「奥方様!」
見られているような気配を感じて目を開けると、目の前には阿倍野さんと女中のキヨさんがいた。旦那様を呼びに行ってきますと言ってキヨさんはすぐに部屋を飛び出していったので、上半身だけ起こして阿倍野さんの方へと視線を向ける。
「本当にありがとうございます! 感謝してもしきれません……!!」
「解呪……できてました?」
「ええ、ええ! もうすっかり、元通りの様子で!」
「そうですか。足りなかったらどうしようかと思いましたけど……」
「丁度足りたようで……あ」
感極まったという言葉が似合う様子で話していた阿倍野さんが、不自然に言葉を止めた。どうかしましたかと問いかけると、彼はばつの悪そうな表情になる。
「申し訳ありません。奥方様は負担の大きい術を使われた直後なのに、その御身を顧みる事もせずにはしゃいでしまって」
「ああ……それだけ主君の回復が嬉しかったという事でしょう? 忠心から来るものでしょうし、お気になさらなくても大丈夫ですよ」
「寛大なお言葉ありがとうございます。そうです、奥方様はたった今起きられたばかりですし、白湯かお茶かをご用意しましょうか」
「では温かいお茶を頂けますか?」
「かしこまりました」
返事をした阿倍野さんが部屋を出たのと入れ替わりに、キヨさんが戻ってきた。その後ろから現れた秋満さまの顔には、変わらず綺麗な赤紫が二つ並んでいる。
「心春!」
「秋満さま。お加減は如何ですか?」
「やっと目を覚ましたと……俺か? 俺は元気だ」
「良かった」
本人の口から直接聞けて、ようやく本当の意味で肩の荷が下りた。ちゃんと約束を果たせた。ちゃんとこの人を助けられた。それが、本当に本当に、嬉しかった。
「心春の方はどうだ? 起き上がって大丈夫なのか?」
「私ですか? 私は、疲れはまだありますけど……不調はありませんよ」
「そうか」
ほっとした様子の秋満さまと目が合って、どきりと心臓が跳ねた。彼は基本的に口を引き結んだ生真面目な表情をしている事が多いので、ふとした瞬間に現れる笑顔にはまだ慣れないのだ。
「本当に、感謝してもしきれない。ありがとう、心春」
「……こちらこそ。私を信じて下さって、ありがとうございました」
両親を失ってから、私はずっと侮蔑と忌避の中で生きてきた。全員が全員そうではなかったけれど、比喩でなく九割方は私を嘲り下に見て……或いは、お前もいつか暴走して周りを巻き込むのではと恐れて、私の事を避けていた。だから。
『心春で不足とは思わない』
あの言葉は、間違いなく私を救ってくれたのだ。私を恐れず嫌悪せず、素直に力を認めて信頼してくれた事が、本当に、涙が出るくらい嬉しかった。
「……秋満さま」
「……心春」
少しの沈黙の後に、二人同時に互いを呼んだ。心春の方からと秋満さまが譲って下さったので、意を決して口を開く。
「私を、このままここに置いて下さいませんか」
そう告げた瞬間、一瞬だけ秋満さまの赤紫がぱっと輝いたように見えた。しかし、すぐにその煌めきは鳴りを潜め、彼は慎重そうに口を開く。
「それは……神界には戻らずこのまま地上にいる事を希望する、という事か?」
「はい。秋満さまがお許し下さるなら」
「心春は俺の恩神だ。そんな心春が望むというのならば、勿論叶えるさ」
「ありがとうございます」
ひとまず彼の傍にはいられそうだ。その事にほっとしていたら、目の前の秋満さまが急にそわそわし出した。手を握ったり離したり、視線を左右にさ迷わせたり、いつになく落ち着かない素振りだが、どうしたのだろう。
「……部屋はどうする?」
「どうする、とは?」
「心春がこのまま俺の妻でいてくれるならば、部屋を今の場所から移動する必要はない。だが、婚姻関係は解消するというのならば、本邸から離れの方に移動してもらう必要があるんだ。勿論、どちらを選んだとしても不自由の無い様に計らうが……」
揺れていた赤紫の瞳が、真っすぐに私の方を向いた。なるほど、今、私は大きな決断を迫られているのか。
「きっと、気楽でいられるのは離れで居候として暮らす方だ。こちらから要求する事は特にないから、思う存分医術の勉強をしたり町に行ったり好きにしていい。だが、このまま本邸に……俺の妻のままでいるなら、当主夫人として家の管理とか来客の相手とか、そういう事を心春にしてもらう必要がある。確実に、居候より大変だ」
口ではそう言っているけれど。だから無理をせず婚姻関係を解消して気ままな居候を選んでいいと、そういう流れにしようとしてくれている気がするけれど。
でも、私の覚悟はとっくの昔に決まっていた。
「……秋満さまが了承して下さるのならば」
必死に息を整えて、声が震えないように言葉を紡ぐ。口にするのは怖いけれど、でも、心から望むのならばきちんと伝えなければならない。
「私は、このまま貴方の妻でいたいです。妻として、貴方の隣に立って、一緒に生きていきたいです」
どのくらい一緒にいられるかは分からないけれど。私に務まるのかという不安はあるけれど。でも、貴方の隣はもう誰にも譲れないって、その気持ちは確かだから。
彼の返答を待つ間が無限のように感じられた。しかし、待てども待てども、秋満さまは何も言っては下さらない。流石に催促した方が良いかと思ってもう一度口を開きかけたその瞬間……手首を捕まれ引っぱられて、彼の腕の中に囲い込まれた。
「あきみつ、さま」
「一目惚れだったんだ」
上ずった声で彼を呼んだら、予想外の言葉が聞こえてきた。ばくばくと音を立てている心臓は、真夏のように熱い体温は、果たしてどちらのものなのだろう。
「最初は、解呪の依頼のための結婚だから、礼を失さないようにだけ気をつけて、割り切ろうと思っていたんだ」
「そう、ですか」
「だけど、式の日に心春を見て、一瞬で心を奪われた。女性を見てこんなにも心を動かされたのは初めてで、当初の目的を忘れ解呪後も傍にいてほしいと思った」
目尻の方が熱くなって、視界がゆらゆらと揺れ始める。ぎこちない動きで彼の背中へと腕を回すと、更に強い力で抱き締められた。
「でも、心春は神様だ。人間よりも高位の存在で、困っていた俺に力を貸してくれるために来てくれただけなのだから、俺の欲だけで地上に留めてはいけない、目的ありきの結婚の目的が果たされたなら無理強いは出来ない、何より、神を私欲で望むなんて罰当たりだと。この想いは、諦めなければならないのだと」
この人は、どこまで真面目なんだろう。どこまで真面目で、不器用で、優しいんだろう。そんな彼が愛しくて堪らなくて、私の方の腕にも力を込めた。
「私も貴方が好きです」
「こはる」
「私は、一緒に過ごしていくうちに、貴方の事を好きになりました」
好きになった経緯は違うみたいだけど、そんなのは些末事。今確かに、互いが互いを愛しているという事実の方が、余程大切なのだ。
自分の頬に、涙が一筋伝ったのが分かった。伸びてきた彼の手の平に包まれて、その温かさに口元の緊張が解けていく。
そしてそのまま、重なっていく吐息と熱を受け止めた。