神界を統べる最上神である天照様の弟にして、神界最強の三方と謳われるうちの一人だ。最も影響が少ない筈の新月の今でさえ、ここまでしないといけないのも致し方ないだろう。
「実際に儀式を行なう私も大変ではありますが、ひたすらそれを受け続ける貴方も大変だと思います。生身の人間が、ずっと神力に晒される訳ですから」
「それでも心春ほどではない。だから、心春がやりやすいようにやってくれ」
「お心遣いありがとうございます。では二回目を始めましょうか」
 下手に集中を切らすよりは、出来得る限り連続で行ないたい。理由を告げながら次の祓串を手に取ると、秋満さまは再び寝台に座り直して頭をこちらに傾ける。
 その後は、ひたすらに祓串を振って、数えきれないくらいに神力をのせた言葉を唱え、必死に秋満さまの解放を願った。この人は、罰を受ける必要なんてない。毎晩のように苦しむ必要なんて、ない。だから……だから、どうか。
 使った祓串が五百を過ぎた辺りからは、もう、意識も自我もほとんどなくなっていた。そんな私を突き動かしていたのは、ただただ愛しい彼を救いたいという、それだけで。無我夢中というのは、きっとああいう時の事を言うのだろう。
「心春!」
「奥方さま!」
 最後の祓串を燃やした所で、ぐらりと視界が揺れて床に倒れこんでしまった。暗転しつつある意識の中で、私を呼ぶ声が響く。視線を向けた先にあったのは、私を見つめる二つの綺麗な赤紫。
「……きれい」
「心春?」
「貴方の瞳、一つでも綺麗でしたけど」
 ひとりでに言葉が滑り落ちた。色を失って落ち込んでると聞いていたから、触れない方が良いのかなと思って……ずっと秘めていた、想い。
「二つ揃ったら今は、更に美しいなって」
 透き通るような赤紫は変わらないけど、その周りもぼんやりと赤くなってきた。こういう言葉、言われ慣れていると思っていたけれど違うのだろうか。
「秋満さまは誠実な人だから、きっと」
 一つでも二つでも瞳が綺麗なのでしょうね。霞んでいく意識の中で、零れていった想いを聞いてくれたであろう秋満さまは。
 その綺麗な赤紫の双眸を、大きく大きく見開いていた。